monologue
夜明けに向けて
 



カリフォルニアサンシャインagainその44
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そして、アルバム「PROCESS」 は80年代初頭には一部の支持者以外には全く理解されることなく20年の眠りについた。ふたたび目覚めるきっかけはわたしがアリオンの主宰する世紀末フォーラムに参加したことであった。そこで知り合った佐藤邦明氏の尽力によってCD化 されたのだ。
fumio

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カリフォルニアサンシャインagainその43
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ある時、エンターテイナー仕事の相棒ギタリスト中島茂男がしばらくサンフランシスコに行くと言い出した。わたしはわずかばかりの餞別を渡し見送った。
それから仕事は振り出しに戻った。わたしはアコースティックギターにギターマイクをつけてひとりでエンターティナーの仕事をこなした。
そのころ、島健 はジャズ雑誌のファン投票で上位に入るトランペッター、アル・ヴィズッティ (AL VIZZUTTI)のバンドでキーボードを弾いていたがそれだけでは生活できないのでクラブのピアニストも始めた。わたしはその店に仕事ではなく客のフリして訪れてかれの伴奏でスタンダードやポピュラーソングを歌ったりした。
 ある音響メーカーの新製品のPCMレコーダーがいかにクリアな音でデジタル録音できるかのテストと宣伝のためにジャズバンドの紹介をわたしは頼まれて、アル・ヴィズッティのバンド を紹介した。ひとり100ドルのペイで請け負って、ドラムス、ベース、ギター、キーボード、トランペットとプロユースのスタジオで時間をかけてPCM録音した。それが日本でその社の宣伝資材として使用されたのだった。
そのとき、島健はキーボードをハモンドオルガンの名器B3の音が出る設定にしたと自慢していた。一般の人には、それがどうした、という話題だがわたしは感心してその音を聴いた。かれは仕事をまわしたお礼にわたしの曲をアレンジしてやる、といっていた。
そして、中島茂男はいつのまにか、サンフランシスコから戻ってきていたがもうエンターティナーには戻る気はなく別の方向に転進していた。それでわたしは中古のギブソンレスポール・エレクトリックギターを購入してふたたびひとりでエンターティナーを始めた。どんな形態であろうと歌を歌い人を楽しませて暮らせることは幸せだった。
宮下富実夫、中島茂雄、山下富美雄、そして島健というバラバラな指向性をもつミュージシャンたちをほんの一瞬邂逅させてアルバム「プロセス」を作らせ、ふたたびチリジリにした存在の意図は奈辺にあったのだろう。
fumio


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アルバム「PROCESS」は完成して、そのころ流行の媒体、カセットテープの形でリリースした。翌年、仲間の芸術家集団の援助と要請をうけてジャズクラブ『処女航海(MAIDEN VOYAGE)』において1981年1月18日(日)午後9時、入場料5ドルでこのアルバムの収録曲をライヴ演奏した。クラブ『処女航海』は昼間はバンドの練習スペースとして貸していた。それでわたしたちが到着した時アマチュアのバンドがまだ稽古していた。入れ替わりにジャズのクラブはこんなふうになっているのかと思いながら仲間と楽器と機材のセッティングをして開演を待つ。島健はピアノはスタジオミュージシャンとして手伝ったけれど自分は正式メンバーではないからと客席で見ていた。ごく普通にまるでいつもの仕事のようにライブは始まり普段はジャズの演奏を聴きにくる聴衆の前でわたしたちは全く異質な音楽を淡々とくりひろげた。楽屋では仲間たちがドライアイスを買ってスモークマシーンに入れたり用意してわさわさしている。ライヴの後半、嵐 の曲で宮下富実夫が中国銅鑼その他のパーカッションを打ち鳴らし舞う際、舞台機材店で借りだしたスモークマシーンでステージがドライアイスの煙に覆われて真っ白になった。そのあとエンディングの「HOME TOWN」 を歌うと、冷たいガスがのどに入ってむせそうになって危うかった。ライヴではなにが起こるかわからない。演奏の稽古は充分したけれどドライアイスの煙を吸わないように歌う稽古はしていなかった。はじめからアンコールを求められることなど考えていなかったのでアンコールの声が沸いた時、困った。応えられる曲数があまりなく知っている曲をやりつくしてファー・イースト・ファミリー・バンドの曲「セイ」まで演奏してごまかした。そしてすべてが終わると「You are different!」と聴衆が叫んでいた。
fumio 

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カリフォルニアサンシャインagainその41
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ミックスダウンとはトラックダウンとも呼び、8チャンネルトラック、16チャンネルトラック、24チャンネルトラックなどに録音したばらばらな楽器や歌をひとつにまとめ作品に仕上げる作業のことである。そのとき、各楽器の音色を調整し音量のバランスをとり、エフェクターをかけたりヴォーカルにエコーやリバーブをかけたりする作品完成のための最重要な作業なのである。
レコードのレコーディングはエジソンが「メリーさんの子羊」を歌ってレコード盤に直接刻んだ時代からテープを使用する1チャンネル1トラックのモノラルから2チャンネル使用するステレオへそしてビートルズの4チャンネル多重録音に始まるアナログ多重録音へと移りそして倍々(バイバイ)ゲームで8チャンネルそしてすぐに16チャンネルのスタジオが主流になりそれからなんと24トラックという大きい立派なスタジオが当たり前になってしまった。それでわたしたちもアルバム「PROCESS」のプロジェクトではハリウッドのチャイニーズシアターの向いのビルにあった「ガナパーチ」というインデイアン名のエンジニアがやっている24チャンネルスタジオPARANAVA STUDIOを録音に使用しのだがプロデューサーとしての宮下富実夫は厳しくて最高の作品を製作するためにはガナパーチのPARANAVA STUDIOはレコーディングには使用してもミックスダウンには機材がふさわしくないと判断した。理由は基本的な設備、装置や機材。それで当時最新最高の機材やエンジニアを揃えた有名スタジオインディゴランチ・スタジオ(INDIGO RANCH STUDIO)に予約を入れた。それでPARANAVA STUDIOにおいてすべての録音を完了してできあがったレコーデイング済みテープのミックスダウンにはインディゴランチ・24トラッスタジオ(INDIGO RANCH STUDIO)を使用することになったのだった。
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わたしは高校時代アメリカのヒットランキングをノートにつけていたのだが1965年のブリティシュ・インヴェィジョンの頃、Moody Bluesという英国のバンドのGo Now という曲がヒットした。おきまりのリズム&ブルースを基調にしたロックバンドだと思っていたのだがのちにポ-ル・マッカートニーに誘われてウイングスに参加するギターのデニー・レインが脱退してから採り上げる曲想が Tuesday Afternoon のようにがらりと変わってしまった。それからかれらの音楽はプログレッシヴロックと呼ばれるようになった。ヒットを目指すのではなく独特の思想性や内省的な世界観を表現しているようだった。
わたしたちがミックスダウンを行うことになったインディゴランチ・スタジオはそのムーディブルースが始めたスタジオでマリブの丘の上にあった。ニール・ダイアモンド、ヴァン・モリソン、ビーチボーイズ、ニール・ヤングといったミュージシャンたちがレコーディングに使用し、オリヴィア・ニュートン・ジョンはアルバム 「Totally Hot」 を78年にそこでミックスダウンしている名スタジオだった。

1980年11月4日、その日、わたしの一家は朝からピクニック気分でおにぎりを作って用意した。インディゴランチ・スタジオの中では昼食は買えないということなのでエンジニアの分まで作って持っていった。宮下富実夫の家族、島健の家族とみんなで曲がりくねった坂道を宮下一家の大きなヴァンに乗り込んで登って行った。着いたところはUFOが飛来するという噂にふさわしい趣(おもむき)のあるスタジオだった。わたしたちがスタジオに入っている間、家族たちはロビーや丘陵の広い庭で過ごすことができる環境であった。INDIGO RANCH(インディゴ・ランチ) 24chスタジオは当時最高のレコーデイング設備を備えていた。 スペイン語のランチョ(別荘)のように山の中腹にあるのでミキシングの日はピクニックのようだった。それで朝から妻が多くのおにぎりを握り、付け合わせのおかずを用意して行ったのだ。
プロデュースの宮下フミオの指揮の下、各楽器の音決めから試行錯誤のミキシングが進んだ。エンジニアはメインとサブがいて数人の助手がテープ類を用意してくれた。プロデューサーとしての宮下富実夫がまず中央に陣取りわたしと中島がその左右に座る。宮下は普段の友達関係の仮面を脱ぎ真剣勝負モードに入った。
24トラックの元テープをまわし、まずドラムスの音から音色を決めてゆくのだがそれに一番時間がかかった。スピーカーはJBLで音が粒立って聞こえる。細部まで視覚化して見えるように再生する。他の楽器やヴォーカルの音決めはあまり問題なく進んだ。それから一曲ずつ各楽器と歌のバランスやリバーブ、エコー、エフェクターなどのかけ具合など時間をかけてミックスしてステレオマスター・テープを作ってゆくのである。初めの録音時、杉本圭がまだ不慣れなためにいわゆる白玉全音符でコードを押さえていただけのストリングアンサンブルのパートを宮下がこのミックスダウンの際に演奏のリズムに合わせて調整卓のフェーダーを上下してリズム感を出した。昼には宮下家の家族、関わったミュージシャン仲間、ミキシングエンジニアなど弁当を持ってきていない、みんなにおにぎりをふるまった。昼食はアメリカ人のエンジニアも和気藹々とおにぎりを食べてくれた。宮下が個人的に多重録音した「嵐」だけはミックスをひとりにまかせた。じゃまにならないようにわたしたちは席をはずしたのだ。一休みしてふたたびやり直して最終曲まで進み多くの耳で何度も何度も聴きなおしてみんながOKした時、やっと終了する。午後も集中してミックスを続けついにマスター・テープができあがってスタジオの壁に埋め込みになっている大スピーカーから出る音をみんなで聴き直していると「ドラゴン・ライダー」 でスタジオ全体が飛んでいるような錯覚に襲われた。今もあの時の感覚がわたしのどこかに残っている。
fumio

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カリフォルニア・サンシャインagainその40
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中島茂男が「青春」という言葉が好きだからアルバムに入れたいといって日本語で歌詞を書いてきた。それでわたしは英語で
https://youtu.be/RatUXLtLfbs">「puberty」
という題名にした。そしてコーラスの部分は「Age of puberty イズ・ザ・メモリーズ・ホーム」としてリードボーカルを宮下に頼んでわたしたちはバックコーラスにまわったのである。

 そしてある日、息子が留学中のセントラル・オクラホマ大学(University of Central Oklahoma) の生徒達にアルバム「プロセス」を聴かせると収録曲の「puberty」 という題名に異を唱えていたということだった。このことばはなんだか恥ずかしいからもっとほかのことばはなかったのか、というのだ。思春期から青春期あたりを表すにはyouthや the springtime of life、young days、adolescence.などあたりさわりのないことばがあるのだが、「reach the age of puberty」という表現があって、「 思春期に達する, 年ごろになる」ということなのである。それは語源的には「pube」が性的成熟を意味してpubic hair(陰毛)の語源でもある。the age of pubertyを語源通りに具体的に訳せば「毛が生える頃」となる。それでオクラホマの大学の生徒達はこそばゆく感じたのだろう。しかしながら、あたりさわりのない通常の表現より反対はあってもなにかを奥に秘めた表現のほうがふさわしく感じたので採用したのだからしかたがない。かと言って母国語で「毛が生える頃は思い出の住処」とコーラスせよと言われると二の足を踏んでしまう。われながら勝手なものである。
米国の地方からのお上りさんの聖地、チャイニーズシアターの向かいの24チャンネルトラックスタジオ(PARANAVA STUDIO)でのボーカルの収録がようやく終って録らなければならないのはドラムス、パーカッション類とピアノであった。宮下富実夫には白龍飯店(インペリアルドラゴン)でのデイスコパーテイのたび何度もドラマーとして参加してもらっていたのでその腕を見込んで中島茂男がこのアルバムでもドラマーとしての参加を打診した。宮下は腰を痛めているということで心配だったがわたしも打楽器での参加を要請した。プロデューサー、宮下富実夫はこの日はドラマー兼パーカッショニストとしての仮面を付けてレコーディングルームに入った。わたしたちは調整室から指示してダメだしする。ドラムスのレコーディングはOKが出るまでパターンを変えて叩き直すので重労働だが宮下は最後まで元気でへたばらかった。それから様々なパーカッションに挑む。何種類もの大きさの違うチャイナドラム、ゴングをブラ下げ踊りながら叩く。ライヴではその踊りが見せ場になるのだ。楽器店にあるほとんどの打楽器を揃えて曲に合わせてパフォーマンスしてゆくのだ。宮下の打楽器関係を全曲録り終えて、最後に島ちゃん(島健)のピアノを青春 とふるさと の2曲レコーディングした。かれは日本でもスタジオミュージシャンとして活躍していたので簡単なコード譜を渡して打ち合わせするだけで曲に合ったフレイズを紡ぎだした。当時の世間の最低賃金は1時間2ドル50でエンターティナーのペイの相場は一晩で50ドルなので50ドル支払った。とにもかくにもレコーディングはそれで完了した。あとはミックスダウンで完成である。
fumio


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