ふうせんのホームページ

合唱とパソコンを趣味として、つれづれなるままに、書き連ねます。

今でも時折、思い出す。

2022-10-01 23:35:25 | 日記
多分、高学年くらいの頃。

云十年たった今でも、時折ふっと、思い出す不思議な体験があった。

その頃、周りには、小川があった。
四季折々の季節では、田んぼや小川は、遊び場でもあった。


ある日のこと。

小川の土手を歩いていて、突然、犬に吠えられたのだ。

焦って、土手沿いをピョンピョンと、飛び跳ねたのだった!

川に、はまることなく、猿のように?牛若丸のように?

これは「火事場の馬鹿じから」のような体験なのかなあと思う。

身内の者にも、今まで、誰にも言ったことのない、不思議な出来事です。

アントニオ猪木さんが5年前に開いた生前葬…今だから思う生前葬と「バカヤロー」の意味

2022-10-01 23:27:15 | ニュース
アントニオ猪木さんが5年前に開いた生前葬…今だから思う生前葬と「バカヤロー」の意味
2022/10/01 12:30

(日刊スポーツ)
元プロレスラーで参議院議員も務めたアントニオ猪木さんが1日午前7時40分、都内の自宅で心不全のため亡くなった。79歳だった。
◇  ◇  ◇
アントニオ猪木さんは5年前、既に死を意識し、来たるべき日に向けた終活を始めていたのかも知れない。1日午前に訃報が流れた瞬間、脳裏に浮かんだのが、5年前の2017年(平29)10月21日に東京・両国国技館で開催した生前葬と位置付けた興行「INOKI ISM.2 猪木劇場〜アントニオ猪木『生前葬』〜」だった。

開催前月の17年9月14日、都内で興行の会見を開いた猪木さんは、兄弟2人が同年に入って心臓の病などで亡くなったことが、開催の大きなきっかけだと明かした。同月には、タンパク質線維が心臓に沈着して多臓器不全などを起こす、数万人に1人の確率で発症する難病「全身性アミロイドーシス」と診断されていた。3年後の20年7月まで公表しなかったが、生前葬会見の3日前に北朝鮮訪問から帰国した際、猪木さんは羽田空港で激しく息切れし、記者の前で珍しく真顔で不調を吐露。会見でも「羽田に着いた時の記者会見で、やっぱり、ちょっと息切れが出てきたことがあった」と、自身の体調の異変を語っていた。

生前葬興行の当日、リング上には真っ白な棺おけが置かれ、かつて付き人を務めた藤波辰爾、藤原喜明、リングで抗争を繰り広げたスタン・ハンセン氏が“弔辞”を読むためにリングイン。そして追悼のテンカウントゴングが打ち鳴らされる中、猪木さん自らアカペラで歌う「千の風になって」が場内に流れた。

<歌詞>私のお墓の前で 泣かないでください そこに私はいません 死んでなんかいません
一部、歌詞を変えた替え歌に場内から笑いが起きる中、猪木さんは白装束にトレードマークの真っ赤なタオルを首に巻いて入場。途中で白装束を脱ぎ捨てると、スーツ姿になって両拳を突き上げた。リングインすると「生前葬? 俺も何だか分からない」と言いつつ、棺おけのふたにナックルパートをぶちかました。

そして、棺おけの中から白い球を持ち上げると、頭上に突き上げた。白から真っ赤に色が変わった球は、猪木さんの魂を意味しており「今、魂が空を飛んで異空間にいった」と言い、笑った。
猪木さんはリング上で「友人が十何年前に『お前、一緒に生前葬をやろう』と言われたことがある」と、興行からさかのぼること10年前に、友人から誘われたと明かした。その上で「その間(この日までの間に)仲間が旅立っていきました。ふと考えたら、俺も送り人じゃなく、そろそろ送られる人になりそうだな…そんなことを思いました。驚かせるのが大好きなものですから」と、自身の体調や周囲の状況を鑑みて、開催するに至ったことも明かした。

一方で、生前葬開催には、もう1つ、理由があることも明かしていた。猪木さんは、99年1月31日に亡くなった、ジャイアント馬場さん(享年61)の挑戦状を受ける意義があるとも強調していた。

「生前葬をやるという話になって急きょ、この話が盛り上がった。何年か前にジャイアント馬場さんが亡くなった。リングの上で、いつも挑戦していたんですが、理由を付けて逃げ回っていた。ある日『挑戦状を受ける…さんずの川で待っている』と。さんずの川まで行くには、ちょっと早いな。そろそろ迎えに来てもいいかな」
などと、夢枕に馬場さんが立って、挑戦状を突きつけてきたと語った。
同じ力道山門下で、ともに60年にデビューした馬場さんは、元プロ野球巨人の投手から転向し、翌61年から米国に遠征するなどエース候補として育てられた。かたや猪木さんは、ブラジル・サンパウロの市場で働いていたところを日本プロレスの遠征で来ていた力道山にスカウトされ、日本に帰国。力道山の付き人として雑用に明け暮れ、時には鉄拳制裁を交えた厳しい指導を受けた。猪木さんは馬場さんと日本プロレスではタッグも組み「BI砲」とも呼ばれた。その後、72年に猪木さんが新日本プロレス、馬場さんも全日本プロレスを旗揚げすると、外国人選手の招聘(しょうへい)、引き抜き合戦など興行で争った。

プロレラーの頃は対戦相手、国会議員時代は政界や世論に向けて、言い放っていたであろう「バカヤロー」という言葉も、老いと闘う…そして人生の終幕へと向かう、自らへの叱咤激励ではなかったか。子どもの頃、猪木さんの全盛期の「闘魂」「ストロングスタイル」を客席で目の当たりにして、胸の奥にヒーロー像を作り上げ、記者になって晩年の姿を追いかけた自分には、そう感じられて、ならない。【村上幸将】

以下略ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー




アントニオ猪木さん自宅で死去79歳燃える闘魂プロレス黄金期けん引

2022-10-01 10:39:20 | ニュース
アントニオ猪木さん 自宅で死去 79歳 燃える闘魂 プロレス黄金期けん引
2022/10/01 09:13

(スポニチアネックス)
 元プロレスラーで、参議院議員を2期務めたアントニオ猪木(アントニオいのき、本名・猪木寛至=いのき・かんじ)さんが1日、自宅で死去した。79歳だった。横浜市出身。難病「全身性アミロイドーシス」で闘病中だった。

 2、3日前から低血糖で体調を崩し、自宅での療養生活が続いていた。前日持ち直したが、この日の朝、状態が悪化し自宅で息を引き取った。

 1943年(昭和18年)生まれ。5歳で父親を亡くし、13歳で家族とともにブラジルへ渡り、コーヒー農場などで働く。現地の陸上競技大会の砲丸投げで優勝した際、ブラジル遠征中だった故力道山さんにスカウトされプロレスの道へ。日本プロレス入りし。60年9月30日、プロ野球からプロレスに転向した故ジャイアント馬場さんと同日デビューを果たし、62年からリングネーム「アントニオ猪木」を名乗る。

 米国への武者修行、日本プロレスからの離脱、復帰、追放を経て、71年に女優の倍賞美津子と結婚(後に離婚)。72年に新日本プロレスを立ち上げ、その後プロレス全盛時代を築いた。76年6月のボクシング、世界ヘビー級王者・モハメド・アリとの「異種格闘技戦」は注目を浴び、世界中にテレビ中継された。

 政治家としては89年に「スポーツ平和党」を立ち上げ、「国会に卍固め」、「消費税に延髄斬り」をキャッチフレーズに同年の第15回参議院選挙に比例区から出馬し初当選。史上初のレスラー出身の国会議員となった。


国葬で供えられた花は肥料に迎賓館、新宿御苑、昭和記念公園で

2022-10-01 09:34:34 | ニュース
国葬で供えられた花は肥料に 迎賓館、新宿御苑、昭和記念公園で
2022/09/30 17:22

(朝日新聞)
 政府は、27日に執り行われた安倍晋三元首相の国葬での一般献花で捧げられた花や、会場の日本武道館内での式壇で使われた生花を堆肥(たいひ)として活用する。東京都内の迎賓館、新宿御苑、国営昭和記念公園で使われる。木原誠二官房副長官が30日午後の記者会見で発表した。

 政府によると、一般献花者は2万5889人にのぼっていた。また、式壇は白と黄色の花で彩られ、安倍氏の遺影に延びる道が表された。周囲は日本の山々を花で表現した。富士山の姿を愛した、安倍氏の思いを表現したとされている。

 木原氏は、活用する理由として、式壇の生花や献花は「参列いただいた方々、また一般で献花をいただいた方々のお気持ちのこもったものである」と述べた。(西村圭史)