劇場と映画、ときどき音楽と本

オペラ、バレエ、歌舞伎、文楽などの鑑賞日記です

映画「アイアン・スカイ」は傑作B級映画

2017-05-31 12:53:44 | 映画
テレビ番組などで、よく「B級グルメ」の特集などという企画があるが、これはなかなか便利な考え方だ。「A級」というのはもしかするとミシュランの三ツ星みたいなレストランで、料理の味だけでなく、サービス、雰囲気、お酒の品揃えまでがしっかりとしていることが問われる。それに対して、「B級」という響きからはいかにも「二流品」みたいな感じだが、美味しくないかと思いきや、そうではないことがある。実は全く洗練されていない内装で、お酒なんかも揃っていないが、味だけはうまいみたいな店というのも確かにある。

かつ丼ならばこの店、ちゃんぽん麺ならばこちらが良い、などと、誰でもお気に入りの店があるのではないだろうか。つまり、「B級グルメ」とは、一芸に秀でていて、店のムードなどはともかく、味はうまいという店だ。デートには不向きかも知れないが、気の置けない友人とならば、二度づけお断りの串カツが良かったりする。

そう考えると、「B級映画」というのも十分に評価される余地はある。台本、演出、撮影、音楽、演技などすべてが揃った「A級作品」に対して、作りは雑だがアイディアが面白いみたいな作品は十分にあり得る。

1950年代ぐらいまでは、映画会社の系列で週替わりの上映をする映画館が多くあり、二本立てだと1本はきちんとした作品だが、もう1本は低予算で作られたB級映画みたいなのがたくさんあった。

最近はそうした興行形態ではなくなったので、そうしたB級作品に出合うことが少なくなったが、ときどき妙に串カツを食べたくなるのと同じに、面白いB級作品を観たくなることがある。

そうした時には、昔作られたハマー・フィルムのドラキュラ映画などを観たりするのだが、この「アイアン・スカイ」を観て、現在でもこういう馬鹿馬鹿しい映画を作れる人がいるとわかりうれしくなってしまった。

話の内容は1945年にナチス・ドイツの残党が月の裏側に移住して秘密基地を作り、満を持して地球に戻るために宇宙船で攻めてくるのを、アメリカが中心となり、各国が協力して防衛する、といういかにも荒唐無稽なコメディだが、その中に、現代の政治に対する風刺と、名作映画のパロディなど、多くの笑いを詰め込んである。

昔は3本立ての映画館などで、名作映画だけでなく、へんてこな作品もやたらと見たのだが、オン・ディマンドの時代となると気に入った映画しか見なくなり、見る幅が広がらない。そこで、週に何本かは恐ろしくくだらなそうな映画を選んでみているが、「アイアン・スカイ」は結構面白かった。まあ、パロディが多いので、元の作品をどれだけ知っているかにもよるかも知れないが、これならば十分に今風カルト映画となり得るのではないだろうか。

毎日、A級の食事ばかりだと飽きるので、たまにはB級グルメも悪くはない。

尼ケ崎彬の「ダンス・クリティーク」を読む

2017-05-30 10:14:12 | 読書
尼ケ崎の「ダンス・クリティーク」を読む。副題には「舞踊の現在/舞踊の身体」とある。尼ケ崎は必ずしも舞踊の専門家ではなく、美学が専門らしいが、現代の舞踊について、あちこちの雑誌などに書いたものをまとめた本らしい。2004年の出版なので、もう10年以上前の出版だ。

なぜ、この本を読んだかというと、放送大学の「舞台芸術の魅力」でモダン・ダンスの説明をしていて、なかなか面白かったからだ。ちなみに、この講座のほかの講義はほとんど見る価値がないように思えたが、尼ケ崎のモダン・ダンスの説明だけは、それなりに面白かった。

放送では、イサドラ・ダンカンから始めて、ピナ・バウシュの説明に時間を割いていたが、本のほうも第1部が「舞踊の現在」で、アメリカを中心としたモダン・ダンスの流れに関する説明があり、その割にはドイツのピナ・バウシュが好きらしく、ピナの説明も充実している。僕もピナは面白いと思うが、なぜ面白いのかを筆者のように論理立てて説明することはできない。勉強になる。ただ、ピナが出てきた背景をクルト・ヨースの「緑のテーブル」などを含めて紹介する必要があるのではないだろかと考える。

第2部が「舞踊の身体」で、身体論というか、なぜ、身体を見せることが舞踊の芸術となり得るのか考え方の流れが説明されている。

僕は、踊りは結構好きで、日本舞踊からクラシック・バレエ、ショー・ダンス、ベリー・ダンスまで何でも見るが、コンテンポラリー・ダンスはちょっと苦手だ。モダン・ダンスぐらいまでならばなんとかついていけるが、コンテと聞いただけで逃げ出したくなってしまう。

単に何でも古いものが好きなためかも知れないが、僕はどうしても「意味」が欲しいと思ってしまうのだ。だから、美術でも印象派ぐらいまでは良いのだが、それ以降の抽象画となるとあまり面白く感じられない。同様に、バレエでも抽象的な意味を持たないレオタードで踊るような作品に魅力を感じられない。

絵でも、踊りでも、そのものの美しさがあれば、意味など求めなくてもよいのではないかと、よく言われるが、意味のない作品を延々と見せられると拷問にでもあったような気がする。そうした作品を面白いという人もいるので、何が面白いのだろうという気でこの本を読んだ。

この本では、アメリカにおけるモダン・ダンスの考え方の流れが簡単に説明してあるので、わかりやすい。要するに、古典派時代のバレエ作品は物語性を有していたが、バレエで語れる物語などは単純でしかなく、物語にはあまり意味はないので、次第に踊りそのものを楽しむ考え方になっていったとのこと。たとえば全幕物のバレエでなく、ガラ公演が成り立つのは物語性をなくして踊りだけを楽しむ第一段階。それが、発展するとバランシンのような「見る音楽」とでもいうような抽象バレエになる。

そうした抽象バレエの中で芸術性を求めて、不要なものをそぎ落として純化していった結果、身体性そのものが問われるような舞踊に行き着き、そうした中でオリジナリティを求めて、偶然性や異形の展示まで行き着いたらしい。30ページぐらいの記述を4~5行で語ると、そんな感じで、あまり正確ではないが、物語性を排して「純化」の道を辿ったようだ。

芸術論としては理解できなくもないが、それが見て面白いかどうか、そうしたものを舞踊というジャンルに入れるべきなのかは疑問に思う。全く異なる分野のような気がするので、審美性を測る新たな基準を設けて、新ジャンルの芸術にでもしたらよいかと思う。

こうした芸術としての「前衛」は多くの人に理解されるわけではないので、それなりの社会的な援助が必要だという記述もある。そのとおりだろう。しかし、誰にも理解されないままに終わるかも知れないし、芸術的に果たして価値を持つのかどうかも議論が必要だろう。

確かにアメリカでは1960年代ぐらいからモダン・ダンスの輸出政策があったような気がする。そうした中で、僕も若いときにアメリカのモダン・ダンスやアルビン・エイリーの公演を見ることができた。しかし、今から考えると、こうした政策は、東西冷戦時代に、ソ連の「クラシック・バレエ」に対抗して、アメリカが「モダン・ダンス」を輸出していたのではないかという気もする。そこらのことは、僕は専門家ではないのでわからないが、誰か研究して教えてほしいと思う。

芸術は「純化」という道を歩むことはあるだろうと思う。オペラから、歌や器楽曲、バレエなどがどんどんと派生したように、それぞれの分野で純化はあるだろう。だが、歌は歌詞と音楽の両方があるからと言って、価値が低いわけではなく、器楽曲や、詩に純化をさせる必要もない。また、ワーグナーが楽劇で目指したように綜合化を目指す芸術分野もあるのではないだろうか。

いずれにしろ、バレエは物語性とマイムをもう少し取り戻したほうが、観客には面白いのではないかと思う。1940年代にアグネス・デ・ミルが「オクラホマ!」や「回転木馬」で見せたバレエや、ジェローム・ロビンスの振付けた一連ののブロードウェイ作品などは芸術性も高いし、見ていても面白かったと思うのだが、そうした商業的にも成り立つ作品をもっと追究してもよいのではないかと思う。

NHKの「バレエの饗宴」を観る

2017-05-29 08:49:17 | バレエ
先日放映された、NHKの「バレエの饗宴」を録画しておいたので、それを観る。今年4月の公演の録画放送だ。NHKは毎年お正月にニューイヤー・オペラ・コンサートを生中継して、4月に「バレエの饗宴」を録画して放映している。

今回の演目は

1.「ナポリ」第3幕から(井上バレエ団)
2.「死の島」(貞松・浜田バレエ団)
3.「テーマとバリエーション」(新国立バレエ団)
4.「眠れる森の美女」第3幕から(牧阿佐美バレエ団)

となっている。

意識したのかどうか分からないが、ブルノンビルのロマン派バレエ「ナポリ」、プティパの古典派バレエの傑作「眠れる森の美女」、20世紀のバランシンによる「テーマとバリエーション」、ドイツで活躍する日本人振付家森優貴の新作「死の島」というのは、時代的にもバランスが取れていて、まんべんなく見せようという点からは評価できる。一方、バレエ団の公演から切り出した4演目だけで、独立したダンサーがガラ的に見せる場面はなく、ちょっと寂しい。「バレエの饗宴」となっているが、別に酒宴を催すわけでもないので、この内容ならば「バレエ団の競演」という所だろう。

「ナポリ」は、全幕を通しての公演を観たことがないが、ブルノンビルの細かい脚技を使った振付は十分に堪能できる。現在の視点で見るとちょっと偏執狂とでも思えるほどの高度なテクニックなので、踊る方も大変なのだろうと思う。インタビューによると、ブルノンビルの振付を守るデンマークの王立バレエ団のプリンシパル経験者から直接の指導を受けているらしい。オリジナルを観ていないので何ともわからないが、マイムはほとんどなく、ディヴェルティスマンの連続で踊られる。3幕だからもともとこうした振付なのかも知れない。衣装はちゃんと着けているが、背景にセットがないのがいかにも寂しい。簡単な書割の幕でもよいからあればもっと楽しめるのにと思う。技術的には振付のとおりに踊っているのだろうが、何か余裕を欠き、美しく見えないのは装置の欠如のためだけではないだろう。この作品を踊るにはまだバレエ団としての実力が足りないかも知れない。

「死の島」は新作のコンテンポラリー・ダンスだが、背景、セット、衣装の全部が黒い。スピーディな動きの中々面白い振付だと思うが、黒を背景に全身黒の衣装の人物が踊るので、テレビでは動きが全く見えない。最近はカメラの性能も上がったのだとは思うが、黒背景に黒とか、白背景に白などはテレビでは動きが見えない。生の舞台ではちゃんと見えたのかなあと心配する。これだけ何も見えない画面も珍しいが、途中で見る気力を失い、早送りで飛ばした。

「テーマとバリエーション」は新国立バレエ団で、安心して見れる。新国立のコールドバレエは、世界的にも高水準ではないかという気がする。バランシンの作品は抽象的なバレエが多く、この作品も物語性が全くない。美しいとは思うが途中で飽きてくる。それでも一生懸命に見てしまうのは、米沢唯と福岡雄大の踊りが良いからだろう。福岡雄大は、普段は小野絢子と組んで踊るので、米沢唯との組み合わせは新鮮に見える。

最後は「眠れる森の美女」。牧阿佐美バレエ団なので、さすがにそつなくまとまっているし、衣装や装置もあるので楽しめる。やはり、青い鳥のパ・ド・ドゥとオーロラ姫のパ・ド・ドゥが良い。テレビで見ると顔の表情まで写るのでつい見てしまうが、結構年季のいったベテランののオーロラ姫だった。百年間眠っていたので年齢不詳出良いのだが、16歳ぐらいの溌溂とした雰囲気を出してほしいと思う。

わざわざ、出かけて見に行くほどのことはないが、こうしてテレビで観るとそれなりに面白かった。

東京オペラ・プロデュースの「ラインの妖精」を観る

2017-05-28 10:40:43 | オペラ
27日(土)の午後に東京オペラ・プロデュースの「ラインの妖精」を新国立の中劇場で観る。プログラムを読むと、東京オペラ・プロデュースは設立43年目で、今回は100回目の記念公演だそうだ。オペレッタで有名なジャック・オッフェンバックが書いたオペラは2本しかないが、その1本目の日本初演とある。まずは、43年も活動を続けて、100回目を迎えたことに賞賛の拍手を贈りたい。個人の情熱だけでは続けられない、組織としても機能した素晴らしい記録だと思う。

そんな記念すべき100回目の公演で、日本初演のオッフェンバック作品となれば満員かというと、客席は5~6割の入りで空席が目立つ。今回の公演は土曜と日曜の2回公演だから、両日合わせてもこの作品を観るのは千人ぐらいか。日本のオペラ・ファンというのはそんななのかなあと、ちょっと寂しく思う。

公演は15時からで、25分の休憩をはさんで、終演は6時45分なので、正味は3時間20分と、結構長い。4幕構成だが、今回は1~2幕の後に休憩、3~4幕という実質的には2幕構成で見せる。

序曲が始まると聴きなれた曲で、「ホフマンの舟歌」そのもの。後に「ホフマン物語」に転用された名曲が結構あるらしい。全体的にオッフェンバックらしい美しいメロディの曲が多く楽しめる。あまり本にも紹介されていないので、今回は全く予習なしに臨んだが、1~2幕が終わって、これはオペラ版の「ジゼル」そのものだと思った。初演の年を見ると1864年となっており、バレエ「ジゼル」が初演された1941年の23年後だ。

オッフェンバックはドイツ生まれのユダヤ系で、音楽の勉強のために1833年にパリに出てきており、1835年からパリのオペラ・コミーク座でチェロを弾いていたというから、1841年に初演された「ジゼル」には当然接触していただろう。

今回のプログラムによると、「ラインの妖精」はウィーンのハプスブルグ家からの依頼で、ロマン派のオペラを書いたということだ。18世紀前半はロマン派の時代だったから、64年というのはもう時代が変わり始めていたのではないかという気がするが、まあ、ロマン派のオペラはおかしくない。「ジゼル」もロマン派のバレエとして数少ない現在に伝わる作品だ。

「ジゼル」では、母親と住む踊り好きの村娘ジゼルに狩人の恋人がいるが、村人に化けた王子がジゼルに求婚して、ジゼルは王子に恋をする。しかし、王子には許嫁の姫がいることが分かり、ジゼルは踊って亡くなる。精神的なショック死なのか、体が弱いのか、はっきりしないが、ここまでが1幕で、2幕は森の場面。ウィリィという妖精が、通りかかる旅人を誘惑して死ぬまで踊らせてしまう。ウィリィというのは未婚のまま亡くなった娘たちの亡霊で、この世に未練があって森の中をうろついているのだ。ジゼルの墓参りに来た狩人は、ウィリィに弄ばれて踊り死ぬ。一方、王子はジゼルが身を張って守り切り、朝になって救われる。一幕が村の現実、二幕が妖精の世界という典型的なロマン派の構成となっている。

さて、「ラインの妖精」の方は、主人公の娘アムルガートは踊り死にではなく、歌い死にする。それ以外は「ジゼル」と全く同じ設定だ。父親不在で母と暮らしていること。狩人から恋されているが、自分は兵士のフランツに恋していて、1幕の終わりで歌い死にすること。その後は、妖精の森に舞台を移して、旅人たちは妖精に惑わされて死んでしまうのを、フランツに恋したアムルガート守ることなど、瓜二つといってよいほど構成は同じだ。

だから、どうだということのほどはないのだが、僕としては新発見の気分だった。

3幕の冒頭で妖精たちが出てくるところで、「ホフマンの舟歌」のメロディが使われる。これは妖精たちの歌だったのだと納得。歌手は特に問題なくそれぞれ良かったが、母親役の羽山弘子が特に良かった。物語の最後で明らかになる実は父親というコンラートを歌った羽山晃生という人は、羽山弘子と役柄だけでなく本当に夫婦なのかなあ。プログラムで見ると同じ時期にイタリアに留学をしている。まあ、作品の出来とは関係ないのだが、ちょっと気になる。

装置、演出はそつなくまとまっているが、衣装はもう一工夫欲しい。兵士たちの衣装がなんとなく東洋的過ぎるし、コーラスと主演級の歌手が全員同じ色の衣装なので、わかりにくい。デザインは変えてあるのだが、もっと目立つように色も変えてほしい。

最後に苦言を一つ。オーケストラは50人と大編成で、東京オペラ・フィルハーモニック管弦楽団となっている。どういうオーケストラかは知らないが、演奏が低調というよりも、ハッキリ言うと下手だ。編成も気になる。この人数でホルンが4本、トロンボーンが3本、トランペット2本というのは明らかに多過ぎないか。金管が多すぎるので、フォルテで演奏すると、音が大きすぎて合唱が全く聞こえない。合唱は男女とも10人くらいで、オケに負けている。このオケ編成ならば合唱の人数は倍にする必要がある。普通に考えれば、合唱の人数はこのままで、オケの管楽器を半減して、30人編成位にすればちょうど良いと思う。おまけに、今回はホルンの音が不安定で、聴きづらかった。明らかな練習不足。今後の課題だろう。

終演が7時近くになったので、初台から新宿近くまで歩き、初めて行くスペイン・バルへ入る。白ワインを飲みながら、トルティージャ、ヒコイワシのマリネ、エビのアヒージョ、アロス・ポルポス(要するにタコ飯)を食べる。土曜の夜で満席だが料理の水準は低い。駅に近い店はおいしくないという法則が当てはまる。特にトルティージャは、ジャガイモも少なく、たまごにも何か小麦粉が混ざっているようでボソボソトとしてダメだ。パンもバゲット風に見えるが、ふわふわの牛乳パンみたいで、小麦粉の香りが感じられない。店を新規開拓するのは、やはりリスクが伴う。家に帰ってシェリー酒を飲んで寝る。


ウディ・アレンの「教授のおかしな妄想殺人」は凡作

2017-05-27 10:26:38 | 映画
衛星放送で、ウディ・アレンの2015年の「教授のおかしな妄想殺人」を観る。アレンの作品はエキセントリックではあるが、概ねどの作品も面白く観る事ができるが、この作品は低調。原題はイラショナル・マンだから、直訳すると「理性を失った男」ぐらいか。

主人公は大学で哲学を教える教授だが、自分自身の生きる目的を失い、酒浸りになっている。授業では「嘘つきはいけない」というのが現実の社会で通用するかどうかなどという命題を学生に投げかけて、「例えば、アンネを匿っているいるところにナチがやってきて、問われたら嘘をつかざるを得ない」みたいなことを言う。サンデル教授の白熱教室みたいなエピソードがあり、自分ではひたすらウィスキーを飲んでいる。

そうした中で、同僚の女性教授と、美しい女学生からモーションをかけられるが、これにも反応は乏しい。この女学生役は「ラ・ラ・ランド」でブレイクしたエマ・ストーンが演じていて、魅力的。ところが、ある日町の食堂で不幸な人生を送っている女性の会話を、偶然に盗み聞きしてしまう。不幸な女性は裁判で夫と係争中だが、悪徳判事のために苦しめられているのだ。

それを聞いた哲学教授は、悪徳判事を殺して不幸な女性を助けることに自分の生きがいを見出す。悪人を殺すことによって社会の役に立ち、人助けをするのだ。ちょっとドストエフスキー的か。こうして哲学教授は悪徳判事を毒殺するが、それに気づいた美人女学生から自首するように言われる。彼は自首ではなく、美人学生の殺害を狙う、といった展開になる。

シチュエーションとしてはコメディでもおかしくないのだが、テーマが重いためか笑えない。いっそ、「罪と罰」の現代版喜劇としても良かったかも知れない。また、アレン映画の特徴でもあるブツクサと話し続けるトークに面白みがない。アレンもだいぶ歳をとってエネルギーを失ったのかなあと、感じさせる作品だった。