劇場と映画、ときどき音楽と本

オペラ、バレエ、歌舞伎、文楽などの鑑賞日記です

「世界オペラ史」はバランスの取れた名著

2017-07-31 15:30:02 | 読書
レスリー・オーリーの「世界オペラ史」を読む。原題は「コンサイス・ヒストリー・オブ・オペラ」で、「世界」とは書いてないが、読んでみるとイタリア、ドイツに偏らず、フランス、その他の国もバランスよく書いてあり、「世界」としたくなる気持ちも分かった。原著は1972年の出版で、1987年に改訂増補版が出ているので、若干古いと言えば古いが、オペラのメインの作品は20世紀初頭で終わっているので、今でもまったく問題がない。

オペラの発展は、時代と国、言語、使われた音楽、形式、演出、美術、社会との関係など、多くの切り口を持つので、一冊に歴史をまとめようとしてもなかなか一本線で書けずに、判りにくいし、バランスを欠く記述となることが多いが、この本はまことに「簡潔」に大事なところを押さえて書かれている。

有難いのは、大作曲家のいわゆる芸術的と言われているオペラだけでなく、民衆に支持された歌入り芝居のようなヴォードヴィルやバラッド・オペラ、スペインのサルスエラのような作品も対象に含めており、簡単ながらアメリカのミュージカルについても述べられている点だ。これは、一般的なオペラの歴史書では少数派だろう。

レスリー・オーリーはイギリス人なので、イギリスのオペラについても詳しい。イギリスはオペラ不毛地帯かと思っていたが、本書を読んでみるとイギリス人の作者が少なかっただけで、上演は結構盛んだったことがわかる。

約500ページある大部で図版も多く、判りやすいが、問題がないわけではない。編集が良くないのだ。目次が最初と巻末の両方にあり、それぞれ25ページと30ページという、目次としてはあまりにも長大なものがついている。また、題名の誤植なども散見されるし、ミュージカルの題名については誤訳(ソンドハイムの「カンパニー」は「仲間たち」という意味だが「会社」となっているなど)もある。それでも、原題がちゃんと併記されているので、読むのに支障はない。

翻訳は加納泰で、出版社は東京音楽社。せっかくの名著なので、洗練された編集で出し直してくれるとありがたい。

若尾文子の「しとやかな獣」

2017-07-29 14:59:33 | 映画
衛星放送でやっていたので若尾文子の「しとやかな獣」を観る。1962年の大映映画で、キネマ旬報のベストテン6位だったから、それなりに評価を受けた映画だ。観て驚いたのは、前衛的ともいえる大胆な手法で作られた作品だということ。ほとんどの場面が団地の一室で展開されるので、舞台劇のように思える。音楽などもかなり大胆な入れ方。

クレジットを見ると台本は新藤兼人で、監督は川島雄三、音楽は池野成という、なかなか凄い顔ぶれだ。こうした一部屋の中だけで展開する芝居というのは、舞台劇の映画化では時たまある。例えば1948年に作られたヒッチコックの「ロープ」は舞台劇の映画化だったので、一部屋の中だけで話が進み、それをまるでワンカットで撮影したように編集している。

この「しとやかな獣」もまるで舞台劇の雰囲気だと思っていたら、この映画の後に舞台作品としても公演されている。台本としても結構面白いから、舞台作品としても楽しめそうだ。

ところで話は、団地に住む中年夫婦の話で、年頃になった娘は作家のお妾になり、息子は芸能プロに勤めているが会社の金を使い込んでいる。中年夫婦は、そうした子供たちの生き方を咎めるわけではなく、むしろ悪事を奨励してそそのかし、不正でもなんでも金を得て、家に入れろという態度だ。ここらの生き方は昔のイタリア映画でよく見られた「非道徳的家族主義」を思い起こさせる。悪事でもなんでも立派な稼業であり、その仕事をきちんとすることを求められるが、家庭内ではきちんと秩序を維持することを求められるのだ。

そうした悪事を働いているので、芸能プロの社長や、作家先生から金を返せととのクレームが来る。しかし、実は芸能プロの会計係をやっている若尾文子が一番の曲者で、自分では悪事に一切手を染めずに、女の魅力を使って一家の息子や、芸能プロの社長、そして税理士などに悪事を働かせて、金を貢がせていたことがわかる。結局は皆同じ穴のムジナなのだ。

若尾文子が「しとやかな獣」役で、主演なのだが、映画を見ていると中年夫婦役を演じる伊藤雄之助と山岡久乃が出ずっぱりで印象に残る演技をしている。本当はこの二人が主役なのだ。

1962年という東京オリンピック直前の時期に、当時の最先端の流行だった団地を舞台とした見事な作品だと思った。

新しい視点の「映画館と観客の文化史」

2017-07-28 09:08:05 | 読書
加藤幹郎の「映画館と観客の文化史」(中公新書)を読む。これまで多くの映画史の本は出ているが、この本は映画館の変化の歴史をまとめてある。全体で約300ページの本で、前半の200ページはアメリカの映画館の変遷。後半の100ページは日本の映画館の変遷という構成で、他の国の記述はない。

映画の前段階で人気のあったパノラマ館から記述を初めて、ニッケル・オデオン、ピクチャー・パレス、ドライブイン・シアターなどが説明されて、最近のシネコンやDVD鑑賞なども取り上げられている。これらの興行形態は、各時代の観客層のニーズに合わせて発生したわけだから、その時代背景と合わせて興行形態や観客層、作品への影響を考える、というのは新しい視点で、面白い。

著者もあとがきに書いているが、通史ではないので記述に濃淡がある。映画の発生からヴォードヴィルとの関係などはやけに詳しいが、テレビと競合した1950-60年代にかけての変化はあまり触れられていない。トーキー初期のディスクとの同期式トーキーから、急速にフィルム自体に光学記録するサウンド・トラック方式へ切り替わったことなども記述が少ない。

だから、50年代中頃にテレビとの競合によって、画面の大型化、ワイド・スクリーン化、カラー化などが急速に進み、音響面でも磁気サウンド・トラックによりステレオ化されたことや、ステレオ化の実験の一環としてディズニーの「ファンタジア」の実験などにも触れてほしかった。

日本の映画館の記述では、弁士の説明に多くを割いている。トーキー化の前段としての「小唄映画」はきちんと説明されているが、商業資本の不足により、映画館のトーキー化は大手の系列を除いては進まずに、地方の弱小館向けには戦前の間、まだ無声映画が製作されていたことなどは、やはり記述すべきではなかろうかという気がする。

最近では映画自体がデジタル化されたので、フィルムという考え方が失われてしまい、鑑賞方法も大いに変化をしている。だから、映画自体の定義も見直してしかるべきだという気がするが、こうした本が出ると、映画におけるカラー化の歴史で、テクニカラーの二色式から三色式への移行、1950年代の新技術による色分解をしないフィルム記録と退色劣化の問題、映写機の光源と色温度の変化の問題など、現時点でそうした技術を知っている人が生きている間に調べておくべき事項が沢山ありそうな気がする。

新しい視点で、問題提起したことは大いに評価したいが、新書本で出すには学術論文のような、いかにも衒学的な文章にはいささか疲れた。

2001年スカラ座の「仮面舞踏会」

2017-07-28 06:05:20 | オペラ
このところオペラを集中的に見ているので、ヴェルディの「仮面舞踏会」を見ようと思い手持ちのビデオを探したら、最近のメトのビデオがあったが、ちょっと出だしをみたら、現代化したコンセプチュアルな演出だったので、これはご勘弁と思い他のビデオを探した。現代的過ぎる演出は苦手なのだ。

古いものが良いかなと探したら、スカラ座でパヴァロッティが歌い、ゼフレッリが演出した1978年の録画があったので、これを見始めたが、昔のVHSテープ時代の記録画像なので、今見るといかにも画像が不鮮明で、カメラ性能も悪いために、暗いところが見えない。この「仮面舞踏会」は結構暗い場面が多いので、これも1幕だけ見て、もっと他のビデオがないかと探した。

比較的画像が良くて演出のまとものを探したら、2001年にリッカルド・ムーティがスカラ座で指揮したビデオが出てきたので、それを見ることにした。主演の総督はサルヴァトーレ・リチートラ、総督の副官レナートにはブルーノ・カブローニ、レナートの妻アメリアにはマリア・グレギーニという配役。演出はリリアーナ・カヴァーニ。

演出は映画監督として「愛の嵐」などで有名なカヴァーニで、オーソドックスな演出だが、衣装がなぜかフランスのロココ調なのが気にかかる。確かゼフレッリの版ではいかにもアメリカらしい清教徒みたいな衣装だった。まあ、総督という設定だからロココ調でもよいのかも知れないが、なんとなく僕のイメージの中ではゼフィレッリの美術趣味は良いなあということになった。

音楽は当時スカラ座に君臨していたムーティだから安心して聴ける。ムーティが支配人やオーケストラと対立してスカラ座を離れたのは2005年だったから、その前の油の乗っていた時期の指揮。歌手陣も充実していてなかなか面白かった。

話はスウェーデン国王の暗殺にヒントを得ているが、オペラが書かれたのはフランス革命前で、王室の暗殺をそのまま描くわけにはいかなかったので、植民地時代のアメリカの総督が仮面舞踏会で暗殺される話に置き換えられている。暗殺をしたのは副官的な部下のレナートで、忠実な部下ではあったが、自分の妻アメリアと総督の不倫関係を疑っての暗殺だった。もちろんその背景には、総督に恨みを抱いて暗殺を企む取り巻きもいるという風に描かれている。歴史上では、一種の反乱だったらしいが、オペラでは殺された一番の理由は愛情関係の誤解ということになっている。

この作品は1859年の作品で、「椿姫」を1853年に上演した次の作品なので、いかにも中期のヴェルディらしい旋律や力強さに溢れている。後期の緻密なオーケストレーションも良いが、やはり、この頃の美しい旋律は何物にも代えがたいなあと、改めて思った。


クリント・イーストウッドの「インヴィクタス」

2017-07-27 06:13:59 | 映画
衛星放送でやっていたイーストウッドの監督した「インビクタス/負けざる者たち」を観る。2009年の作品。イーストウッドというと僕などは西部劇に出ていたころや、「ダーティハリー」シリーズのイメージが強いのだが、21世紀に監督した作品はどれも見ごたえがあり、なかなか良い監督になったなあと、感じる。

題名の「インビクタス」はラテン語だが、「イン」は否定の接頭辞なので、「ビクタスでない」という意味だろうが、「ビクタス」というのは「勝利」ではないのかなという気がして、久しぶりにラテン語の辞書をひいてみると、「ビクタス」は動詞「ビンコ」の過去分詞で、この場合は受身的に「ビンコされる」つまり「勝利される」という意味だと分かった。それで、副題が「負けざる者たち」となっているのだ。

映画の中身は南アフリカでネルソン・マンデラが大統領になり、それまで虐待を受けていた黒人たちが、逆に白人たちに復讐的な態度をとろうとするのを諫めて、同じ南アフリカ国民としての融和を図ろうとする様子を描いている。その象徴がラグビーのナショナル・チームの活躍で、南アで開催されたワールド・カップで強豪のニュージーランドを破り優勝するまでが映画の中心になっている。

観ていると分かるのだが、南アの白人たちはラグビーを好み、黒人たちはサッカーを好むので、黒人たちはそれまでは決して自国のラグビー・チームの応援をしなかったのだが、それをマンデラが融和して、国民が一丸となるわけだ。劇中でのマンデラの国民に対する呼びかけは、なかなか説得力があり、今の世界にもっとこうした政治家が必要だという気になる。

出演者の中にスコット・イーストウッドという名前があったので、調べてみるとクリント監督の息子で、イーストウッドという名前を使ったのはこの映画が最後で、その後の映画ではスコット・リーヴスという名前に変更しているようだ。

描き方は決して力んでおらずに、淡々とした映像の積み重ねだが、その言わんとするところはよくわかる映画だった。