家づくり、行ったり来たり

ヘンなコダワリを持った家づくりの記録。詳しくは「はじめに」を参照のほど。ログハウスのことやレザークラフトのことも。

家(か)の問題、延長戦――別の視点から

2005年02月04日 | 家について思ったことなど
建築プロデューサーの朝妻さんが再びこの話題(建築家とは何ぞや?)を蒸し返したエントリに(懲りずに)トラックバック。


前回、私は「家(か)の問題」で、建築家を芸術家的な家(か)のイメージから開放した方がいいというような主張を展開した。
そこでは、落語家や格闘家などを引き合いにだしたのだが、朝妻さんのエントリのコメントで、Nさんという実在の「建築家」が、くしくも格闘家を意識している旨をにおわせてくれた。
これをきっかけに、かねて考えていることを綴ってみようと思う。

Nさんによると実際、芸術家的建築家は非常に少ないようだ。ところが世間はどうかというと、建築家に対し、大半が芸術家的なイメージを抱いているのではないだろうか。
私は、この状況は建築家、施主候補の双方にとって不幸なことだと考える。
芸術家というのは一般人にとって縁遠い存在である。そんな存在のままでいたら、建築家と家づくりをしようと考える施主はなかなか出てこない。
現在はブーム的盛り上げによって、たぶん上向いてはいるのだろうが、そのままではきっと反動が来る。反動を小さなものにするには、今のうちに身近な存在であることをもっと世間一般に認知させるべきである。
建築家でもない私がこの反動を気にしているのは、若干ではあるが私にとってもリスクであるからだ。ブームが去ったとき、どのような目で見られるかということを想像した時、「ブームに踊らされた軽薄な施主」または「芸術家先生に建てさせた贅沢者」のような誤解を受けかねないからだ。

建築家に対する芸術家的イメージをもたらしているのは何か。そしてそれにどう対処したらよいのか。

ひとつは、メディアへの露出の仕方だろう。
Nさんの見解のように、全建築家に占める芸術家的建築家の割合は低いと思われるが、メディアでは逆にその少ない芸術家的建築家がクローズアップされる機会が多い。これでは世間は、建築家は芸術家だと思ってしまうだろう。
個人住宅を対象にしたテレビ番組が増えたことは、多少なりとも身近な存在化に効果はあったと思う(実は、私が依頼した建築家もテレビに何回か出ているのだが、たぶん、いろいろ言われるリスクをとってテレビ出演したのは、身近な存在であることを世間に広めたいという問題意識があったからだと踏んでいる。この手の話題は照れくさくて正面から話をしていないのだが)。
ただ、テレビというのは無責任で、ブームが去れば敵にまわることも考えられる。実力もなくタチも悪い「建築家」が建てた家をわざわざ探し出してきて、欠陥住宅特集などで大々的にとりあげたり・・・。今ある番組でも素人目にもあやしい建築家がまぎれこんで登場しているのをみると、転換点は近いかもしれない。防衛のためにも次の手は考えるべきだ。

建築家を芸術家のように吹聴しているライバル達の扇動も問題だ。
多くのハウスメーカーや工務店にとって、建築家・設計事務所は商売仇である。ゆえにそれらの勢力は、建築家を敷居の高い芸術家の立場においやろうとしている。
住宅本などでは、「建築家は自分の『作品』づくりに一生懸命で、住人のことなど考えていない」という断定を随所で見かける。これと、前述のNさんの証言は完全に対立している。賞狙いで「芸術作品」的家づくりをする建築家は確かにいるだろうが、それが大多数とはいえないはず。実は少数派である芸術家的建築家が建築家の大半を占めると感じさせる情報操作をしているのである。
 私は住宅本を読む時、リテラシーを発露するきっかけとして「建築家は自分の作品云々・・・」というキーワードを確認することにしている。
 前のエントリ「住宅本の読み方」で出した企画案はそんなことも意識したつもりだ。


 実は敵は「身内」にもいる。
いい家ができたことより、エラくてカッコいい建築家先生に建ててもらったという事実を大々的に吹聴したい施主達である。
これらの人にとっては建築家が芸術家として扱われるほうがいい。この状況をどうにかするのは難しいが、建築家との家づくりということ自体がさほどめずらしいものでなくなれば、自然とおさまっていくだろう。



 ここまで長々とこんなことを書いてきておきながら言うのもなんだが、建築は芸術と相性がいいというのが事実としてあったりする。
芸術家的スタンスの建築家でない建築家が設計しても、芸術的色彩の濃い建築になることもあるというのが面白いところであろう。