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太陽劇団シネマ・アンソロジー

2021-10-09 10:42:36 | 演劇
10月8日(金)の午後に東京芸術劇場プレイハウスで、「太陽劇団」のシネマ・アンソロジーを見る。「堤防の上の鼓手」と「フォル・エスポワール号の遭難者たち」の2本。せっかくの良い企画なのに、宣伝が行き届かなかったのか、観客の入りは少なかった。

プレイハウスは演劇専門の劇場で、10月にフランスから太陽劇団を招く予定だったようだが、コロナ問題で来日が流れたため、その代わりとして太陽劇団の舞台上演を記録した映画を4本上映することになったようだ。急な企画だったためか、4本のうち3本しか日本語字幕がつかないとのこと。太陽劇団は20年ほど前に来日して、新国立の中劇場で「堤防の上の鼓手」を上演したので、その時に見たが、独特の演劇で感動した覚えがある。太陽劇団はどれも作品ごとに表現方法が大きく異なるので、この機会にほかの作品も見てみた。

「堤防の上の鼓手」は、古い東洋のどこかを舞台にしている。服装などは日本的だが、どこか韓国か中国を思わせるものもある。降り続く大雨で川が氾濫の危機にあり、そのままでは町が洪水の被害で壊滅するので、北側か南側のどちらかの堤防を壊し、被害を半分にとどめる方法がないかと王が相談しているが、どちらを犠牲にするか優柔不断で決められない。そこで権力を狙う甥が、王に代わって指揮をすると言い張り、町を救うために上流の農村部の堤防を壊して農村を壊滅させようと企む。

農村部では100年以上前に同じような状況で堤防を壊されて、多くの犠牲者が出たので、堤防を守る「鼓手」を置いて、非常時には太鼓や鉦の音により、村人たちに緊急避難を伝える自警団となっている。その鼓手たちを町の軍隊が来て殺して堤防を壊そうとするのだ。

結局、洪水により町も農村部も全部壊滅してしまうというのが結末だが、上演手法は日本の文楽をまねた人形劇風になっており、顔には仮面をつけて人形振りで演じて、後ろについた黒子が支える。セリフは舞台脇の俳優たちが語る。これがとても面白い。音楽はジャン・ジャック・ルメートルという人が、一人で6弦のチェロのような楽器だとか、尺八のような笛、カーヌーンのような打楽器、日本の三味線まで、全部持ち替えて、あらゆる音楽を奏でていた。

舞台を実写的にとるだけでなく、セリフを語る役者や、音楽の演奏風景も入り、生の舞台を見ているような素晴らしい映画だった。

続いて「フォル・エスポワール号の遭難者たち」も見る。これは3時間を超える作品なので、途中で1回の休憩が入った。これは初めて見たが、凝った作りとなっていた。現代の少年たちが、ジュールス・ヴェルヌの小説を読み、それを20世紀初頭に映画化した監督のシナリオを読みながら、その映画化の模様が舞台劇となって現れるという形。

子供たちは、1914年の映画撮影の模様を描いた演劇を見るのだが、その映画の内容がヴェルヌの小説で、19世紀末の状況が描かれる。映画を撮影している時代は第一次世界大戦のちょうど勃発する時代で、そうした勃発の背景となったサラエボでのオーストリア皇子の暗殺などが出てくる。撮影スタッフたちは、ベビー・パテのような撮影機を持ち、役者やスタッフが一体となって、撮影を進めるのだが、戦争により亀裂が入る。出征するものもあれば、階級闘争を叫ぶ者も出てくる。

撮影する映画のヴェルヌの話は、ヨーロッパからオーストラリアへ向かう船が、南米の南端を通ることとなり、過酷な気象条件に阻まれてビーグル海峡を通れずに領有権の明確になっていない島に到着する。そこの地で、王族支配のない共和国を作ろうとするもの、暴力的な方法で支配を企むアナーキストや共産主義者、布教に来た伝道者、植民地化を狙うイギリスや、領有権を主張するチリやアルゼンチンなどが入り乱れて物語が展開する。

少し、歴史的な背景がわからないと面白みがわからないかもしれないが、演劇としても面白いし、映画としてもよくできていると感心した。音楽はクラシック名曲を使っており、最初はラフマニノフのピアノ協奏曲2番の第1楽章、途中ではベートヴェンののピアノソナタ熱情の第3楽章や、ヴェルディの椿姫の前奏曲などが使われていた。

両方合わせて、6時間ぐらいの映画だったので、かなり疲れて帰宅。サラダ、エスカベッシェ、クリームチーズとパン、アントル・ド・メールという軽い食事。


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