monologue
夜明けに向けて
 



カリフォルニアサンシャインagainその45
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ある時、わたしのエンターテイナーの相棒中島茂男がしばらくサンフランシスコに行くと言い出した。わたしはわずかばかりの餞別を渡し見送った。
それから仕事は振り出しに戻った。アコースティックギターにギターマイクをつけてひとりでエンターティナーの仕事をこなした。
そのうちラテンギター、ジャズギター、女性ピアノという変則的な編成のバンドのベース兼ヴォーカルを頼まれた。ロックも演歌も歌謡曲もラテンインストルメンタルもなんでもありだった。とにかく譜面をたくさんコピーしてきてなんでもやれるようにまわりもちでだれかの家に集まって練習した。のど自慢などの出場者のバック演奏も譜面通りではなくその人のキーにあわせてすぐ弾けなければいけない。審査の間にはわたしはゲストのプロとして演歌の「与作」を歌ってみせたりした。わたしの家の裏庭で日曜に機材を使用してみんなで稽古していると裏の長屋のメキシカンや黒人住民が石を投げ込んできた。休みの日にうるさいと腹が立ったのだろう。とはいえ、とにかく歌を歌って暮らせるのだからそれはわたしにとって幸せな日々だった。それは幼い頃からの望みだったのだから。 
fumio

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naniga  


こんなことがあった。
アメリカの日系企業のある社員が日本で仕事することになって埼玉県川口市に新築の家を建てた。そしてアメリカから家財道具が届いて運び込んでいるとき、会社からサンフランシスコ転勤命令が届いた。結局新築の家に一日も住むことなく、かれはその家を貸家にする手続きをしてサンフランシスコに赴任した。それからしばらくして今度はロサンジェルスに転勤したのである。
そのころ、わたしはロスアンジェルスから日本に帰って日本での活動のために一時的に住む家を首都圏に探していた。すると、埼玉県川口市戸塚に新築のきれいな家が二年契約で出ていたのだった。それで二年ほどなら丁度良いと思って契約したのである。その家にはまだ電灯もなにもついていなくて人が住んだ気配がなかった。まるでわたしたちのために用意してあったようだった。なんだかわたしたちのうしろでだれかがひょいとわたしたちを人形のように入れ替えたとしか思えない。そして、わたしの息子は19才でアメリカに留学してその後アメリカ市民としてロサンジェルスで暮らしたのだった。見えないところでなにがあったのだろうか。
fumio


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