劇場と映画、ときどき音楽と本

オペラ、バレエ、歌舞伎、文楽などの鑑賞日記です

三浦しおんの「あやつられ文楽鑑賞」

2018-09-29 13:45:58 | 読書
三浦しおんの「仏果を得ず」が面白い、と文楽ファンから教えられて読んだら、結構、細かく調べて書いていたので、同じ三浦しおんの「あやつられ文楽鑑賞」という本も読んでみた。2007年の発刊で、265ページ、ポプラ社。2004~2006年にウェッブ・マガジンに連載したものの単行本化と書いてあった。全部で15章に分かれていて、文楽の人へのインタビューや自分で見に行った鑑賞記がまとめてある。

基本的には、文楽を知らない人向けに書いているので、前提知識なしに読めて面白いが、楽屋訪問記の部分がやはりいきいきとして面白いのに対して、名作の紹介のように書いた鑑賞記の部分は、どうも物語をそのまま追っているようで、退屈する。この名作鑑賞は実際に見ないと面白くないのではないかと思う。

それでも、多くの人はあまり接していない文楽の世界を、いろいろな観点で書いていて、けっこう面白いと感じた。一つは、わざわざ大阪や京都まで見に行く話。また、四国の内子座の旅回り公演の雰囲気も生き生きと描かれている。僕も、追っかけて内子座まで行ったので、懐かしく思い出した。

最後の方は、「浄瑠璃素人講釈」を読む話まで書いてある。結構難しい本なのだが、彼女が書くと軽いノリで、面白おかしい本のようなので、ちょっと驚いた。知っていることも多いが、こういう本を読むとなんとなく楽しくなるのは、前夜観た野球の試合の記事を翌朝のスポーツ新聞で読むのに似ているかなと思った。

「仏果を得ず」の話は「あやつられ文学鑑賞」には出てこない。僕は「仮名手本忠臣蔵」が大好きで、何度も見ているが、早野勘平切腹の場面で「仏果を得よ」という台詞が出てくるのは、この本で初めて気が付いた。どのように使われているのだろうと思い、もう一度台本を読み直すと、「縞の財布」に言葉をかけて、「紫磨黄金の仏果を得よ」という台詞になっていた。昔は紫色の黄金が良い品だとされていたようだ。本を読むといろいろと勉強になる。

避難体験オペラコンサート

2018-09-27 13:37:53 | オペラ
9月26日(水)の昼に、新国立中劇場での避難体験オペラコンサートを聴きに行く。オペラコンサートの途中で、劇場で出火があり、観客が誘導に従って避難するという内容。過去に2回ほど大劇場で避難訓練を実施して、いろいろと改善点を見つけたりしたということから、今回は中劇場で実施したという説明だった。今後は小劇場でも実施したいとのこと。

コンサートを見ていると、途中で係員が舞台上に現れて、出演者を避難口に誘導するとともに、係員から説明があり避難の開始となる。劇場の係員が緑ライトの誘導指示棒をかざして、その出口へ向かって避難するのだが、場内が騒然となるように、いろいろと騒ぐ係りの人もいたようだ。中劇場は1階だと後方にある二つの出口と、舞台脇にある二つの出口から避難することになるが、舞台脇の片方は火元に近いため使用できないという設定だった。

こうした避難訓練は、学校や会社では何度か経験したが、劇場で経験するのは初めてで新鮮な体験。学校や会社だと、知っている人が大半だが、劇場だと周りの人とは見ず知らずだし、平日の昼間の実施とあって、年金生活者みたいな暇人が多そうだったので、慌てて逃げて転んで骨折でもしたら大変ではないかと、見ている方がちょっと心配だった。

あわせて、今回は入場時の手荷物検査の実施訓練もあり、持ち込みのかばんは開けて中身を確認するというのが入場前にあった。これは空港での手荷物検査でよく経験しているので、あまり違和感はなかったが、東京オリンピックに向けていろいろと準備をしているとの説明だったので、説明やアナウンスも英語を交えた方が良いのではないかという気もした。

また、今回は電子チケットに実験もあり、メールで送られてきたスマホ画面を見せると、入場時に「ハンコ」みたいなものを画面に押し付けて、画面が入場済みに変わるという、なかなか凝った仕組みの物だった。いつも、劇場のチケットは郵送してもらったり、コンビニで発券することが多いが、海外のオペラハウスなどでは、チケットを買うとPDFファイルがメールで送られてくるので、それを自分で印刷して持っていくと、入場時にバーコードを読み込んで処理する形になっている。

実際に海外などからチケットをかうことを考えると、こうしたPDF方式を日本でも採用すれば、チケット仲介業者に高い手数料を払わなくて済むので有難いと思う。転売が心配だったら記名式にすればよいと思う。最近は航空機のチケットだってバーコード読み取りなので、その程度の手続きでよいのではないかと思った。

さて、コンサートの中身は、新国立劇場のオペラ研修所の修了生たちが作っているオペラ・ユニットPIVOTによるコンサートで、なかなか楽しめた。男性、女性とも各4人で、そのほかにピアノ伴奏が一人。前半は幕開きと最後が全員による歌で、その間に独唱が何人かある。誰でも知っていそうな有名なアリアが中心。

後半は、「フィガロの結婚」からの抜粋で、歌だけでは物語が判らないので、恐らくは林よう子がナレーションをして、物語を説明しながら、主なアリアを歌っていくという構成。それぞれの役にうまく合いそうな人選で、結構楽しかった。

避難訓練や途中の休憩時間も入れて、1時間50分で終了した。雨が降っていたので、いつものスペイン・バルで食事。ほうれん草とひよこ豆の煮込み、サラダ、鶏肉のアーモンド風味玉子ソースなどを頂く。

映画「ドリーム」

2018-09-25 14:08:32 | 映画
2016年のアメリカ映画「ドリーム」を衛星放送の録画で観る。NASAの有人飛行の軌道計算をした黒人女性数学者の伝記映画。監督はセオドア・メルフィであまり実績がない新人。時代は1961年から1962年にかけての話なので、時代としてはアメリカの公民権法が成立する前で、黒人かつ女性がまだ大いに差別を受けていた頃。また、ヴェトナム戦争にはまだ深入りしていない時代なので、そうした雰囲気で描かれている。

もう一つ、ソ連との冷戦で、宇宙開発も競争となっており、ソ連の方が先に人工衛星や、有人飛行を実現したため、アメリカが必死になって宇宙開発をしようとしていたムードがあふれている。ケネディが大統領となり、ソ連に打ち勝つために、アポロ計画をぶち上げて、60年代末までに月への有人飛行を発表した時代だ。

この映画でも、そうした状況が良く描かれているが、ロケットの軌道計算は、まだコンピューターがないため、すべて手計算で、大きな電卓のような電気式の計算機を使ったりする場面が出てくる。ドラマとしての一つのポイントは、地球上空を回る衛星の楕円軌道から、地城への帰還のために大気圏再突入をしなければならず、どこかで放物線の軌道に乗せるが、その計算をどのように行うのか、方法論が見つからずに悩むという場面だ。結局は、主人公の黒人女性がオイラーの公式を使って計算することを思いつくという展開だ。オイラーの公式という言葉を久しぶりに聞いた気がする。

ほかにも、当時のNASAでは黒人女性が結構多く計算係として採用されていたが、事務所も黒人専用で、トイレもまったく別に設置されている場面が出てくる。主人公の女性は、白人男性ばかりの特別設計担当に配属されるが、そこから黒人女性用のトイレまでは800メートルも離れていたために、トイレのたびに長時間の移動を強いられることになる。それを知った上司は、黒人女性用のトイレの看板を壊してしまい、どこでも好きなトイレを使えという。

もう一つ、IBMの計算機が初めてNASAに導入される場面も出てくる。導入されたのは良いが、なかなかうまく動かなかったり、プログラミングの問題があって、従来の計算係に代わり、プログラマーに衣替えしたりする。その時に黒人女性リーダが読むのが、FOTRANの入門書で、科学技術計算だからCOBOLではなくFOTRANなのだ、と懐かしく思い出した。

伝記本に基づいた映画なので、まったくの嘘ではないだろうが、才能のある黒人女性が一歩一歩道を切り開くために戦っていく様子が描かれていて、まあ、面白いのだが、いかにもハリウッド的なムードだ。こうして努力すれば報われて成功するというアメリカンドリームが実現するので、映画の題名は「ドリーム」としたのだろうが、原題を見てみると、「隠された計算」となっていた。まあ、キング牧師の有名な演説でも「私には夢がある」と語っていたので、「ドリーム」でよいのだろう。

東京オペラプロデュースの「ルイーズ」

2018-09-23 13:21:14 | オペラ
9月22日(土)の昼に新国立中劇場で東京オペラ・プロデュースの「ルイーズ」を観る。15時開演で、20分と15分の休憩を挟み、終演は18時35分ぐらい。22日と23日のダブル・キャストによる2回公演。フランスのシャルパンティエのオペラで、あまり上演されない作品なので観にいった。客層は新国立のオペラよりも若干若く感じられ、客席は9割ぐらいの入り。

話の内容は、パリで両親と暮らす一人娘のルイーズと、ボヘミアンな詩人ジュリアンの恋物語で、そのシチュエーションだけ聞くと「ラ・ボエーム」みたいだが、「ルイーズ」のでは、父親が、まだ幼さの残る娘が稼ぎのない貧乏詩人と恋をして一緒になることに対して心配して、何とか思いとどまらせようとするものの、恋に落ちた若者を止めることは出来ないというもの。ルイーズが3幕で歌うアリア「その日から」が有名で多くの歌手によって歌われている。

さて、今回の公演だが、管弦楽は「東京オペラ・フィルハーモニック管弦楽団」で、指揮は飯坂純、演出は馬場紀雄。美術は土屋茂昭となっている。まあ、良かったのは装置のデザインで、パリの町やルイーズの家などを表現する必要があるが、回転舞台を使って、素早く転換して、ローコストながらうまく作っていた。

肝心の音楽面では、良い出来とは言えない。まず、オーケストラがこの演目を演奏できるレベルに達していない。明らかに練習不足で、各楽器の音がばらばらに聞こえて音楽のていをなしていない。特に管楽器での乱れが気になってしまう。指揮者はこれで胸を張って挨拶できるのかなあという感じだが、客席からは能天気に「ブラボーやブラビー」という叫び声が飛んでいた。恐らくはサクラ的な人だろうが、ちょっとうんざりとした。

歌手陣も良くない。特に1幕と2幕前半は、悲惨な出来で、声が全く出ていなかった。3幕に入り少し良くなったが、全体としてよくない。特にジュリアン役の高田正人の声は貧相な印象だった。フランス語の演目なので、当然に歌唱はフランス語だが、フランス語は子音が多いので、日本人には難しいのかも知れない。聞いていてもちっともフランス語に聞こえない。特にイントネーションが違うので、音楽に乗らないことおびただしい。3幕の有名なアリアだけは良く練習したのか、菊池美奈が頑張って歌っていたが、一般的な水準に達していたかどうかは疑問だ。

もともとあまり面白い話ではないので、父親がいかに娘を心配しているかがキーとなるのだろうが、この演出で見ると、父親というよりも単にロリコンおやじが娘を手放したくないだけのようにも見えてしまう。父親は娘のことを心配しているのならば、親の愛情らしいのだが、父親が自分の幸せを手放したくないというように見えるので、ロリコンおやじになってしまうのではないだろうか。ボヘミアンたちが出てくる場面も、大きなフランス国旗を振り回すのは、「レ・ミゼラブル」のマネだろうか?あまり感心しなかった。

観終わってチョンとうんざりして、家に帰り、ソーセージとキャベツ、白ワインで簡単な食事。そのままでは寝付けないので、過去の名歌手たちが歌った「その日から」のアリアをいろいろと聞いて、気分を変えてから寝ることになった。

大西由紀の「日本語オペラの誕生」

2018-09-20 10:46:28 | 読書
森話社から出た大西由紀の「日本語オペラの誕生」を読む。副題に「鷗外・逍遥から浅草オペラまで」とある。540ページある力作で、今年の7月末に出た本。あとがきを読むと、著者が昨年提出した博士論文「叙景、叙事、抒情の歌-オペラの受容と日本語音楽劇の近代」に加筆・修正を行ったものだと書いてある。読んでみると、博士論文の表題の方がより内容を適切に表している印象を受けた。元が博士論文だから、学術書らしく、詳細な注記が付いている。

内容は、明治時代の演劇改良運動に始まり、初期の浦島劇、「露営の夢」での叙事唱歌、外国オペラの翻訳上演の試み、帝国劇場での創作オペラ、ローシー以降のライト・オペラ路線、お伽歌劇、浅草オペラなどが、9章にわたっていろいろと分析されている。分析の方法は、主にテキストの読み込み。補助的に楽譜や録音も参照しているが、中心となっているのは、テキストで、叙事なのか抒情なのか、また叙景なのかという分析が、全体を貫くテーマではなかろうかという感じだが、大部なわりに、そのテーマに特化せずに、いろいろと周辺的なことも書かれているので、一体何を言いたいのだろうと、読んでいて分からなくなる場面もある。それを補うためか、各章のおわりにまとめがあるのは、わかりやすく、良いと思った。

書いてある内容そのものは、特に驚くようなことはないが、全体として、日本語の西洋音楽を使った音楽劇の歴史としてはバランス取れている印象。特にこれまではあまり書かれることの少なかったお伽歌劇について分析している点が勉強になった。ただ、歌劇というからには、上演されてこそ意味があるので、レコード中心だったお伽歌劇について、どのように位置づけるかは難しいと感じる。

著者のテーマからすると、叙事、叙景、抒情の区分が、演技や作品にも大きく影響しているという立場だから、最初は歌舞伎のチョボという語りの話が出てくる。チョボは文楽の演目を歌舞伎に移した時に、人形の台詞に当たる部分は俳優が語るようになったので、人形の動作を説明する叙景的な部分だけが義太夫節で語られるようになり、その部分がチョボと呼ばれるようになったものだ。

著者は日本の演劇でチョボが果たす役割は、西洋劇では俳優の独白の台詞などになっているので、日本の役者は独白がうまく演じられなかったとしている。この説明にはちょっと違和感を感じた。きちんと統計分析してみないと何とも言えないが、普通のチョボは、人形浄瑠璃時代の名残で、その人形の動きを説明している叙景が中心で、たまに、新たな人物が登場する時に、その人物の説明にも使われたりする。また、物語の発端では、物語の背景などが説明されることもある。仮名手本忠臣蔵の大序には物語の説明が最初にある。こうした、チョボは、古い歌舞伎には残っていたが、明治になろうとする頃には、生世話物などが多くなり、チョボなどはほとんど使われていなかったのではないかという気がする。西洋のオペラが最後はヴェリズモになったのと同じだ。チョボは大半が叙景だから、不要となったのだ。だから、それをもって俳優が独白を苦手としたというのは、ちょっと違うかなという感じだ。

西洋のオペラは、そもそもギリシャ悲劇の再現から発生しているので、コロスという合唱が取り入れられていて、日本語のチョボに当たる部分は合唱が受け持つことが多い。これも昔のオペラの話であり、19世紀後半以降のオペラは合唱もだいぶ減ってしまったので、ワーグナーの楽劇を本で知った当時の日本人の議論には出てこないかも知れない。

日本におけるオペラの受容という点では、叙事、叙景、抒情よりも、観客層、描かれるテーマの分析の方が重要かも知れない。オペラは、フランス革命前の王侯貴族の文化であり、革命後はブルジョワがそれに代わって観客となった。産業革命後に登場するいわゆる「大衆」は、オペラを受容しなかったために、第一次世界大戦後にはオペラは古典化してしまった。

そうした観点で、日本を眺めてみると、オペラに相当するのは将軍家や大名家に支持された能がオペラに相当して、文楽や歌舞伎は庶民向けの娯楽だったといえる。フランスやドイツ、イギリスでも既成曲を替え歌にして小屋掛け芝居に盛り込む芸能は成立していて、バーレスク、ヴォードヴィル、バラッド・オペラ、ジングシュピールなどと呼ばれていたはずだ。

そうした観点で、日本におけるオペラの受容史を考えるならば、日本ではオペラを支えるだけの貴族社会がなかったので、大衆を観客とするしかなく、最終的には浅草の見世物小屋での日本式バーレスクとなったということではないかという気がする。だから描かれるテーマも、時代物、歴史物、神話的な物は無理であり、世話物狂言としてしか成立できなかったろうと思う。この本には書いてないが、ローシーが日本行きを決めたのは帝国劇場(イムペリアル・シアター)という名前に惹かれたことが大きく、ローシーは日本の皇室が持っている劇場だと思ったのに、日本に来てみると民営だったので大層がっかりしたらしい。民営では西洋式のオペラは成り立たないのだ。

浅草オペラについては、上演された作品よりも、そこでアイドルのように人気が出たスターへの関心が多く研究されているが、結局は一時のブームで人気が出ただけのようにも感じる。娘義太夫や、安木節なども同様にブームがあったはずで、当時のペラゴロと呼ばれたオペラファンなども、「どうする連」とさして変わらなかったのではないか。そうした、浅草を中心とした芸能流行史の一環として浅草オペラを位置づけて、エノケンのカジノ・フォリーなどへの流れを説明すべきなのではないかという気がする。

いずれにしろ、こうした研究をする人が出てくるのは大変良いことだと思うので、今後もぜひいろいろな観点から研究してほしいと思う。