最近はそうでもないが、一時期、「生活感のない家(インテリア)にしたい」というフレーズを聞くことが多かったように思う。しかも、それがいいことであるかのごとくメディアで紹介されていたりした。
それっていったい何のためにそうしたいのだろうか。
そこで生活している以上、生活感が生じることは自然だと思う。生活感を生じさせないようにするには、生活自体を希薄にするか、生活の痕跡を消したり、隠したりするしかない。
例えば、リビング。
リビングは存在意義からいって、くつろがないという選択はないだろう。
くつろぐときには、案外いろいろなモノがいる。テレビやAV機器はスタイリッシュなものも増えてきていて、セレクトすれば生活観の出現を回避することはできるが、問題は日用品だ。
日用品が目につくほど生活感が生じやすい。
本・雑誌や新聞などは、よほど専門的なものでないと生活感はばっちりだ。
クッションだって整然と並んでいなければ生活感が現われる。
ティッシュペーパーは置いてあるだけで生活が見える。もし斜めに置いてあったりしたら、他がどんなに整然としていてもピンポイントで強力な生活感をかもしだす。
スリッパなどは当然見えていないほうがいい。
生活感を表さないようにするのには相当な努力が必要だと思う。
こうして書いてくると、生活感のなさを望むのは、鑑賞するためのオブジェを維持・管理することのように思えてくる。
日用品をはじめ、もろもろのモノが散らかった感じに見えないよう、片付けやすくなっているというので私は十分だ。日用品が見えてもいいから使いやすいように収まっているという感じ。
下世話な生活感はできるだけ隠すとしても、生活感自体を消し去ろうとは思わない。
私の場合、「生活感がない家」の風景より、「ていねいに生活している家」の風景の方に好感を持っている。
それっていったい何のためにそうしたいのだろうか。
そこで生活している以上、生活感が生じることは自然だと思う。生活感を生じさせないようにするには、生活自体を希薄にするか、生活の痕跡を消したり、隠したりするしかない。
例えば、リビング。
リビングは存在意義からいって、くつろがないという選択はないだろう。
くつろぐときには、案外いろいろなモノがいる。テレビやAV機器はスタイリッシュなものも増えてきていて、セレクトすれば生活観の出現を回避することはできるが、問題は日用品だ。
日用品が目につくほど生活感が生じやすい。
本・雑誌や新聞などは、よほど専門的なものでないと生活感はばっちりだ。
クッションだって整然と並んでいなければ生活感が現われる。
ティッシュペーパーは置いてあるだけで生活が見える。もし斜めに置いてあったりしたら、他がどんなに整然としていてもピンポイントで強力な生活感をかもしだす。
スリッパなどは当然見えていないほうがいい。
生活感を表さないようにするのには相当な努力が必要だと思う。
こうして書いてくると、生活感のなさを望むのは、鑑賞するためのオブジェを維持・管理することのように思えてくる。
日用品をはじめ、もろもろのモノが散らかった感じに見えないよう、片付けやすくなっているというので私は十分だ。日用品が見えてもいいから使いやすいように収まっているという感じ。
下世話な生活感はできるだけ隠すとしても、生活感自体を消し去ろうとは思わない。
私の場合、「生活感がない家」の風景より、「ていねいに生活している家」の風景の方に好感を持っている。