劇場と映画、ときどき音楽と本

オペラ、バレエ、歌舞伎、文楽などの鑑賞日記です

新国立劇場オペラ研修生によるガラ・コンサート

2019-10-30 13:33:20 | 音楽
10月29日に新国立中劇場で、オペラ研修所のガラ・コンサートを聴く。午後6時30分開演で、20分間の休憩を挟み、終演は8時20分頃。中劇場は1~9列を潰して客席を限定していたが、それでも半分ぐらいの入りか。研修所の発表会みたいなものだという気がするが、なぜか値段が昨年よりもだいぶ上がっていた。

研修所は毎年5人の研修生をとり、期間は3年間だから、全体で15人がいる。今回はその15人が歌曲やオペラのアリアを歌う構成。伴奏はピアノ1台。プログラムの構成を見て驚いたのだが、昨年とはだいぶ異なり、15人中オペラのアリアを歌ったのはたった6人で、9人は歌曲を歌ったことだ。よく見てみると、3年目の5人と2年目の一人だけがアリアであり、1年目と2年目の4人は歌曲を歌った。これは本人の選択というよりも、研修所での構成で何らかの意図があるのだろう。

こちらは、「オペラ」研修所なのだから、歌曲はあるとしても極一部であり、大半はオペラのアリアを歌うと思っていたのだが、なんと2/3が歌曲だった。こんなことなら「オペラ」研修所ではなく、「歌曲」研修所とでもしたらどうかと思った次第。やはり、原則は各人がオペラのアリアを1曲歌い、3年次ぐらいは重唱をも歌うぐらいの構成の方が良いのではないだろうか。

もう一つ驚いたのは、15曲中4曲がロシア語で、ドイツ語とフランス語が3曲ずつ、日本語が2曲、チェコ語・中国語・イタリア語が各1曲という構成だ(フィナーレの全員合唱のナブッコを除く)。オペラではどう考えてもイタリア語が基本ではないのだろうか。それが1曲とは!

まあ、何らかの意図があってのプログラム構成なのだろうが、聴衆のことを考えた選曲や構成ではなく、研修生のことを考えたのだろうから、全体を構成した人は、その意図をきちんと説明すべきであり、研修所の活動の方針もきちんと述べるべきだろう。プログラムには、公益財団の理事長と、スポンサーのあいさつが載っているが、研修所の所長が説明責任を負っていると思う。

さて、肝心の歌唱だが、以前は女性が多い印象だった研修生が、いつの間にか男性が多くなったという印象。全体としては、男性の特にテノールの歌手はなかなか日本人の中からは出てきにくいなあと改めて感じた。女性陣は元気だったが、その中でも3年目の平野柚香の声が出ていて将来性を感じさせた。

こうしたコンサートでは、15人が代わる代わる登場して歌うので、名前を確認したいのだが、場内の照明を完全に落として、舞台の上の歌手だけをスポット・ライトで浮かべる照明だったので、暗くて名前が読めなかった。そんな、凝ったことをしないで、プログラムの名前や曲名を確認できる程度の照明を残す方がよほど大事ではないのか。完全に照明を落とすならば、歌手は名札でも付けて出てきて欲しい。

急に寒くなり、雨の後で体調もすぐれなかったので、家に帰ってサラダとコールド・ミートの食事。お酒は控える。

ギリシャの旅8

2019-10-29 10:04:14 | 旅行
朝早くから中央市場に行って、魚売り場、肉売り場、野菜売り場を見る。魚は新鮮で豊富。タコやイカもたくさん並べている。並べ方は独特の美意識があり、まるで京都の錦市場のように美しく並べて売っている。

一方、肉売り場の方はダイナミック。日本ではほとんど見かけないが、牛や羊などを店頭で吊るして、その場でさばいている。多くの小動物は頭もそのままに残して丸ごと一匹で売っている。兎はどういうわけか、尻尾と足先だけ毛を残して、そのほかは皮を剥いだ状態で売られていた。結構強烈な肉の匂いがするので、市場内のカフェは諦めて土産物通りを散歩して、いろいろなものを買い込む。

黒絵の皿か壺で、絵のうまく描けたものを探したが、土産物屋に置いてある品は、どれも絵が下手で面白くない。結局小さな小皿だけしか買わなかった。そのほかも見て回りながらお菓子などを買った。

宿に戻り、シャワーを浴びて帰路につく。バスでアテネ空港へ行き、イスタンブール乗り換えのターキッシュエアで帰国。帰りの飛行機では映画を3本見た。ディズニーの最新作「アラジン」。これは気軽に見れておもしろかった。それから「グランド・ブダペスト・ホテル」で、結構面白い不思議な映画。最後は疲れてきたので、気軽に見れる「ジュラシック・ワールド」。いわば昔の「ジュラシック・パーク」の続編で、現代らしく遺伝子組み換えした恐竜の話だが、まあ、普通のパニック映画。退屈もしなければ面白くもなかった。

ギリシャの旅7

2019-10-28 11:02:58 | 旅行
アテネの3日目。美術館の共通券を買って、ビザンチン&クリスティアン博物館を午前中に観る。ギリシャ正教のイコンを中心に展示してあり、4世紀ごろから19世紀までのイコンが年代順に並べてある。イコンの時代による変遷が分かるというか、イコンは大昔のまま現代にも伝わっていて、何も変わっていないことがよく判った。

西洋絵画では、イタリアのジョットあたりからルネッサンスが始まり、描く主題も大きく変化すると同時に、遠近法の確立により絵画表現は劇的に変化したが、イコンでの絵画表現にはほとんど変化がない。これは一点透視のような遠近法を取り入れずに、ずっと空間的な遠近法が守られたことが大きく影響していると感じられた。

歴史的には、ギリシャはオスマントルコに支配され、イスラム世界に組み入れられたので、キリスト教を古いまま変化させずに守ることが最重要だったことが感じられる。今でも閉鎖的な修道院が現役でたくさん残っているのは、その証左ではないだろうか。このビザンチン&クリスティアン博物館は、なかなか面白いのでお勧めだ。

午前11時からシンタグマ広場のそばにある無名戦士の墓での衛兵交代式を観る。衛兵は2名だが、ブラスバンド付きの兵士約100名ぐらいが遠くから行進してきて、衛兵交代をして、戻っていく。白いひだの多い民族衣装的な兵隊が脚を高く上げてゆっくりと歩いて交代する。結構、この交代式は面白い。

午後はアテネの考古学博物館を観にいく。疲れたのでまず地下のカフェで休憩。その後見て回るが、結構部屋数が多く、時間がかかって疲れる。それでも、有名な彫像や、ブロンズ像、昔の壁画など、見どころは多い。赤絵、黒絵などの壺や皿も多い。中には白を使った白絵とでも呼ぶべき壺もあった。

すっかり疲れ果ててホテルへ戻る。体力を失くしたので、ホテルの屋上(と言っても7階だが)にあるパルテノン神殿やアテネの夜景が見えるバーに行って、軽い食事。ロマンティックなムードだが、なぜか混んでいてびっくりした。よく観察すると、半分ぐらいの席が貸し切りになっていて、中年男女の婚活パーティが開かれていた。テーブルに座った女性を男性が順番に回って、話をして採点、評価していた。コーディネーターがベルを鳴らして10分間で話を終わり次のテーブルに回る仕組み。アテネでも結婚難なのかも知れない。

スモークサーモンのサラダと、チキンのスブラキ(串焼き)を食べ、地元の白ワインを飲む。

東京芸術劇場の「放蕩息子/ジャミレ」

2019-10-27 13:20:18 | オペラ
10月26日(土)の昼に、東京芸術劇場の演奏会形式のオペラ公演でドビッシーの「放蕩息子」と、ビゼーの「ジャミレ」を聴く。午後2時の開演で、20分間の休憩を挟み終演は4時30分頃。終演予定は4時となっていたが、開始時刻が10分ほど遅れて、全体的に遅れた。観客は少し年齢層高目で、男性比率も高い。結構空席もあり、7割程度の入りか。演奏会形式なので迷ったが、珍しい演目なので聴きに行った。

ドビッシーの「放蕩息子」は、ドビッシーがイタリア留学するために「ローマ大賞」を狙って書いた作品で、この前にドビッシーは2回ほど「ローマ大賞」に応募したのだが優勝できずに、3度目にこの作品で優勝したという。ラルースの音楽辞典などを読むと、ドビッシーは自分の個性を出すと審査員に評価されにくいと考えて、個性を殺してこの作品を書き優勝したので、本人は喜ぶというよりも複雑な心境だったらしい。だから、この作品を聞いても、あまりドビッシーらしい響きは感じられなかった。

「放蕩息子」というテーマは聖書のルカ書の逸話に基づくもので、父親が二人の息子に財産を与えたところ、兄は堅実にその財産で商いを行ったが、弟はその財産で遊びまくり放蕩を繰り返す。財産を失った後は豚飼いとなって生活したが、自分の生き方を後悔して故郷に戻ったところ、父親に暖かく迎えられる。兄はそれを見て不満だったが、父親は「弟はいわば死んだも同然であったのが、生き返ったのだから、これを祝うのは同然だ」と語る逸話だ。この作品では、この放蕩息子の「帰還」部分を取りあげている。

「放蕩息子の帰還」の話は、西洋絵画ではおなじみのテーマで、16世紀以降多くの画家によって描かれてきた。僕もこの題名を観たとたんに、確かレンブラントの作品だと思うが、エルミタージュ美術館で観た絵を思い出した。こうした宗教的なテーマなので、この作品はオペラではなく、カンタータとして書かれたようだ。

ソロ歌手は、放蕩息子のほかに心配する母親と、暖かく迎える父親で、兄は出てこない。最後に合唱が入り教会音楽風の盛り上がりで終わっている。心配する母親を歌ったのが浜田理恵で、素晴らしい歌唱だった。声も強く、表現も良かった。第一声を聞いた時から心を動かさられた。

代わって、後半はビゼーの「ジャミレ」。豊富な財産を湯水のごとく使う王子は、次から次へと女奴隷を換えて行くが、王子を本当に愛した女奴隷ジャミレは、新しい女奴隷に扮して王子に愛を悟らせて、二人は愛で結ばれる、という話。なんとなく千夜一夜物語のシェヘラザードの逸話を連想してしまう。

これは、ビゼーらしい音楽で、冒頭の王子と召使の男性二重唱などは「真珠採り」の二重唱を連想するような美しさだった。この作品は一幕物のオペラで、曲も良いから、きちんとした演出付きで見たら結構面白いだろうという気がした。

佐藤正浩指揮で、オーケストラは「オペラ・バンド」となっていた。なんとなく名前からして不安な印象を持ったが、聴いてみるときちんとしたオーケストラで、立派な演奏だった。

帰りにいつものスペインバルで軽い食事。トルティージャのほかにイワシのエスカベッシェや塩タラのローマ風フリットなど。家に戻って、ビールを飲みながらラグビーのイングランド対ニュージーランド戦を観た。


国立劇場の「天竺徳兵衛韓噺」

2019-10-26 09:45:41 | 歌舞伎
10月25日(金)の昼に国立劇場で「天竺徳兵衛韓噺」を観る。12時開演で、35分の休憩と25分の休憩を挟み、終演は午後4時。客席はガラガラで3~4割の入りか。こんなにガラガラだと、演じている方も張り合いがないだろうと感じる。三幕六場の構成で、チラシによると1972年に国立劇場が74年振りに通し狂言として復活して好評を得たとのこと。今回の公演は20年振りと書いてある。配役は三年前に襲名した芝翫を中心としたもので、大半は若手だ。

珍しい演目で初めて観るが、四世鶴屋南北の出世作ということなので、それなりに期待して観たのだが、まったく面白くなかった。「通し狂言」と称しているが、調べてみると初演時は5幕7場の芝居だったが、三代目菊五郎が、二幕目と大詰めを組み合わせて短縮版を作ったのが今回の上演のベースになっているようだ。だから、通しといってもどうも物語が分かりにくいし、ほとんど荒唐無稽といってよいように感じられる。

調べてみると、もともとは並木正三が書いた芝居を南北が改作したらしい。正三はいろいろと舞台機構を使ったスペクタクルが得意な人だったので、それを取り入れて南北らしい怪談的な要素を取り入れたのが本作だということらしい。代々の菊五郎が得意としたお家芸で、徳兵衛の異国話、座頭になっての木琴の演奏、上使に化けて現れた後の本水に飛び込んでの早変わりなどが見せどころで、その見せ場はきちんと入っているものの、演ずるのが菊五郎ではなく芝翫なのでちょっと雰囲気が違っているような気もする。

水門の場面の前で大薩摩を聴かせるところはきちんと入っていて、久々に大薩摩を堪能したが、徳兵衛が引っ込むところで、弁慶の飛び六法のような、ガマの六法(水中六法というらしい)を見せるが、水中の雰囲気がきちんと出たのか、またガマがくわえて出るはずの「首」がなく、花四天との首の奪い合いや、ガマの息を吹きかけられてうっとりとする場面なども抜けているように感じられる。

結局、こうした見せ場とガマの作り物や屋台崩しを見せることに注力して、物語は二の次になってしまっていたので、見ていて全く面白くない。通し狂言として、話が伝わらないのだ。それに、見せ場も極めて中途半端で、さして面白くなかった。

おもしろくないのは、台本だけでなく、役者が揃っていないこともある。徳兵衛を演じた芝翫は懸命に演じていたが、役に深みがないし、工夫も足りないように感じた。それに周りの役者が、弱すぎて芝居にならない。特に芝翫が登場する前の序幕などは、見ていて退屈そのもの。芝翫が出てからも相手役が弱いので、芝居がかみ合わない。

歌舞伎や文楽などの古典芸能では、現代劇とは異なり「演出家」というのは存在しないが、今回のような舞台を見ると、型がきちんと伝わっていない「復活狂言」では演出家に相当する監修者でも置いた方が良いのではないかと思う。

台風の影響で強雨の中を観にいって、帰りもまだ雨が降っていたので、芝居が詰まらなかったこともあり、何か損したような気もした。雨なので家に戻り、作ってあったカレーや大根のサラダで食事。お酒はスペイン産のカヴァ。