80ばあちゃんの戯言

聞いてほしくて

尖閣諸島問題(2)

2012-10-09 18:05:30 | 戦争体験
NHK テレビ、日中外交はこうして始まったよりの

抜粋



当時、世界はアメリカとソビエトの東西陣営が激しく

対立。アメリカとの関係を重視していた外務省は

中国との交渉を自粛した。

日本は台湾を中国とみなし、日華平和条約を締結。

一方中国との関係は回復していなかった。

1960年、岸信介首相が日米安保条約の改定にのり

出した。「1月)岸の反共外交は中国の反発をくらい、

天安門100万人集会をはじめ、中国各地での反対運動

が起こり、日中関係は完全に断絶した。

こうした中、経済界から日中貿易を求める声が高まり

1960年7月池田内閣が誕生。

中国との関係は政治と経済を切り離して貿易拡大を

目指した。

高碕は周恩来との二度目の会談に乗り出す。

(1960年10月)



高碕は、まず、中国は日米安保条約について、あまりに

神経過敏になっていると主張。

この時の周恩来さんの通訳は,劉徳有さんは

 "高碕先生は、お国の政治制度、つまり共産主義には、

 私は賛同しませんと言いました。 私は引き続き、

 これからも私の資本主義をやっていきます。

 アメリカが寛大な措置をとって日本を援助してくれた

 ので、日本は今のような生活ができるようになった。

 だから、アメリカを敵視するようなわけにはいかない

 と、言われました。

 この見方は、私としても勿論、中国としても賛同でき

 ません。 でも、高碕先生はづけづけと言われた。”




 
 高碕は会談の合間に中国東北部、旧満州を訪づれます。

 ここは、かつて、日本軍が進出し、満州国が建国された

 地です。

 太平洋戦争のさなか、高碕は満州重工業開発総裁であった。

 高碕は赴任する前、満州は"王道楽土"であると、聞かされ

 ていた。

 しかし、高碕は後に次のように記している。

 "不潔な宿舎、食堂、浴室、それに、粗衣粗食は私の想像

 以上のものであった。そこには"王道楽土"もなかった。

 力を持ってする支配、ただ、それだけであった。


 
 高碕が視察に訪づれたのは、鞍山鉄工所。ここはかつて

 高碕が経営していた製鉄所でした。 

 高碕は戦前を上回る製産量に目を見張りました。

 一方で技術的な遅れも見抜きました。 高碕は周恩来に

 対し、積極的なアドバイスをしました。

 ”鞍山の鉄工所が僅かな間に「数年)生産量が5倍にも

 上がったのはこれは大変な成果である。それから、子供

 の目が輝いている。 しかし、経済的に見た場合、自分

 にも意見がある。 長春自動車工場は、すべて機械を

 ガソリンで動かしている。  どうしてガソリンをデイー

 ゼルエンジンに替えないのか? その方が経済的である。

 何もかも全部自給と言うのは難しいのではないか”

 通訳の劉さんの話

 ”周恩来は、経済的に明るい方が、これだけのことを率直に

 積極的にありのままを話してくれたこと、非常に役立つ

 意見を言ってくれたことに感謝していた。”


 
 忌憚なく助言を行う高碕に中国外交部は

 ”高碕は日中関係を打開したいと述べているので、岸など

 とは区別し、自民党内部の”有識の士”としてとり扱う。

 その背後には毛沢東の冷徹な戦略が秘められていた。

 ”高碕など親中派を利用して日本政府の分断を深めるように

 と周恩来に、命じている。


 高碕は当時、中国と鋭く対立してたアメリカにも働きかけた。

 当時高碕に同行した中曽根康弘さんは

 ”高碕さんは、うまくアメリカと中国を仲良くさせよう。

  それをやるのは日本だし、それをやるのは俺だ。高碕さん

  は非常にスケールの大きい方で、米中関係を仲良くさせ

  なければ駄目だと、自分の体験を下に、後に大統領になる

  ケネディや、民主党下院議員のジョン W マコーミックを

  説得します。日本は中国を過去30年圧迫した。中国は建設

  途上であり、食料が足りない。これをかつての加害者であ

  り、隣国である日本が放っておけるだろうか? アメリカも

  この考えを理解してほしい。”


  マコーミックは

 ”アメリカはソ連や中国を地球上から消そうとは思わない。

  ただ、共産主義が我々の自由と、平和を脅かすのを許すわけ

  にはいかない。 君も、その年になって、赤になるのを気を

  つけろ。”


 その後、ケネディ新政権が誕生。 高碕は再び訪米。 当時の

 アメリカは中国に対して全く関心がなく、耳を貸さなかった。

 

 同じころ、中国では、毛沢東が掲げた大躍進政策が失敗。

 餓死者 2000万人以上と、言われる未曾有の大飢饉に見舞われ

 ていた。

 ソビエトとの関係が悪化、技術支援も途絶えた。

 周恩来にはこの危機を乗り越える道は日本の経済協力しかなか

 った。

 アメリカの理解が得られぬまま、高碕は日中貿易を実現する好機

 ととらえ、再び、中国を訪問。周恩来との会談「1962年11月9日

 LT 貿易協定調印) 大戦後初めての協定が結ばれた。

 国交がない中、互いに事務所を設置し、政府の保証のもと,半官

 半民の貿易が始まった。この代表は高碕と中国の寥承志氏。二人

 の頭文字を取って、LT 貿易と名づけられた。LT 貿易で高碕が

 もっとも力を入れたのは、日本の工業技術を移転するプラント

 輸出だった。

 

 福建省のビニロン工場、化学繊維、ビニロンを生産する技術も

 LT貿易で中国に輸出されました。

 もと、工場の労働者、陳国泉さんは

 ”日本の設備は耐久性に優れていて、性能がすばらしい。

 プラントは大きな意味がありました。

 福建省2000万人の衣料問題を解決することができました。

 当時人々は歓迎していました。”

 高碕は経済協力を、そして、日本と中国がともに豊かに

 なる国交正常化することを願っていました。

 しかし、高碕は1964年、正常化の前に亡くなったのです。

 周恩来の通訳劉さんは、

 ”日中貿易ができたと言うことは、1972年の国交回復実現

 のための ワン ステップ、基礎を築いた。”

 高碕の死の直後、北京と東京にはLT貿易の事務所ができま

 した。

もと、東京の事務所に勤めていた金光貞治さん

 ”このビルの二階が隠れ大使館でフロアの半分が中国、

 半分が日本の事務所でした。

一方中国から記者団も来日し「1964年9月)互いの情報量

が増え互いの理解が深まっていった。

当時、中国外交部丁民さんは周恩来のために情報を集めて

いたが、

”量的だけでなく質的にも変化があったと思う。出先が

 きたので、接触する範囲が広くなり、適時に、人と接触

 できた。

 古井喜実先生は緊密に連絡を取っておられた。”

 
自民党の衆議院議員だった古井喜実は、高碕の跡を継ぎ、

LT貿易の中心となって働いたLT貿易政治顧問で毎年中国

を訪問し、周恩来の信頼を得ていた。



金光さんは

”古井さんは国交を回復しなければいけない。

 現実に考えてみれば、中国はいやだから

 どこかへ引っ越すと言うわけにはいかんの

 だからと、高碕さんと同じようなことを

 おっしゃっていたとか。

 

 

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(つづく)