劇場と映画、ときどき音楽と本

オペラ、バレエ、歌舞伎、文楽などの鑑賞日記です

歌手陣の充実した「フィガロの結婚」

2017-04-30 09:16:46 | オペラ
4月19日に新国立劇場で「フィガロの結婚」を観る。モーツァルトの人気演目だ。全席完売の満員だった。客層はワーグナーよりも若く女性も多い感じだが、プッチーニ作品ほどではないといったところ。

「フィガロの結婚」は1786年にウィーンのブルク劇場初演となっている。230年も前の作品だが、今見ても全く古さを感じさせずに楽しめるのは、モーツァルトの音楽の良さと、ダ・ポンテの見事な台本によるものだろう。真の傑作といってよい。

ダ・ポンテの台本は、フランスの劇作家ボーマルシュの書いた作品に基づいている。ボーマルシュは多くの劇を書いたが、知恵者のフィガロの活躍する三部作「セビーリャの理髪師」、「フィガロの結婚」、「罪ある母」で有名。これらの作品は1775~92年に書かれているので、オペラ版の「フィガロ」はほとんど同時にオペラ化されている。「セビーリャの理髪師」もオペラ化されているが、これを作曲したのはロッシーニで1816年だから、「フィガロ」の30年ほど後になる。

さて、「フィガロ」は何を描いているのかというと、好色な領主がフィガロの婚約者スザンナを口説くのを、フィガロが知恵を尽くして阻止して、領主をやり込めるという喜劇になっている。そうした点では、この分野はスペインで小説になったアラルコンの「三角帽子」の強い影響を得ているかも知れないと感じる。「三角帽子」では市長に口説かれそうになった賢い美人の粉屋の女房が、市長をやり込める。

さて、「フィガロ」の物語で大きな背景となっているのは、領主様の初夜権だ。これが、当時の社会、スペインでどの程度一般的だったかは僕は知らないが、それを使うか使わないかがフィガロと伯爵の間で繰り広げられる攻防の背景にある。結局、伯爵はスザンナに対して初夜権は行使できず、口説くことにも失敗、更に伯爵夫人に浮気を咎められるなど、散々な目にあって、フィガロは無事に結婚するすることができる。

こうした筋書きから考えると、当時の封建制度に対する痛烈な批判があり、台頭する市民社会を先取りした内容になっている。当時のフランスは、革命で共和制になったり、帝政に戻ったりしてごたごたしていた時代だから、この作品はフランスでは上演禁止となり、ハプスブルグ家をごまかしてウィーンで初演したらしい。喜劇の形をとりながら、内容的には当時の社会をかなり批判している内容なのだ。

今回の演出はアンドレアス・ホモキで、ドイツ人だからいわゆるコンセプチゥアルでモダンな演出になっている。白い抽象的なセットの中で物語は進行し、段ボールの箱を小道具や大道具として使いながら、あらゆる場面を表現している。衣装もすべて白と黒で、色はない。伯爵と伯爵夫人は全部白い衣装。庶民はすべて黒の衣装。フィガロと小姓は区別がつきやすいように半分白、半分黒となっている。大胆に想像すれば、封建的な貴族制度を白と見立てて、それが崩れていくに従い、白いセットも傾き壊れていくとなっている。すっきりしていてまるでルフトハンザ航空の飛行機に乗っているような気分。ごちゃごちゃといろいろなものが付いているJALとは大きく違う。

だが、果たしてこの演出は成功と言えるのか。僕には分かりにくい演出に思えた。何度も見ている演目で話を知っているから良いが、初めて観る人は戸惑うに違いない。一幕では伯爵夫人の寝室でのいろいろなやりとりが面白いのだが、寝室だと分かる家具などがないので、観る方は戸惑うだろう。同じことは四幕の庭園でのやりとりでもいえる。すっきりし過ぎていて、物語をうまく理解できない。これだったら、昨年新国立のオペラ研修所の発表会で粟国淳が演出した舞台の方がよっぽど良いと感じた。

そうはいっても、熱烈なオペラ・ファンは、オペラを観るのではなく、聴きに来るから問題ないのかも知れない。今回のキャストは、歌は問題なくうまかった。一番感心したのは伯爵夫人役のアガ・ミコライで三幕のアリアにはうっとり、その後の手紙の二重唱も素晴らしかった。手紙の二重唱を一緒に歌ったのはスザンナ役を演じた中村恵理で、声も歌も良いうえ、演技の面でもおきゃんな召使の雰囲気が良く出ていて好演。

男性陣ではベテランのピエトロ・スパニョーリが伯爵役で安定したうまさを持っていた。タイトル・ロールのフィガロ役はアダム・パルカで、粗削りではあるが声も良く出ていて楽しめる。フィガロというのはもっと泥臭いイメージだったが、ちょっと男ぶりが良すぎたかも知れない。

他の脇役陣もなかなか充実していてよかった。オケは東京フィルで、40人弱の編成。ワーグナーのように100人編成の大音響ではなく、室内楽のようなしっとりとした音楽で心が安らぐ。時代が古いこともあり、アリアとアリアの間は、チェンバロの伴奏によるレチタティーヴォ・セッコで話が進む。レチタティーヴォだからこそ、これだけ複雑な物語を進められるのだろう。ダ・ポンテは腕が良い。19世紀後半からの歌い切りのオペラではこうした複雑な物語の作品は書けないのではなかろうか。

音楽重視のオペラの得たものと、失ったものをよく考えてみる必要もあるだろう。

晴れていたが、休憩時間には突然の雨が降ってきて、不安定な天気だった。そこで、遠出はせずに、近所のいつものスペイン・バルで軽い食事。カヴァとワインの他、トルティージャ、ハモン、豚ほほ肉の煮込み、バレンシア風のパエージャ。家に帰ってマンサニーニャを飲む。




マリインスキー劇場の「ジゼル」

2017-04-25 14:15:39 | バレエ
衛星放送でマリインスキー劇場のバレエ「ジゼル」を放映したので、録画で見る。なかなかサンクトペテルブルグまでは足を延ばしにくいので、こうして放映してくれるのは有難いことだ。

「ジゼル」はロマン派バレエの代表作で、一幕は町の娘の王子との恋の現実世界の話。二幕はジゼルが亡くなり、墓参りに来た王子アルブレヒトを、ウィリーと呼ばれる結婚前に亡くなった妖精(亡霊)たちの攻撃から、ジゼルが身をもって守るバレエ・ブランシュとなっている。

19世紀中ごろの古いバレエなので、チュチュ(スカート)も踝ぐらいまである長いもので、ロマンチック・チュチュ(ロマン派のチュチュ)が使われるので、優雅な舞台だ。その後、19世紀後半以降はどんどんとスカートは短くなり、「白鳥の湖」に代表されるように、脚を丸出しにしたクラシック・チュチュ(古典派)が使われるようになった。

音楽の世界や文学の世界では、「古典派」の後が「ロマン派」ということになっているが、バレエ界では「ロマン派」の後に「古典派」が来るのでややこしい。

まあ、「ジゼル」はそうしたロマン派に位置づけられる、ロマン派の古い時代の作品でも、一幕などはずいぶん整理したのだとは思うが、マイムの多い物語バレエとなっている。そうした物語の中でも村娘の踊りなど、見せ場はしっかりとあるのがうれしい。

こうしたロマン派のバレエはフランスでは残らなかったが、マリウス・プティパがロシアに持っていき、そこで伝えたらしい。だから、プティパらしい美しさが随所に残っている。

今回の公演ではマリインスキーのプリンシパルであるディアナ・ヴィシニョーワがジゼルを踊り、王子アルブレヒトはパリ・オペラ座のマチュー・ガニオが客演しており、ロシアとフランスの顔合わせで、興味深い。録画は2016年7月となっていた。

マリインスキーの舞台なので、極めてオーソドックスな演出で、ヴィシニョーワとガニオも文句のない踊り。高度なテクニックを見せる場面があるが、そこで拍手が来るのは、さすがマリインスキーだと感心する。

二幕はバレエ・ブランシュで、コールド・バレエの群舞が中心となるが、マリインスキーは昔からコールドのレベルが高いと評判なだけあって、一糸乱れぬ見事な群舞となっている。この群舞の中心はウィリーを率いるミルタだが、今回のミルタはちょっと優しさも感じるような雰囲気で、これはまずい。

感情を持たずに冷酷に、男に復讐をするような「冷たさ」が欲しいところ。

ウィリーたちの登場は舞台の両袖からで、最初はベールで登場して、それからベールを取るのが普通の演出だが、マリインスキーのウィリーたちはすぐにベールを取って踊りだす。

以前に、確か東京シティ・バレエ団の「ジゼル」を見たときに、ミルタがウィリーたちを呼び出すと、舞台奥の墓場からウィリーたちが音楽とともにムックと起き上がる演出があったが、あれはなかなか良かったなー。もとはどこのバレエ団の振り付けなのだろう。

まあ、マリンスキーはよくも悪くもオーソドックスな踊りで、奇をてらっていないから、安心して踊りに集中できた。

テレビで見ると顔がアップになり表情もよく見えるので、やっぱり美男美女が良いなーと感じた。

ディズニーの実写版「美女と野獣」

2017-04-24 15:57:21 | 映画
アメリカでは結構ヒットしているという話を聞いて、実写版の「美女と野獣」を観にいった。封切り直後だが、さすがに月曜日の午前中とあってガラガラなので、ゆっくり見る事が出来た。まずはオリジナルを観ないといけないので、吹替ではなく字幕版の方を見る。

わざわざ実写版と断るのは、1991年にアニメ版が作られていて、今回はその実写版という位置づけだからだ。1991年といえばもう四半世紀も前の作品だが、今回の映画は決して古びていることは感じさせない。

ディズニーはトーキー初期から音楽や歌を入れた作品を多く作っていたが、ウォルト・ディズニーが1966年に亡くなってからは、面白いアニメが無くなり低迷していた。それを打ち破ったのが、1989年の「リトル・マーメイド」で、60年代の音楽は主にシャーマン兄弟が手掛けていたのに対して、「マーメイド」からはアラン・メンケンが音楽を担当した。そうして1990年代のディズニー・ルネッサンスと呼ばれる復活期を迎える。

アニメ版の「美女と野獣」は、「マーメイド」に続く二作目で、ウォルト時代から長く続いていた手書きのセルが廃止されて、すべてコンピュータ作画へと移行した作品だった。そのため、公開当時に観たときには従来の手書きではありえないような流れるように目まぐるしく変わる華麗なカメラ・アングルの変化に気をとられて、音楽といえば『お客になって』くらいしか印象に残らなかった覚えがある。

その後、この「美女と野獣」は1994年に、ブロードウェイで舞台ミュージカル化された。だから、今度の「実写版」も、ある意味では、この舞台作品の映画版ともいえる。この舞台化は当時のブロードウェイとしてはちょっと驚きで、それまでの舞台専門の個性的な製作者や、シューバートのような老舗劇場チェーンの製作とも違う、新しいディズニー・ブランドが東海岸でも誕生したわけだ。

当時のブロードウェイは1940年代から60年代まで続いた、いわゆる古典的な台本ミュージカルの時代が終わってしまい、低迷の時代に入っていたが、ディズニーは従来のブロードウェイの観客とは異なった新しい観客層を呼び込むことに成功して、この「美女と野獣」をヒットさせた。

当時、僕もブロードウェイで観たが、従来のブロードウェイ作品が「大人」の芝居だったのに対して、ディズニー物はやはりどこかに「子供っぽい」ところが残り、お子様向けの作品だと感じた。

だから、今回の実写版映画化もあまり期待してはいなかったのだが、それでも見る気になったのは、アメリカでの評判が良いのと、予告編も面白そうだったからだ。というわけで、月曜日の午前から観にいった。

一言でいうと、実写版は、これまでのアニメ版、舞台版よりも出来が良い。最大の理由は台本が大幅に強化された点だ。アニメ版が約1時間半なのに対して、実写版は2時間を超えるから、曲も何曲か追加しているし、エピソードも追加している。大きな追加というのは、ベルと野獣のそれぞれの幼少期の思い出を挿入して、二人に母との死別というつらい試練が共通してあったことを示したこと、魔法使いをアガサという村の乞食役で登場させてひねりを利かせたこと。そして、バラの花に対する一貫した流れを作った点で、こうした台本の強化により、「大人」にも楽しめるきちんとした作品に仕上がった。

アラン・メンケンの曲は、改めて聞いてみるととても良くかけている。記憶が確かではないが、最後の方で歌われる野獣の独白の曲は、新たに追加されたものだと思うが、素晴らしい内容だった。出演者たちは特にミュージカル専門というわけではないが、それなりにきちんと歌っていた。美女役のベルを演じたのはエマ・ワトソンで、「ハリー・ポッター」シリーズの印象しかなかったが、立派な大人の美女になっていて驚いた。

そういえば、アラン・メンケンも1982年にオフ・ブロードウェイで「リトル・ショップ・オブ・ホラーズ」(恐怖の花屋)のミュージカル版をヒットさせたわけだから、ミュージカルには慣れているのだろう。というわけで、僕にとっては最近評判の良い「ラ・ラ・ランド」よりもずっと楽しめるミュージカルだった。

監督はビル・コルドンで、テレビ出身。映画のミュージカルでは「ドリームガールズ」も撮っていて、これはあまり感心しなかったが、今回の「野獣」では『お客になって』の場面など、1930年代のバスビー・バークリーを彷彿とさせる俯瞰ショットなどを入れていて、古い作品も勉強した跡が伺えた。何しろ、最後のエンド・クレジットの前に、主役級の顔が映って役名と俳優名が出てくるのが、1930年代風で懐かしい。今回は魔法で変身しているために、ほとんどの役者が素顔を見せるのは最後のシーンだけなので、苦肉の策として考えたのかも知れないが、こういうのは大好きだ。

とは言っても、古い人間だから、「美女と野獣」というと古いジャン・コクトーのフランス映画を思い出してしまう。こちらはジャン・マレーが野獣で、独特のしっとりとした映像美だった。懐かしいな。もう一度見たいな。

帰りは、映画館のそばにあったビストロで食事。特に不味いわけではないが、飛行機の機内食のようなサービスで、トレイの上に、スープ、サラダ、メイン、デザート、コーヒー・カップを載せてトレイごとサービスされた。コーヒーはサービスの人が回り、その人の持っているちびトレイにのせて注いでもらう。うーん、なんか違うなと感じた次第。

新国立劇場の「オテロ」

2017-04-22 20:27:20 | オペラ
新国立劇場でヴェルディのオペラ「オテロ」を観る。一言で言って素晴らしい舞台。何よりも主演のオテロ役カルロ・ヴェントレの歌が素晴らしい。この役は「力強い」テノールの役柄で、なかなかうまく歌う歌手が少ないと聞くが、今回のカルロは素晴らしかった。相手役のデズデモーナにはセレーナ・ファルノッキアで、彼女も普通に良い。

オテロの猜疑心を掻き立て、この芝居全体の狂言回し役となるイアーゴには、ウタディーミル・ストヤノフで、歌がまずいわけではないが、この芝居に欠くことのできない悪役としてのねちっこい「いやらしさ」を持ち合わせていなかった。芝居なのだから、イアーゴはあくまでも悪役で、憎らしさを持ってほしいものだが、少し上品すぎる。

この作品の原作はシェイクスピアの有名な悲劇だが、この作品をオペラにするのは大変だったに違いない。何しろ、普通の戯曲をミュージカルにするならば、台本を半分ぐらいに圧縮する必要があるが、オペラにするには1/4以下に圧縮して本質を際立たせねばならない。おまけに、歌に合うように韻をふんだ台本が必要となる。

そうした観点で、オペラの「オテロ」を考えると、素晴らしい台本となっていて、シェイクスピアの原作以上に主人公たちの心理がうまく描かれているといえる。アッリーゴ・ボーイトの台本だ。

オペラでは原作と異なり、原作の冒頭でオテロとデズデモーナがヴェネチアで愛し合い、親の反対を押し切って結婚するくだりが省略されている。そこでオペラの始まりは、オテロ率いるヴェネチアの船団がトルコ軍を嵐の中で打倒し、キプロスの港へ戻るところから始まる。オケは序曲のなしに突然嵐を描くフォルテッシモから始まる激しい曲だ。

オテロはキプロス島に戻るわけだが、舞台のセットはなぜか水路があるヴェネチア風のセットになっている。嵐の中なので写実的なのかも知れないが、舞台は薄暗く、合唱も含めて沢山の人物が行きかうセットの中で、誰がオテロなのか、だれがイアーゴなのか、カッシオはどこに居るのかよくわからない。これは照明の問題だと思うが、スポットライトを主役級には当てるべきだろう。

ヴェネチアの統治するキプロスなので、舞台上にヴェネチア風の水路を作り「本水」を使ったのかも知れないが、照明で水面に反射する光を美しく見せる以外にほとんど「本水」を使う意味はなかったような気がする。

イアーゴはどんどんとオテロを追い詰めていくが、今回の公演ではそこの追い詰め方に迫力が感じられない。悪役は本当に憎らしく演じて欲しいものだ。

最後はオテロが妻のデズデモーナを殺し、自らの命も絶って悲劇的に終わる。どこか、「ロメオとジュリエット」を思い起こさせるのは、この二人の悲劇は、二人の間のコミュニケーションの欠如によって生じたためか。今回のオテロは、黒でもなく白でもなく褐色だったが、その褐色のムーア人としてのコンプレックスが奥底にあったのではないかという気がするが、時代のためかそれを赤裸々に描くような演出にはなっていない。

指揮はパオロ・カリニャーニで、オケは東京フィルハーモニー。立派な演奏だった。

メトの「オテロ」

2017-04-14 17:25:49 | 能・狂言
2015年に新演出で上演された「オテロ」を観る。少し前の上演だが、やっと衛星放送で放送してくれたので、遅ればせながら見る事が出来た次第。これまでのメトの演出は、コスチューム劇としてまるでスペインみたいな昔風の衣装や、割と写実的なセットで上演されていた。今回の新演出は、バートレット・シャーの演出で、良い意味でも悪い意味でもモダンな舞台。ごちゃごちゃと昔の衣装が出てきたりしない分だけ、シンプルでドラマが浮き立つような、クレバーな演出だった。

バートレット・シャーは、ブロードウェイのミュージカルの演出も手掛けていて、イタリアを舞台にした「広場での光」でトニー賞候補となり、「南太平洋」の再演でトニー賞の演出賞をとっている。こういう風に、ブロードウェイのミュージカルと、オペラが融合できるのが、メトロポリタン歌劇場の強みの一つだろう。

主演のオテロにはアレクサンドルス・アントネンコ、妻のデズデモーナにはソニア・ヨンチェーヴァを配し、歌の面では素晴らしいの一言。小柄な指揮者ヤニック・ネゼ=セガンの指揮も中々乗っていた。衣装はモダンだが美しく時代を超越した印象。ガラスで作られた装置もなかなか効果的だった。

ところで、シェイクスピアの「オセロ」という作品を観たのは、ローレンス・オリヴィエの映画だったから随分と昔のことになる。その時のオリヴィエは真っ黒な黒人となって登場している。僕はこの映画を見てから「ムーア人」というのはアフリカの黒人のことだと思っていた。だって、そのころに発売された「オセロ」ゲームというのは、白と黒が対比されているゲームで、シェイクスピアの芝居にヒントを得たゲーム名と聞いた覚えがある。

今回の、メト版の「オテロ」では、まったく黒くなく白人がそのまま演じている。人種差別にうるさくなった昨今だから、こういうのもありなのかなと思ったが、昔のメト版を見ると少し浅黒くメイクしている。そもそも、どういうのが正しいのかと疑問に思う。

オテロは、イタリアのヴェネチアに雇われた将軍で、キプロス島の統治者をしている。芝居は異教徒(イスラム)との戦いに勝利して戻ってきたところから始まるわけだ。キプロス島はトルコに近く、今でもギリシャ系とトルコ系に分かれているぐらいだから、いろいろと複雑な歴史があるが、ヴェネチアが支配していたのは15世紀末から16世紀後半にかけてなので、その時代の話だといえる。また、16世紀後半以降はオスマン・トルコ領となるので、オテロの戦った相手はオスマン帝国なのだろうか。不勉強で分からない。

オテロの妻のデズデモーナはイタリア美人で、浮気の相手ではないかと疑われるカシオもイタリア人だ。オテロはムーア人ではあるが、実力によりヴェネチアの将軍となっているので、イタリア人同士で不倫していないかと心配になるわけだ。イタリア人ならばそういうこともあるかも知れないと、思わせるものがある。


ところで、ムーア人を広辞苑で調べると、「マグレブのイスラム教徒の呼称。元来はマグレブ先住民のベルベルを指す」という趣旨が書いてある。もし、オテロがイスラム教徒ならば、なんでイスラム教徒と戦うのかわからない。当時からシーア派とスンニ派に分かれて戦っていたわけでもないだろう。ということは、元来のベルベル人ということになる。

ベルベル人というのも良く分からないが、人類学的に言うと、コーカサイド(白人系)であり、ネグロイド(黒人系)ではないらしい。ただし、熱いマグレブで生活していたためか、実際に見ると少し浅黒い印象がある。イヴン・ハルドゥーンの「歴史序説」にも熱い地方で暮らす人々は肌が黒くなると書いてある。それでも浅黒いだけで、決してサブ・サハラの黒人のように真っ黒いわけではない。

そうすると、ローレンス・オリヴィエの映画のように真っ黒な黒人というのは、本来的には間違いで、浅黒いメイクぐらいがちょうど良いような気がするが、今回のオテロは全く肌は色を変えていなかった。こういうのは、科学的に正しく演じる必要はないと思うが、今回は観ていて気になった。

もう一方の、イスラム教徒を指す表現だが、劇中ではサラセン人という表現も出てくるので、これはイスラム教徒を指すと考えてよいような気がした。もう一度、シェイクスピアも読み直す必要がありそうだ。