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学び続けること ~子供たちの生きる力を育てる

2010年12月24日 02時23分30秒 | 現代日本
 さくらの花びらさんの「日本人よ、誇りを持とう」というブログに「学び続けること」という記事が載っていました。子どもたちの教育に本当に大切な事は何かを考えさせる内容です。江戸時代の寺子屋などの教育もこのようなものだったのでしょう。また武士の子供もこのような勉強をしたのでしょう。明治の時代の日本人が世界を相手に、国家の誇りを守り列強の植民地になることもなく近代化を成し遂げたのは、こうした教育を受けた人々であったからではと思います。また修身という学科もこうした内容を教えたのであろうと思われます。こうした倫理教育は、子供たちの生きる力になっていくでしょう。
以下にさくらの花びらさんのブログを引用します。



 
毎月、4歳の子どもから参加する「論語勉強会」を開催している瀬戸謙介さんはこう書いています。


「私は論語の勉強会を通して、今の日本人が忘れかけた、ご先祖様が大切に伝えてきた日本人としての道徳や倫理観をもう一度家庭によみがえらせ、日本人全体がそれを共有したならば、今起きているような事件はほとんどなくなるものと確信しています。

長い歴史の中で作り上げてきた日本人の道徳や倫理観という生活規範だけでなく、人間として立派に生きていくには何が大切なことなのかという生き方に関わる日本人の心を伝えなくなったがために、今や学校や家庭における教育の荒廃は目を覆いたくなるばかりです。

勉強会に来る子供達が論語を声に出して唱和するうちに、
心躍り、高尚な人間になったような気分になり、
学問に対して興味がわいてきているのが一目でわかります。
そして、人として生きる道、徳を説いた言葉に触れることで、
背筋がしゃんと伸び、それを学び続けることで心の中に芯が生まれてくるのです。・・・」
・・・・・・・・・・

[子いわく、知者は惑わず、仁者は憂えず、勇者は懼れず]

まず「知者は惑わず」とありますが、知者とはどういう人でしょう?
これは一生懸命にいろんな勉強をしていて、たくさんの知識がある博学な人をいいます。
ただし、博学なだけでは知者とは言えません。
何でも知っているだけなら、単なる物知りです。
知者とは、知識をたくさん持っていて、それに加えて
正邪善悪の判断能力のある人でなくてはなりません。
善悪をピシっと区別できる人ですね。

そういう人は迷いません。
どんな出来事が起こっても、判断能力があるから、
「どっちに行こうか」「どうしたらいいか」と迷わないのです。
迷うとは心が乱れることだから、「知者は心が乱れない」と解釈してもいいでしょう。
いつも適切な判断を下せるということですね。

次に「仁者は憂えず」とあります。
仁者とはどういう人でしょう?
これは相手の痛みのわかる優しい心の持ち主のことを仁者というのです。
仏教でいう慈悲の心を持っている人、キリスト教で言う愛の精神を持っている人です。

では「憂い」というのはどういう意味でしょうか?
これは皆さんにはまだわかりにくいかもしれないけれど、思い悩む、心配する、心を痛める
というような意味です。思い悩んでくよくよすることですね。
たとえば、試験が出来なかったときとか、お母さんに怒られそうだと思ったときに、
みなさんは「どうしよう、どうしよう」とクヨクヨするのではないですか?
でも、仁者はそういう憂いがないから、いつも正々堂々としていられるんですね。

どうして仁者は憂えないかと言うと、自分のことに関して、常に心が空っぽだからです。
自分のことよりも人の幸せを常に願っているから、心の中に迷いとか憂いがないのです。

自分がこの立場になったら不利になるとか、
これをやると損するとか、自分のことばかり考えていると、
もし自分が少しでも不利な立場になったら心が動揺するでしょう。
失敗したらどうしよう、これを挽回するにはどうしたらいいだろうとね。
でも、そういう私利私欲が無くなれば、心の中に何も心配がなくなります。
だから仁者は憂えないといっているのです。
わかりますか?

それじゃあ、「勇者は懼れず」の勇者というのはどういう人のことでしょう?
これは簡単ですね。
勇気のある人を具体的に考えてみましょうか。
皆さんのクラスで、ちょっといじめられている子がいたときに、
その子を見捨てないで盾になって守ってやろうと頑張るような人がいたら、
その人は勇気ある人です。
心が強くて、物事に対して恐れずに、立ち向かっていく人。
そういう人を勇者といいます。

もうひとつは人間としての力量が優れていて、
何事にも堂々としていて動じない人も勇者と呼びます。

「懼れず」というのは、怖がらないことです。
恐怖感を感じない、ビクビクしない、すぐに逃げ出さないこと。
だから勇者というのは、どんなに強い相手が来ても、心で負けない人なんです。
力ある人、権力を持っている人の前に出た途端、
心が萎えて自分の言いたいことも言えなくなるような人は勇者とはいいません。
どんな状態でも、正しいことをはっきりと相手に告げることのできる人、
そういう人を勇者というのです。
ただの乱暴者は勇者とはいいません。
腕力がとても強くて、誰も勝てないような人がいたとしても、決して勇者とはいいません。
ここを間違わないようにしてください。

勇気の行動の中には、必ず正義がなければいけないのです。
正義がなかったら勇気とはいわないのです。
それは単なる乱暴者です。

みんなは「匹夫の勇(ひっぷのゆう)」という言葉を聞いたことがありませんか?
匹夫というのは虫けらのこと。
だから「匹夫の勇」というのは、虫けらのような価値のない勇気をいいます。
ただ感情に任せて暴れるような人は、一見すごそうだけれど何も価値がない。
そういうのは、匹夫の勇といって蔑まれます。
だから、君たちが勇気をもって行動を起こすときには、
必ずその後ろに正義があるかどうかを自分の心に聞いて下さい。
正義がなければだめですよ。

世間では、大きい声で自分のことを主張する人、
一見正しそうなことをいってみんなを動揺させて誘導しようとする人がたくさんいます。
そういう人間に限って、自分が不利になるとスッと姿を消してしまうものです。
そういう人間の本質を見極めるために、君たちは知者にならなければいけないのです。

この「知、仁、勇」の一つ一つは独立しているわけではなくて、
それぞれがつながっているものです。
すごく大切な言葉だから、ぜひ覚えておいてください。

「子いわく、知者は惑わず、仁者は憂えず、勇者は懼れず」

*参考:瀬戸謙介 「子供が喜ぶ論語」

引用終わり

さて、生きる力については、国際派日本人養成講座にも、陰山英男先生の教育法について書いてありました。こちらも長文暗唱による教育の成果についての記事です。これもあわせて引用します。なおこの記事が書かれたのは平成14年であり、その当時の情況についての記事です。

ここから引用


■1.10頁全文暗唱!?■

 兵庫県中部にある朝来(あさご)町立山口小学校での事。赴任2年目で4年生を担当していた陰山英男先生は、あるお母さんが家庭連絡に書いてきた内容に信じられない思いがした。

 そのお母さんの男の子は国語が苦手だった。陰山先生が「一つの花」という長い物語の音読を宿題に出していたのだが、「何度も読んでいるうちに全部暗記してしまったようです」とそのお母さんが書いてきたのである。その物語は10頁もあって、とても覚えきれるものではない。

 そこで休み時間にその男の子を呼んで試してみると、その子はすらすらと暗唱を始めた。他の子どもたちも、それを聞きつけて集まってきた。全部暗記などできるわけがない、と思っていた子どもたちも、だんだん進むにつれて、その子を応援するようになった。詰まりかけて、顔をしかめると「あれやがなあれ」と、一生懸命応援する。最後の方では、運動場で遊んでいた子どもたちも駆けつけて、興奮状態になった。その子が最後まで暗唱すると教室中にウォーと大きなどよめきが起きた。

 他の子供たちが、自分も暗唱したい、と言い出したので、陰山先生は、次の算数の時間を国語に切り替えて、暗唱をさせた。3日ほどでクラス全員が暗唱できるようになった。

■2.もっとやりたかったのは素読■

 この出来事をきっかけに陰山先生が調べてみると、いろいろな民族が幼少時の暗唱を伝統的な教育方法として大切にしている事が分かった。たとえばユダヤ民族では、幼い子どもたちにユダヤ教の経典を暗唱させる、フランスでは詩や物語の一節を暗唱させる事を正規の授業としている、等々。

 日本においても素読といって、古典を暗唱させる方法は武家の伝統的な教育だった。この素読はやってみると、生徒たちに一番人気があった。一人の生徒は一年間の終わりにこう感想文に書いている。

 私は5年生でやった学習でもっとやりたかったのは素読です。最初、先生から素読のプリントを渡されたとき、「えーこんなん覚えるのー」と思っていました。けれど、少しずつやっていくと簡単に覚えられるようになっていった気がします。どんどん先生はむずかしいのをだすけれど、少しずつ覚えていくと、すぐに覚えられました。とてもうれしかったです。

 私は、最初「こんなの役に立たないんじゃないの?」と思っていたけれど、私は覚える力がついたのだと思います。よかったなあと思います。

■3.基礎学力は「生きる力」■

 素読を進めていくと、子どもたちは自分自身の力が伸びていることを体で感じ、強い自信を持つ。それがさらにより困難なものにも挑戦しよう、という気概を生む。さらに先人の優れた文章を自分の血肉にすることで、生き方や哲学を学び取る。

 陰山先生はこうした経験から「暗記暗唱は決して子供の個性を奪う学習でなく、基礎基本の力として子供の学力の土台となって子どもたちの高度な学習を支える大きな力となるものである」と主張する。

 この最初のクラスの50人あまりの子どもたちのほとんどは、地元の公立中学、公立高校へと進んでいった。決して受験校ではない。進学塾もない地域である。それなのに大学受験の結果を見てみると、神戸大医学部2名、大阪大学理学部、東北大学歯学部など、並みいる難関校に続々と合格していった。

 個性的な生き方を選んだ子どもたちもいる。国際ボランティアやゲームクリエーターを目指す子もいた。早く働きたいからと高校でたくさん資格をとって、希望の仕事についた子もいる。

 基礎学力はまさしく基礎です。何かを考え、何かを決断し、何かを切り開く力なのです。つまり、すべての子の生きる力となっているのです。

■4.「ゆとり」教育か、基礎学力か■

「生きる力」は、現在の教育行政の中心的な考えとなっている。平成8(1996)年に出された第15期中央教育審議会の第一次答申は次のように主張している。

 まず学校のめざす教育としては、「生きる力」の育成を基本とし、知識を一方的に教え込むことになりがちであった教育から、子供たちが、自ら学び、自ら考える教育への転換を目指す。・・・そうした教育を実現するため、学校は、「ゆとり」のある教育環境で、「ゆとり」のある教育活動を展開する。

 答申での「生きる力」とは「自ら学び、考える」ことを指している。陰山先生の「何かを考え、何かを決断し、何かを切り開く力」とほぼ同様の内容だと考えてよいだろう。しかし、それを実現するアプローチは正反対である。答申ではそのために教科内容を大幅に削減した「ゆとり」教育を主張し、逆に陰山先生は基礎学力を徹底的に身につけさせている。

■5.「ゆとり教育」で「嫌いをつくらない」?■

 陰山先生のアプローチは、実績として前述のように素晴らしい成果をあげている。限られた事例とはいえ、すでにユダヤやフランス、日本の伝統的教育でも実証されてきた方法であり、その効果は疑いえない。

 それでは答申の主張する「ゆとり教育」の方はどうだろうか? 「生きる力」自体を測定する方法がないので、(こういう測定不可能な目標を設定する事自体が大きな問題だ、というもっともな批判はとりあえず棚上げして)、文部科学省での「ゆとり教育」のスポークスマン、寺脇研・大臣官房審議官の目指す所が実現できたのかどうか、という点で、検証してみよう。

 今回の教育改革がめざしているのは、数学に限らず、あらゆる科目で、「嫌いをつくらない」ということです。数学好きをつくることはなかなか難しいことかもしれないけど、まず数学嫌いをつくらないことをやってほしいのです。


 詰め込み教育が「嫌いを作る」、教科内容を大幅に削減して、基本的な所だけをきちんと分からせれば、「嫌いをつくらない」だろう、という考え方である。その結果はどうか。

■6.世界トップレベルになった日本の子供の数学嫌い■

 国際教育到達度評価学会(IEA)が行った調査では、中学2年生で、数学が「大好き」「好き」と答えた割合は、1995年度の53%に対して、99年度には48%と顕著な落ち込みを見せている。国際平均値の72%と比べれば、世界最低水準である。日本の中学生は国際水準を図抜けて数学が嫌いであり、さらにその傾向は悪化している。

 この期間に(数学か理科の)「いずれかの教科の勉強や宿題を3時間以上するという比率は、27%から17%へと大きく落ち込み、これまた世界最低レベルである。

 進学塾大手の河合塾では毎年の入塾者に同じ問題のテストを実施しているが、95年と99年の数学の成績を偏差値で見ると、次のような結果になっている。(理系のみ)

    95年     99年    変化
上位 84.5  81.5   -3.0
中位 57.0  41.5  -15.3
下位 37.2  21.5  -15.7

 成績が中位・下位の生徒の落ち込みが大きい。上位の生徒は塾通いなどでカバーしているのだろう。

 これらの結果を総合すると、勉強時間が大きく落ち込んで、世界最高水準の「ゆとり教育」は達成されたが、中下位の生徒は学校の勉強だけではついていけなくなる。教科が分からないので、数学が嫌いになる。そして今や数学嫌いの率は世界のトップレベルに到達したという次第である。

「ゆとり教育」で「嫌いをつくらない」という寺脇研氏の主張は完全に破綻している。

■7.「百ます計算」と「漢字ドリル」■

 陰山先生の小学校では、もう一つ「百ます計算」という教育を1年生の時からやっている。縦横に10個の数字が順不同でならんでおり、合計100のますを縦横の足し算で埋めていく。これを繰り返しやると、だんだん所要時間が短くなっていって、1年生でも2分を切る子がたくさん出てくる。寺脇研氏からみたら、子供の自由な個性を押し殺す典型的な「詰め込み教育」に見えるだろう。

 しかし、実際にやってみると、タイムがよくなっていくにつれて、子供たちの雰囲気がしっとりと落ち着いたものになっていくという。計算力と同時に集中力がついてきて、写生などにもねばり強く取り組むという姿勢が出てくる。

 もう一つ、漢字教育も反復練習で行っている。新しい漢字の習得は2学期までに終えて、3学期は漢字ドリルを使って復習、3月に全校共通の漢字テストを行う。さらに社会科などで、「源頼朝」「征夷大将軍」「鎌倉幕府」というような小学校で習わない漢字が出てくると、その場で書き順と意味を説明し、ノートに書かせて、分からない漢字が出てきたら、そのときに覚えるという習慣をつけさせる。陰山先生は言う。

 そもそも知識とは、言語と数の組み合わせともいえます。つまり読み書き計算の習熟は、子供たちの学習能力を高めるという働きをもっているのです。こうした基礎的な力は、さらに優れた教材と相まって子供たちの学力をさらに高めていきます。

 この学習能力というものは、学習する中身ではなく学習できる能力のことですから、それは可能性ということでもあります。基礎的なことの徹底反復が教室から消えて久しいですが、それとともに子供たちの荒れや切れというものが増えてきました。子供の負担を減らせば減らすほど子供の状態が悪くなっています。この10年以上の間、社会は子供に対して、何か大きな考え違いをしていたのではないでしょうか。

■8.「学級崩壊」は「よい方向に変わってきている」!?■

 陰山先生の指摘した「荒れ」や「切れ」について、寺脇氏はどう考えているのか? 

「学級崩壊」のような現象も、まだ一部にはあって、その解消には全力をあげなければなりませんが、全体としては少しずつよい方向に変わってきていると、私は思います。


 こう「思う」根拠を寺脇氏はいっさい示していない。さまざまな地方自治体の調査では、小学校の10%~20%程度が学級崩壊を経験している。また、文部省自体のデータで、校内暴力の発生件数が中学においても、高校においても、激増している事実が示されている。中学校の発生件数で見ると、昭和60年頃までは減少傾向にあって、年間2千件程度にまで減っていたのが、それ以降、上昇傾向に転じて、平成8年には8千件を超えた。「まだ一部にあって」、「少しずつよい方向」とは、まったくの逆で、事態は加速度的に悪くなっているのである。

「ゆとり教育」が実施されたのは昭和55年であるから、その5年後くらいから、影響が出始めて、犯罪件数が増えだしたと考えられる。まさに陰山先生の指摘どうりなのである。

 寺脇氏自身の実績も、この指摘の正しさを実証している。氏は平成5年から8年の間、広島県の教育長を務めており、高校進学希望者は入試で0点でも全員入学できるという「高校全入」政策を押し進めた。その間、広島県の学力は急降下し、国公立大学入試センターで平成2年には全国都道府県中21位だったのが、8年には45位と全国最下位レベルとなった。犯罪を犯す少年の比率は、千人当たり23.9人と全国一位(平成9年)である。こういう失敗をした人間が、その責任も追求されずに中央官僚として「ゆとり教育」をさらに押し進めているのである。

■9.子供たち同士のすれちがい■

 陰山先生は「ゆとり教育」と「学級崩壊」の関係を次のように明らかにしている。

 この10年間、学校現場は生きる力や新学力観という言葉の理解に悩んできました。学力を知識の量ではなく、自ら学び、自ら考える力としたのです。そして、教師からの指示を減らし、子供が自らの課題によって学習するというスタイルを理想とし、いろいろな取り組みが行われたのです。しかし、そうした取り組みの授業を実際にやってみると、そう簡単なものではありません。例えば、子供たちが個性的に学習すればするほど、子供たち同士はすれ違うのです。なぜなら、子供たちの間には、共通している基礎的な知識がないため、相手の言っていることが理解できないのです。

 クラスの中でお互いの言っている事が理解できなくなり、また「ゆとり教育」で学力のバラツキが広がり、教科についていけないために嫌いになる子が増えれば、授業中にボール遊びをしたり、廊下を自転車で走り回る、という学級崩壊に至るのも不思議はない。

 
(文責:伊勢雅臣)

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■ 「『ゆとり教育』が国を滅ぼす」(小学館文庫)の著者のお一人、茂木弘道さんより

 今朝、民主党文部科学部門会議にて「ゆとり教育の問題点について」と題して、話をしてきました。40分ほど話し、質疑応答ということでしたが、ほとんどの方が賛同といった感じでした。というよりも、これは大変だ、という感じになってきたということかと思います。特に強調しましたのは、「学力は落ちるかも知れないが、子供がのびのび育てば」と思っている人がいるとしたら、大間違いで、学力低下と子供の非行度、学級崩壊はほとんど比例していることである、ということです。


■ 編集長・伊勢雅臣より

 子供たちが「ゆとり」教育で「生きる力」を奪われ、学級崩壊の中で毎日を過ごさねばならないというのは、深刻な人権問題ではないでしょうか。無責任中央官僚が強大な権力を持って、国民の人権を蹂躙するとは、まさに「『ゆとり教育』が国を滅ぼす」(小学館文庫)の指摘にもあるように「社会主義的」教育です。



引用終わり