水田をあゆむ クリアファイルから散った真冬の譜面を追って
笹井宏之 歌集「ひとさらい」より
類稀な才能を持った息子は、そのナイーブさ、研ぎ澄まされた感性の宿命なのか、病に倒れてしまい、床に伏してからもなお、自己表現の手段として、
ときには尖ったジャックナイフのように、
またあるときには、たおやかな山のような優しいなだらかな短歌を作り続け、
それはとてもピュアで正直で、極めて洗練されていて、人の心をさらいました。
父は音楽を愛し、窯元の後継者として生まれ出でた宿命を背負いながらも、厳しい窯業・陶器販売業界のために、有田にこだわった観光資源や音楽を作り出すために
一昔前に開発されていた「有田の器による碗琴」という楽器ジャンルを復活させ、その可憐な音の輪を300回にも及ぼうとするコンサートで広げつつあります。
この親子は表現者というDNAと宿命を背負われていられるのでしょうか。
何の世界でも同じですが、自己表現に妥協は許されませんから、それは極めて厳しい修行の一種となりましょう。
一見楽しそうに映る音楽ですが、一度入り込めばとてつもない迷路のような世界、表現者として認められるまでには、自身の魂とエネルギーをミューズの神に捧げねばならないのであります。
一見素材としておもしろく奇をてらったように見えるお茶碗・どんぶり・湯飲みのシロフォン的な碗琴演奏ですが、これを「皿リ」と弾きこなすには、父たる孝之氏は音楽の神に魂を捧げた筈なんであります。
不況で喘ぐ有田の町に音楽の癒しと愉しさ、そして力を・・・というムーブメントを静かに、しかし着実に根付かせていられる。凡人には出来ない。
そして人にひけらかしもしない。
父が父なら、子も子なのではなかろうか・・・・・。そう思わされ始めました。
有田焼のオカリナ、横笛、ドラムまであるんですからねぇ・・・・。参った。降参。脱帽
宏之くんの「SASAノート」の中の「少女」と「さくら」は初期の作品なのですが、とても素晴しい・・・・。゛しかもあの若さでジャズの素養も織り込んである。
聴きたいお方はどうぞこちらから・・・・ SaSa・NOTE
父は二時間に拘ったコンサートに、400人の聴衆に、目一杯の父と子の表現を伝えようと・・・しかし焦らずに、淡々と(私にはそう見えた)頑張っていた。熱演だった。
感動的な親子の競演コンサートは終わり、なお会場を去ろうとしないオーディエンスに対して、父はサックスを取りだしたのでありました。
そしてこれが、この楽器が一番好きなのだと思いました。だって一番ピタッと来てるし、第一かっこいいんだもの。
アンコールの曲が続く中、私は家路に着きました。
この日たくさんのお客様に気を使っておられたお父様に、これ以上神経を使わせたくなかったからです。
背中からお父さんのサックスが「まだおってよかろうもん」と追いかけてきました。
またいつかゆっくり話せばよいと思って、ゆっくり帰り道を駐車場まで歩きました。
安易な表現で、この父と子を語るには私如きにはその資格がありませんが、いつかもブログに書いたことがあるのですが、写真も、音楽も、文章も、詩も全部同じ水脈で繋がっているのですね。
そして筒井さんとも黒髪山系の地下水脈で繋がっているような気がします。
自己表現者たる父と子は、とても高い山に登られているのでした。
冬用のふとんで父をはさんだら気品あふれる楽器になった
笹井宏之 歌集 「ひとさらい」より
帰りの道すがら、父は400人のお客様に演奏したのか、それとも一人のために演奏したのか・・・・・・・・・・・・さて筒井さんどっちですか?