80ばあちゃんの戯言

聞いてほしくて

尖閣諸島問題(3)

2012-10-10 11:13:42 | 戦争体験
NHKテレビ”日中交渉はこうして始まった”

よりの抜粋


1971年世界の冷戦構造は劇的に変化した。

アメリカのニクソン大統領が中国を訪問し

たのである。

当時、総理大臣を目指した田中角栄たちに

は、日中国交回復への大きな障害がなくな

ったと言える。



1972年「昭和47年7月田中角栄内閣が誕生。

大平正芳が外相に就任、田中を支えて、

日中国交回復に、大きな力を尽くすことに

なっていった。

当時、自民党の議員の中には台湾を支持し

中国との国交回復に反対するものが多かった

中で、大平は積極的に動き始めた。

大平さんは

 ”中国側の対日認識が漸次進んで参って

 いるように受け取れるのでございます。

 政府としては時期が熟したと、、、、。”

  と、演説している。

大平正芳さんのお孫さん大平知範さんによって

公開された大平さんの12冊のメモ帳をNHKが

特別に撮影を許されたそうである。

1972年の首脳会談までの大平さんの動きが克明

に記されていました。

左側には一週間の予定が、右側には、検討課題

がびっしり書きこまれていました。



7月16日のメモ

 この日大平は田中首相の自宅を訪ねています。

 二人は中国側との交渉ルートを話し合ってい

 ます。

 その結果、竹入公明党委員長と、LT 貿易の

 中心である古井喜実氏を交渉に当てることに

 しました。

 1960年代から古井氏と親交を温めていた大平

 は、古井に自らの決意を伝えます。

 ”政府首脳の訪中より始まる。率直、且つ、

  真剣にやりたい。”

 古井は、このときすでに、周恩来から重要な

 情報を入手していました。

 中国は国交正常化に当たって賠償を請求しな

 いという方針です。

 当時、大平外相の秘書を勤めていた森田一

 さん

 ”もし賠償をするんだったら、東南アジアの

  金額から言って膨大なものになるんだから、

  もし賠償があるんだったら、とても財政

  負担に耐え切れない。正常化交渉は無理で

  あると大平は考えていたから、先に賠償が

  あるかないかを確認して中国との交渉の準備

  をしていった。

  毛沢東は、何故、賠償を放棄したのか、

  当時、中国外交部だった丁民さんは

 ”毛沢東はドイツの例を挙げ、第一次世界大戦

  後、ドイツは多額の賠償金に苦しんだ挙句、

  復讐心から、ヒトラーが出てきた。

  また、中国も日清戦争後、大きな賠償を背追

  わされて、中国民が苦労した。

  日本が賠償をすると、政府が払うけれど、結果

  国民に同じ苦労をさせることになるからいけな

  いという考えであった。”と言われた。

  




80ばあちゃんのメモ

  ありがたいことに中国は日本に賠償金を請求され

  なかったので日本の今日があり、これは忘れては

  ならないことだと私は思っております。

  日本と日本人の外国にあった資産は凍結後、とり

  あげられたそうです。「中国も含む)

  また、日本の機械は戦争の関係国に分けられたが、

  (中国も含む)そのことに関しては後日書きたい

  と思っております。

(つづく)



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