4月19日に新国立劇場で「フィガロの結婚」を観る。モーツァルトの人気演目だ。全席完売の満員だった。客層はワーグナーよりも若く女性も多い感じだが、プッチーニ作品ほどではないといったところ。
「フィガロの結婚」は1786年にウィーンのブルク劇場初演となっている。230年も前の作品だが、今見ても全く古さを感じさせずに楽しめるのは、モーツァルトの音楽の良さと、ダ・ポンテの見事な台本によるものだろう。真の傑作といってよい。
ダ・ポンテの台本は、フランスの劇作家ボーマルシュの書いた作品に基づいている。ボーマルシュは多くの劇を書いたが、知恵者のフィガロの活躍する三部作「セビーリャの理髪師」、「フィガロの結婚」、「罪ある母」で有名。これらの作品は1775~92年に書かれているので、オペラ版の「フィガロ」はほとんど同時にオペラ化されている。「セビーリャの理髪師」もオペラ化されているが、これを作曲したのはロッシーニで1816年だから、「フィガロ」の30年ほど後になる。
さて、「フィガロ」は何を描いているのかというと、好色な領主がフィガロの婚約者スザンナを口説くのを、フィガロが知恵を尽くして阻止して、領主をやり込めるという喜劇になっている。そうした点では、この分野はスペインで小説になったアラルコンの「三角帽子」の強い影響を得ているかも知れないと感じる。「三角帽子」では市長に口説かれそうになった賢い美人の粉屋の女房が、市長をやり込める。
さて、「フィガロ」の物語で大きな背景となっているのは、領主様の初夜権だ。これが、当時の社会、スペインでどの程度一般的だったかは僕は知らないが、それを使うか使わないかがフィガロと伯爵の間で繰り広げられる攻防の背景にある。結局、伯爵はスザンナに対して初夜権は行使できず、口説くことにも失敗、更に伯爵夫人に浮気を咎められるなど、散々な目にあって、フィガロは無事に結婚するすることができる。
こうした筋書きから考えると、当時の封建制度に対する痛烈な批判があり、台頭する市民社会を先取りした内容になっている。当時のフランスは、革命で共和制になったり、帝政に戻ったりしてごたごたしていた時代だから、この作品はフランスでは上演禁止となり、ハプスブルグ家をごまかしてウィーンで初演したらしい。喜劇の形をとりながら、内容的には当時の社会をかなり批判している内容なのだ。
今回の演出はアンドレアス・ホモキで、ドイツ人だからいわゆるコンセプチゥアルでモダンな演出になっている。白い抽象的なセットの中で物語は進行し、段ボールの箱を小道具や大道具として使いながら、あらゆる場面を表現している。衣装もすべて白と黒で、色はない。伯爵と伯爵夫人は全部白い衣装。庶民はすべて黒の衣装。フィガロと小姓は区別がつきやすいように半分白、半分黒となっている。大胆に想像すれば、封建的な貴族制度を白と見立てて、それが崩れていくに従い、白いセットも傾き壊れていくとなっている。すっきりしていてまるでルフトハンザ航空の飛行機に乗っているような気分。ごちゃごちゃといろいろなものが付いているJALとは大きく違う。
だが、果たしてこの演出は成功と言えるのか。僕には分かりにくい演出に思えた。何度も見ている演目で話を知っているから良いが、初めて観る人は戸惑うに違いない。一幕では伯爵夫人の寝室でのいろいろなやりとりが面白いのだが、寝室だと分かる家具などがないので、観る方は戸惑うだろう。同じことは四幕の庭園でのやりとりでもいえる。すっきりし過ぎていて、物語をうまく理解できない。これだったら、昨年新国立のオペラ研修所の発表会で粟国淳が演出した舞台の方がよっぽど良いと感じた。
そうはいっても、熱烈なオペラ・ファンは、オペラを観るのではなく、聴きに来るから問題ないのかも知れない。今回のキャストは、歌は問題なくうまかった。一番感心したのは伯爵夫人役のアガ・ミコライで三幕のアリアにはうっとり、その後の手紙の二重唱も素晴らしかった。手紙の二重唱を一緒に歌ったのはスザンナ役を演じた中村恵理で、声も歌も良いうえ、演技の面でもおきゃんな召使の雰囲気が良く出ていて好演。
男性陣ではベテランのピエトロ・スパニョーリが伯爵役で安定したうまさを持っていた。タイトル・ロールのフィガロ役はアダム・パルカで、粗削りではあるが声も良く出ていて楽しめる。フィガロというのはもっと泥臭いイメージだったが、ちょっと男ぶりが良すぎたかも知れない。
他の脇役陣もなかなか充実していてよかった。オケは東京フィルで、40人弱の編成。ワーグナーのように100人編成の大音響ではなく、室内楽のようなしっとりとした音楽で心が安らぐ。時代が古いこともあり、アリアとアリアの間は、チェンバロの伴奏によるレチタティーヴォ・セッコで話が進む。レチタティーヴォだからこそ、これだけ複雑な物語を進められるのだろう。ダ・ポンテは腕が良い。19世紀後半からの歌い切りのオペラではこうした複雑な物語の作品は書けないのではなかろうか。
音楽重視のオペラの得たものと、失ったものをよく考えてみる必要もあるだろう。
晴れていたが、休憩時間には突然の雨が降ってきて、不安定な天気だった。そこで、遠出はせずに、近所のいつものスペイン・バルで軽い食事。カヴァとワインの他、トルティージャ、ハモン、豚ほほ肉の煮込み、バレンシア風のパエージャ。家に帰ってマンサニーニャを飲む。
「フィガロの結婚」は1786年にウィーンのブルク劇場初演となっている。230年も前の作品だが、今見ても全く古さを感じさせずに楽しめるのは、モーツァルトの音楽の良さと、ダ・ポンテの見事な台本によるものだろう。真の傑作といってよい。
ダ・ポンテの台本は、フランスの劇作家ボーマルシュの書いた作品に基づいている。ボーマルシュは多くの劇を書いたが、知恵者のフィガロの活躍する三部作「セビーリャの理髪師」、「フィガロの結婚」、「罪ある母」で有名。これらの作品は1775~92年に書かれているので、オペラ版の「フィガロ」はほとんど同時にオペラ化されている。「セビーリャの理髪師」もオペラ化されているが、これを作曲したのはロッシーニで1816年だから、「フィガロ」の30年ほど後になる。
さて、「フィガロ」は何を描いているのかというと、好色な領主がフィガロの婚約者スザンナを口説くのを、フィガロが知恵を尽くして阻止して、領主をやり込めるという喜劇になっている。そうした点では、この分野はスペインで小説になったアラルコンの「三角帽子」の強い影響を得ているかも知れないと感じる。「三角帽子」では市長に口説かれそうになった賢い美人の粉屋の女房が、市長をやり込める。
さて、「フィガロ」の物語で大きな背景となっているのは、領主様の初夜権だ。これが、当時の社会、スペインでどの程度一般的だったかは僕は知らないが、それを使うか使わないかがフィガロと伯爵の間で繰り広げられる攻防の背景にある。結局、伯爵はスザンナに対して初夜権は行使できず、口説くことにも失敗、更に伯爵夫人に浮気を咎められるなど、散々な目にあって、フィガロは無事に結婚するすることができる。
こうした筋書きから考えると、当時の封建制度に対する痛烈な批判があり、台頭する市民社会を先取りした内容になっている。当時のフランスは、革命で共和制になったり、帝政に戻ったりしてごたごたしていた時代だから、この作品はフランスでは上演禁止となり、ハプスブルグ家をごまかしてウィーンで初演したらしい。喜劇の形をとりながら、内容的には当時の社会をかなり批判している内容なのだ。
今回の演出はアンドレアス・ホモキで、ドイツ人だからいわゆるコンセプチゥアルでモダンな演出になっている。白い抽象的なセットの中で物語は進行し、段ボールの箱を小道具や大道具として使いながら、あらゆる場面を表現している。衣装もすべて白と黒で、色はない。伯爵と伯爵夫人は全部白い衣装。庶民はすべて黒の衣装。フィガロと小姓は区別がつきやすいように半分白、半分黒となっている。大胆に想像すれば、封建的な貴族制度を白と見立てて、それが崩れていくに従い、白いセットも傾き壊れていくとなっている。すっきりしていてまるでルフトハンザ航空の飛行機に乗っているような気分。ごちゃごちゃといろいろなものが付いているJALとは大きく違う。
だが、果たしてこの演出は成功と言えるのか。僕には分かりにくい演出に思えた。何度も見ている演目で話を知っているから良いが、初めて観る人は戸惑うに違いない。一幕では伯爵夫人の寝室でのいろいろなやりとりが面白いのだが、寝室だと分かる家具などがないので、観る方は戸惑うだろう。同じことは四幕の庭園でのやりとりでもいえる。すっきりし過ぎていて、物語をうまく理解できない。これだったら、昨年新国立のオペラ研修所の発表会で粟国淳が演出した舞台の方がよっぽど良いと感じた。
そうはいっても、熱烈なオペラ・ファンは、オペラを観るのではなく、聴きに来るから問題ないのかも知れない。今回のキャストは、歌は問題なくうまかった。一番感心したのは伯爵夫人役のアガ・ミコライで三幕のアリアにはうっとり、その後の手紙の二重唱も素晴らしかった。手紙の二重唱を一緒に歌ったのはスザンナ役を演じた中村恵理で、声も歌も良いうえ、演技の面でもおきゃんな召使の雰囲気が良く出ていて好演。
男性陣ではベテランのピエトロ・スパニョーリが伯爵役で安定したうまさを持っていた。タイトル・ロールのフィガロ役はアダム・パルカで、粗削りではあるが声も良く出ていて楽しめる。フィガロというのはもっと泥臭いイメージだったが、ちょっと男ぶりが良すぎたかも知れない。
他の脇役陣もなかなか充実していてよかった。オケは東京フィルで、40人弱の編成。ワーグナーのように100人編成の大音響ではなく、室内楽のようなしっとりとした音楽で心が安らぐ。時代が古いこともあり、アリアとアリアの間は、チェンバロの伴奏によるレチタティーヴォ・セッコで話が進む。レチタティーヴォだからこそ、これだけ複雑な物語を進められるのだろう。ダ・ポンテは腕が良い。19世紀後半からの歌い切りのオペラではこうした複雑な物語の作品は書けないのではなかろうか。
音楽重視のオペラの得たものと、失ったものをよく考えてみる必要もあるだろう。
晴れていたが、休憩時間には突然の雨が降ってきて、不安定な天気だった。そこで、遠出はせずに、近所のいつものスペイン・バルで軽い食事。カヴァとワインの他、トルティージャ、ハモン、豚ほほ肉の煮込み、バレンシア風のパエージャ。家に帰ってマンサニーニャを飲む。