劇場と映画、ときどき音楽と本

オペラ、バレエ、歌舞伎、文楽などの鑑賞日記です

スカラ座開幕の「蝶々夫人」

2017-01-25 10:23:22 | オペラ
ミラノ・スカラ座の新シーズンの開幕公演となった「蝶々夫人」をテレビで見た。2016年は日伊国交150周年ということもあり、スカラ座の開幕に「蝶々夫人」が選ばれたようだ。原題はMadama Butterflyで、バタフライ(イタリア語はファルファッラ)は英語が使われているので、マダムと言いたくなるが、ここはイタリア語でマダマとなっている。分かりにくいが、原作はアメリカの演劇で、出演者もアメリカ人だからバタフライなのだろう。プッチーニは旅先のロンドンでこのベラスコの芝居を観て、オペラ化を決心したという。

スカラ座のシーズン開幕公演は少し遅めで、2016年12月7日だった。シーズンの開幕とあって平土間席の観客は皆ブラック・タイで、オーケストラメンバーも見なホワイト・タイの正装という伝統を感じさせる中継で、序曲の前にはイタリア国家が演奏された。

さて、肝心の演目だが、「蝶々夫人」の1904年の初演版での上演というのが珍しい。初演も同じスカラ座だったが、この時には悪評で、それを受けてプッチーニは何度か書き直して、特に2幕を整理して現在上演されている版に仕上げて観客からも高い評価を得たという。その評判の悪かった初演版なので、すっかりその後は忘れられていたのではないかと思うが、今回初めて見るので、本当に出来が悪いのかどうなのか確かめたいと思った。

というわけで、いろいろな意味で興味深く見たが、初演版の方がドラマ的にも充実していて面白いのではないかと思わせるものがあった。これは作品だけでなく、演出の力も大きいと思う。演出はアルヴィス・エルナミスで、美術も彼自身が担当しており、その美術と一体となった演出が今回の公演の最大の成果ではないかと思える。クリスティーネ・ジュルジャネの衣装は日本人の目から見るとかなり違和感のあるものだったが、エルミナスのセットはよく日本を研究して美しい日本を見せた。日本の美人画や風景、浮世絵などをうまく背景に取り入れて、2幕で蝶々さんが「私はピンカートン婦人」と言い切る場面では和服ではなく洋装として、2幕の後半の花を集める場面では満開の桜を登場させるなど工夫に富んでいる。

よく研究しているが、やり過ぎかなと思う場面もあり、2幕最後で蝶々さんが自害する場面では、2畳大の白い布で覆われたマットが運びこまれて、そのうえでの自害ということになるのだが、この場面は歌舞伎の「仮名手本忠臣蔵」四段目の演出をそのまま取り入れたムードとなっている。

歌手は素晴らしく、特にピンカートン役のブライアン・ヒメルは明るくぬけの良いテノールで聞きほれる。こう言うぬけの良いテノールはなかなか貴重な存在だ。蝶々さん役のマリア・ホセ・シリも美しい声で、鈴木役のアンナニーサ・ストロッパは歌だけでなく演技も優れていた。指揮はリッカルド・チャイリー。

こういうテレビ中継を見ると、やはりスカラ座に行って観なくちゃいけないなという気分になり、さっそく今シーズンの演目と切符の売れ行きをチャックしたが、2~3月にアンナ・ネトレプコが歌う「椿姫」は売り切れだった。残念。


新国立の「カルメン」は低調

2017-01-20 09:25:38 | オペラ
新国立劇場で「カルメン」の初日(2016年1月19日)を観る。人気の演目で耳慣れた曲も多く、満席の入りだが、低調なスタートとなった。低調さの一番の原因は、タイトル・ロールを演じるエレーナ・マクシモワの声が十分に出ていないことによる。世界中でこの役を演じているようだが、少なくとも19日夜は声が出ていなかった。もちろん声は美しく、歌もうまいが、声量が感じられない。最初だけかなと思っていたが、1幕、2幕ともダメで、3幕の後半になってやっと少し声が出るようになった。僕などは歌のうまさよりも声量のある歌手が好きなので、ちょっとがっかりとした。

もう一つ、カルメンというのは悪女で、それにもまして魅力のある女を感じさせてほしいところだが、マクシモワのカルメンは妖艶さがなく素直な清潔感が出てしまうようなところがある。これではドン・ホセがどうしてのめりこむのか理解できなくなってしまう。ドン・ホセ役はマッシモ・ジョルダーノで、十分な声量で美声を聞かせる。闘牛士のエスカミーリョ役はがボール・ブレッツで、声は良いが、2幕の聴かせどころで何回か音が外れてしまった。初日だから、まだみんな調子が出ていなかったのかなという感じ。

ドン・ホセの婚約者ミカエラは、日本人の砂川涼子が歌ったが、声量もあり声も美しく役柄にもよく合っていた。彼女が一番輝いていた。2幕の酒場の場面では踊りが入るので、新国立のバレエ団から10人ぐらいのダンサー出演していた。新国立のオペラは踊りが入る場面で、外部のダンサーを入れたりすることも多いが、せっかくバレエ団もあるのだから、両者が連携して公演をやってほしいのだが、スケジュールの都合でなかなかうまくいかないとのうわさも聞く。まずは連携したことは良いが、「カルメン」の酒場の場面というのはセビーリャでフラメンコの本場なのだから、もっとジプシー調の土俗的な踊りでもよいと思うが、バレエ風のかなり上品な踊りで場面異あっていない。振り付けは石井潤となっていた。

2幕の酒場では闘牛士のエスカミーリョが登場するのだが、衣装が黒で地味だ。3幕の終わりの闘牛場の場面できらびやかな闘牛士の格好をして現れるので、2幕では地味に抑えたのだと思うが、観客としては芝居なのだから最初から闘牛士の衣装で出てきてほしいと思う。衣装は緒方規矩子で、スペインのムードをよく出している。欲を言えば女性の髪形などはもう少しスペイン風を強調する雰囲気があっても良いかもしれない。装置は1幕のセビーリャの街頭、2幕の酒場、3幕前半の山中、後半の闘牛場と変わるが、基本的には同じセットを工夫してうまく雰囲気を出した。美術は島次郎。

オケは東京交響楽団で、指揮はイヴ・アベル。演出は鵜山仁で、そつなくまとめられているが、芝居が上手に偏りがちだった印象もある。

2幕のカルメンの歌で何度もマンサニーリャを飲むという歌詞があり、家に帰ってシェリーが飲みたくなった。マンサニーリャは海を感じさせる潮の風味があってうまいんだけど、家には在庫がなかった。また、買っておかなくては。

ヘアスプレイ ライブ!は出演者が豪華で楽しめた

2017-01-19 08:45:11 | ミュージカル
「ヘアスプレイ ライブ!」を観た。去年の12月7日にアメリカのNBCでライブ放送された作品だ。従来こうした作品のライブ中継というのは、ブロードウェイの舞台をそのまま中継する場合が多かったが、NBCが数年前に始めたこのシリーズは、テレビ用に製作されるもので、事前収録ではなくライブで放送するので、全米各地でビューイングなども企画されて盛り上がる。今回も視聴率は高かったようだ。

NBCのライブシリーズは2013年12月の「サウンド・オブ・ミュージック」に始まり、14年の「ピーター・パン」、15年の「ウィズ」と続いて、16年が「ヘアスプレイ」だった。要するに家族そろって楽しめるようなブロードウェイ・ミュージカルの作品を選んでいる印象だ。確かに、こうしたミュージカル作品は映画化すると、舞台のニュアンスが失われてしまうので、大規模なロケーションを避けて、作り物のセットの世界でライブ放送した方が舞台感覚が残り、ミュージカルらしさは感じられる気がする。

アメリカでのこのシリーズの評判は良いようで、FOXテレビが2016年の1月に「グリース:ライブ」を同じように放映して、これも評判になった。こうした作品は、テレビ放映作品なので日本の映画館では公開されていないと思うが、インターネットで有料配信されている。便利な時代になったものだと思う。

さて、「ヘアスプレイ」は2002年のブロードウェイ作品で、2007年にはジョン・トラボルタの母親役で映画化されている。今回は舞台版の曲、映画版で追加された曲などを織り交ぜて、ハーヴェイ・ファイアスタインが新脚色している。ファイアスタインの脚色は「ウィズ」のテレビ版に続き2回目。そして、今回はファイアスタイン自身も、主役トレーシーの母親役を演じている。実は2002年の舞台版の初演でもファイアスタインはこの役を演じているので、今回の配役ではそれが目玉の一つ。主演のトレーシー役は新人の女の子だが、黒人のレコード店主にはジェニファー・ハドソンが出て、素晴らしい歌を聞かせる。映画版の「ドリームガール」では役柄のためか、かなり太っていたが、今回は素晴らしいプロポーションで、これが本来の姿。

トレーシーの敵役となるアムバーの母親でテレビのディレクター役は歌も得意なクリスティン・チェノウェスで、こうした芸達者が出ているので、全体に飽きさせない構成になっている。

舞台となっているのは1962年のバルティモア市で、ちょうどケネディ大統領の時代だ。ファイアスタインの台本では詳しくは描かれていないが、バルティモアは首都ワシントンのすぐ北に位置する中都市で、北部と南部の中間的な場所に位置しており、黒人と白人の人口比率も同じぐらいという微妙な場所にある。劇中で出てくるテレビのダンス番組では週に一度の黒人デー以外は白人だけの出演で、黒人と白人は決して一緒に踊らない時代だった。当時のバルティモアには実際にそうしたテレビ番組があったらしい。

黒人の権利が広く認められて、白人と一緒に舞台やテレビに出るようになったのは1960年代中頃の公民権運動の後であり、その大きなきっかけとなったキング牧師で有名な「ワシントン大行進」は1963年の夏だった。この大行進は南北戦争中に行われた1863年のリンカーンによる奴隷解放宣言の100周年を記念して企画されたものだった。ケネディは63年秋に暗殺されたが、その後黒人の公民権は広く認められるようになる。

「ハミルトン」の出演者達は。舞台を観に来た副大統領候補に直訴したし、昨年の6月のトニー賞の中継では、「ハミルトン」のパフォーマンスの中の『アメリカの独立は俺たち移民が守るんだ』という台詞で、会場が「わーッ」と沸いた。それがブロードウェイのムードなのだろう。そういえばメリル・ストリープも今年1月のゴールデン・グローブの授賞式で、トランプに批判的な挨拶をして、トランプがツイッターで反論をする一幕があったけど、この「ヘアスプレイ」などぜひトランプ氏にも観てほしい。

NBCのライブ!のシリーズは今年の年末には「バイ・バイ・バーディ」を放送するという報道があるが、昨年の今頃の報道では昨年末の作品は「ミュージック・マン」と報道されていたことを考えると、まだどの作品になるかはわからない。

不沈のデビー・レイノルズ

2017-01-15 10:08:18 | 映画
昨年の暮れ、年末の押し迫った時期に、デビー・レイノルズが亡くなったとの報道があった。84歳だというから亡くなったことには驚かなかったが、12月27日に娘のキャリー・フィッシャーが60歳で心不全のために亡くなり、その後を追うように28日に亡くなったのだからニュースに接して驚いた。キャリー・フィッシャーは「スター・ウォーズ」のレイア姫で人気があったので、今でも知られているが、母のデビー・レイノルズは我々世代にとっては忘れられない存在だが、娘に比べるともう知っている人が少なくなったかも知れない。

デビーは美人コンテストで優勝した後にMGMに入り、1950年代、60年代に活躍した。ツンとした美人ではなく、かわいい顔立ちで、身長も低かったので、日本人にもなんとなく親しみの持てる存在だった。歌手のエディ・フィッシャーと結婚して(その後離婚)生まれたのが娘のキャリー・フィッシャーで、なんとなく顔立ちは母親に似ているが、お母さんの方が美人だなあと思っていた。

デビーの代表作は「雨に唄えば」で、ジーン・ケリーやドナルド・オコナーを相手に歌い踊ったが、美人コンテスト出身だけに、歌も踊りも特別にうまいというわけではなかった。「土曜を貴方に」ではフレッド・アステアとも共演したが、1930年代の名物女優ヘレン・ケイン役で、歌は吹替だが、本物のヘレン・ケインよりもずっとかわいかった。ちなみに、ヘレン・ケインというのは漫画のベティ・ブープのモデルとなった女優で、本当にあの漫画のとおりの声と髪型をしている。

年末にこのデビーの驚くべきニュースに接して、その死を悼んで、晩年に出演した「不沈のモリー・ブラウン」の映画を見直した。日本でも公開された作品だが、その後はテレビなどでもほとんど放映されなかったので、今ではすっかり忘れられた作品だ。映画は東京オリンピックの開催された1964年の作品だが、1960年のメルディス・ウィルソン作曲の舞台ミュージカルということだ。ウィルソンの代表作は「ミュージック・マン」だがこの映画は日本では公開されなかった。「不沈のモリー・ブラウン」はタイタニック号が氷山に衝突して沈没した時に生き残った数少ない女性の一人。コロラドの山奥で育ち、結婚した夫が金鉱で当てて大金持ちとなり、デンバーの高級住宅街に居を構えるがスノッブな社交界から受け入れないので、欧州に渡り欧州の貴族たちと社交をするという話だ。

映画版は2時間半近い大作で、ミュージカルの得意なチャールズ・ウォルターズの監督。主演はデビーで、相手役の夫は舞台でもこの役を演じた美声のハーブ・プレスネルという顔合わせだ。ミュージカルとはいえ歌はたった6曲で、舞台版の半分以下になっているので、ちょっと物足りない。改めて見直すと、振付がピーター・ジェナーローで、なかなか面白い。特に前半の酒場の群舞は面白さがたっぷりと出ていた。一説によると、MGMではほぼ同じ時期に製作されていた「クレオパトラ」で予定以上の予算が使われたために、この「不沈のモリー・ブラウン」の製作費は大きく削られたといういう。確かに、前半はコロラドの美しい風景ばかり映り、美しくはあるが、ミュージカルとしての面白みには欠ける。やっぱり、ミュージカル映画はお金をかけた方が面白い。

ところで、この「不沈のモリー・ブラウン」はMGM作品なのに、MGMのミュージカル映画を集めた「ザッツ・エンターテインメント」には入っていなかった気がする。デビー・レイノルズ自身が「ザッツ・エンターテインメント」では紹介役として登場して、作品紹介をしているので、なぜ「モリー」が登場しないのか考えてみた。

「ザッツ・エンターテインメント」は、1929年の「ホリウッド・レヴュウー」から始めて、最後は1951年の「巴里のアメリカ人」だったが、そのフィナーレの前は1958年の「恋の手ほどき」で終わっている。アーサー・フリードに捧ぐという映画だから、製作のフリードが作った最後のミュージカル映画までしか扱っていない。1964年にローレンス・ウェインガートンが製作した映画はお呼びでなかったのだ。

そうした観点で「ザッツ・エンターテインメント」のパート2とパート3を調べてみると、パート2は終わりから3つ目が「恋の手ほどき」、パート3は「バンド・ワゴン」のフィナーレの前が「恋の手ほどき」となっている。そうか、MGMミュージカルは1958年の「恋の手ほどき」で終わったのだと、改めて感じた。

しらぬい譚を観る

2017-01-13 09:40:02 | 歌舞伎
国立劇場の正月は、恒例の菊五郎劇団の気楽なエンターテインメント歌舞伎だ。

今年は「しらぬい譚」で、1977年に国立劇場で復活上演した河竹黙阿弥の「志らぬひ譚」を換骨奪胎して新台本を作ったと、パンフレットにある。原作は草双紙で人気が出た「白縫譚」で、1853年に初日狂言と後日狂言と2回に分けて黙阿弥が劇化しており、黙阿弥全集にも入っているが、今回の作品とはだいぶ違う。

基本となる若菜姫の復讐劇という点では同じだが、エピソードの取り方や話の展開は全く別物といってよい。台詞を聞いても、五七調のいわゆる黙阿弥らしさは全くないので、新台本といってよいのだろう。クレジットを見ると、国立劇場文芸研究会の脚本となっていて誰だかよくわからないが、まあ、そうした台本だ。

構成としては、発端、序幕、2幕目、三幕目、四幕目、大詰という構成で、12時開演で終了は3時45分で、休憩が3回あり合計1時間だから、正味は2時間45分となる。この時間内で、若菜姫が蜘蛛の妖術を得て、術を破る花形の鏡を奪い合い、父の敵への復讐を遂げようとする上に、遊郭通いにうつつを抜かす殿や、それをいさめる忠臣、そそのかす悪役などが入り乱れるので、話はごちゃごちゃしている。

まあ、出来の悪いハリウッドのアクション映画と同じで、観ている間は次から次へと時間が起こり、ハラハラ、ドキドキして終わればよいということだろう。発端は菊之助の若菜姫が雲の妖術を手に入れるエピソードだが、海底に沈んだ鐘から始まり、突然に山中の蜘蛛の登場となり判りにくい。「発端」というぐらいだから、日常の生活風景から入るべきではないのか。全編を貫くのが若菜姫の復讐劇だとしたら、その原因となる、父親の死から入った方が良いかと思う。

場面代わって、悪臣にそそのかされて、遊郭通いする殿の描き方は、どことなく先代萩をほうふつとさせる。先代萩では、悪人たちの連判状はねずみに盗まれて、床下でねずみたちが登場するが、「しらぬい譚」では、御所の場で狛姫が化け猫に取りつかれて苦しむので、ねずみではなく猫たちが登場して暴れる。その猫たちと戦い、床下ではなく屋根の上に登場する化け猫を破るのは、松緑の秋作。化け猫に止めを刺すのは、スターウォーズに出てくるライトセーバーの槍を使っていた。

大詰めは、正月らしく曽我の対面よろしく、この場は分かれて再び戦場でといった終わり方。まあ、菊之助が二回見せる宙乗りと、化け猫の若手を中心としたアクロバティックなアクション場面が見せ場だから、話自体は力が入っていない。

菊之助がほぼ出ずっぱりの活躍で、それを忠臣役の菊五郎、時蔵などが支えている。松緑はアクション場面中心で問題ないが、やはり台詞の口調は若干気になる。そのほか、彦三郎や右近が出演。ところどころアチャラカ風の芝居にはなるが、正月の気軽な娯楽としては良いだろう。いろいろと新しい試みをするのは良いが、下座音楽は感心しない。特に二度目の宙乗りの伴奏で、花道のすっぽんの上に尺八、上手の文楽の語りをやる御簾の中に三味線というのをスピーカーで鳴らすのはどうかと思う。やはり、アコースティックな下座で聴かせてほしいなと感じた次第。

開演時間にも疑問が残る。12時開演で1時間半ほど芝居があって、1時半ぐらいに35分間の休憩となり、昼食の時間となる。こう言う配分だったら、11時開演にして12時半から昼食の方が良いのではないか。本当は13時とか14時の開演でよいかと思うが、劇場内の食堂の経営も考えると、そうもいかないということだろうから、開演11時で終演14時45分としてもらいたい。僕は劇場内では食べないので、開始前か、終演後に食べるのだが、12時開演だとランチをとるにも店が開いておらず、3時45分に終わっても夕食には早すぎる。中途半端なのだ。

国立劇場も50周年で改装をして、でかい食堂は廃止して、ゆったりとしたロビーとバール、茶屋などにしてはどうだろう。やはり日本人は劇場で食べたいかなあ?