劇場と映画、ときどき音楽と本

オペラ、バレエ、歌舞伎、文楽などの鑑賞日記です

三浦雅士著「バレエ入門」

2018-01-31 11:26:56 | 読書
バレエの本を多く出している新書館の「バレエ入門」を読む。三浦雅士著で、280ページ程度、2000年の出版。著者は「ダンスマガジン」の編集長をやっていただけでなく、その後は思想誌「大航海」を創刊したとある。そういう人が書いた本だ。

「バレエ入門」とタイトルがつくと、実際にバレエを習う人のために入門書が多いので、この本もそうした内容だろうと思って、手にも取らなかったのだが、バレエを習う人向けというよりも、きちんと見たい人向けの内容だと知ったので、読んでみた。内容としては、導入部分が1章で20ページ、誕生から現在までの歴史が中心となっていて、8章で190ページぐらい。ダンサーと振付家の関係などが、最後の2章で35ページぐらい、という構成。量的に言ってもバレエの歴史書といってよいだろう。

ところが、この本が面白いのは、事実関係を記載した歴史ではなく、いわばバレエ思想史とでも言ったらよいような形で、これまでの人々はバレエで何を描こうとしたのかを解説している。こうした記述は他の本にはあまりないので、貴重な本だともいえる。個別の作品の内容や、上演などの事実関係については他の本を読んでくださいという形。だから、「入門」とはなっていても、バレエ作品を一通り観た人でないと、イメージが湧かないかも知れない。一方、ある適度バレエを知っている人には、各作品の位置づけが判り、大変勉強になると思うう。

いろいろな作品が生まれてきたのは、もちろん各人の考えや個性も大きいが、そうした芸術を生み出した社会的な背景が大きく影響していることも見逃せないだろう。そうした点で、オペラや音楽との関係だけにとどまらずに、演劇や美術との関係にもきちんと目配りしてあり、なぜ、作品がその時代に生み出されたかというのが良く分かるが、逆に、そうしたことを全く知らない人にとっては、混乱を深めるだけかも知れない。

文章は平易にまとめられていて読みやすく、誰でも読めるが、内容的には全く「入門」ではない。特に、20世紀の説明部分では、モダンダンスとの関係もかなり記述されていて、一般の人からすると、バレエとモダンダンスとはちょっと違っているのではないかという部分を、一つの歴史としてうまく説明している。著者の考えによれば、バレエは、バレエ・ブランの誕生あたりから、現実世界と冥界との間を描こうとしており、それは能の演劇構造とも比較し得るものだとしたうえで、20世紀のベジャールやピナ・バウシュにしても、死と再生を描こうとする点では、その延長線上にあるという説明をしている。

これを読むと確かにそうだなあという気がするが、僕などはもっとエンターテインメントな作品が好きだから、あまり真面目くさった暗い内容の作品よりも、軽いエンターテインメントの作品が好きだ。

著者はジョン・ケージの音楽とマース・カニンガムのチャンス・オペレーションみたいな踊りも重要なものだというけれども、結局は歴史に残らない、つまり人々には支持されなかった作品ではないかという気がする。どうも前衛的なモダン・ダンスは苦手だ。

まあ、かなり著者の深い思想に裏打ちされた面白い歴史書だといってよいだろう。「入門」という書名でだいぶ損をしているのではないかと思った。

大映の「新やじきた道中」

2018-01-30 15:31:23 | 映画
1952年に作られた大映の「新やじきた道中」を衛星放送で観る。古い作品なので、初めて観る。原作は「サザエさん」で有名な長谷川町子の漫画。原作の漫画は大昔に読んだ覚えがあるが、「サザエさん」と同じようにほんわかしたムードの作品だったと記憶する。

「やじきた」物は、1950年当時は結構人気がある演目で、確かエノケンとロッパの組み合わせなどもあったような気がするが、大映作品では花菱アチャコと横山エンタツが「やじきた」を演じる。「やじきた」の基になっている「東海道中膝栗毛」は、江戸の二人組が、東海道を京都、大阪方面へと向かうわけだが、大映版はエンタツとアチャコだから、大阪の職人が、怖い女房から逃げて、京都方面へ向かうという逆のコースをたどる。

二人の怖い女房が、清川虹子と丹下キヨ子という、当時としては人気の顔ぶれが揃っていて、役者を観ているだけで楽しい。冒頭は二人が富くじにあたる場面だが、その場面でくじを引く巫女役で、若い江利チエミが出てきて、歌って見せる。そのほかに、伴淳三郎も出てくる。音楽は、当時からモダンな曲を書いていた三木鶏郎で、面白い曲を書いている。

監督は当時の大映でたくさん撮っていた森一生で、手堅くまとめている。まあ、映画として面白いかどうかは別として、エンタツとアチャコの掛け合い、清川虹子と丹下キヨ子の強い女房ぶりを見て楽しむ作品。当時のムードが出ているだけでなんとなく楽しかった。

藤原歌劇団の「ナヴァラの娘+道化師」

2018-01-29 10:39:49 | オペラ
1月28日に東京文化会館で上演された「ナヴァラの娘+道化師」の二本立て公演を観る。午後2時に始まり、途中25分の休憩を挟み、終演は16時45分頃。客席の入りは8割程度か。高い席と安い席が売れていて、中間の席が売れていない印象。

「道化師」は普通「カヴァレリア・ルスティカーナ」との二本立ての公演が多いが、今回はマスネのヴェリズモ・オペラ「ナヴァラの娘」との組み合わせ。「ナヴァラ」は初めて観る演目だが、どうやら今回が日本初演らしい。上演時間は50分程度で、1時間もかからない短い作品。マスネの曲で、もちろんフランス語。

藤原歌劇団は、いつのセットが貧弱なので、脚が向きにくいのだが、今回は珍しい演目を観たいので、上野まで出かけた。「ナヴァラ」の音楽は確かにヴェリズモ的なもので、聴いていてなかなか面白い。しかし、台本が貧弱な印象。身寄りのない貧しい娘が、軍隊の男と恋に落ち、結婚を望むが、その男は裕福な家庭の出身で、父親が出てきて、身分違いの結婚をどうしても望むならば、高額の持参金を持って来いという。娘は懸賞金のかけられた敵軍の司令官を殺害して持参金となる高額の金を手に入れるが、恋人の男はその金の入手方法を疑うだけでなく、戦場で深傷を負いなくなってしまう、という悲劇。

主人公の精神的な葛藤がねちっこく描かれているわけではなく、恋敵が登場して三角関係になるわけではないので、さらっとしていてすぐに終わる印象。オペラの場合には、精神的な葛藤がアリアで盛り上がるので、そこらがないと寂しい。歌手陣は充実していたが、特にアニタ役の西本真子の声が良く出ていた。

演出はマルコ・ガンディーニで、衣装はシモーナ・モッレージ、美術はイタロ・グラッシとなっていて、プログラムを買わなかったので、よくわからないが、名前からするとイタリア系の名前だ。軍隊が舞台となったオペラだから仕方がないのだが、みんな軍服を着ているので、主人公がどこに行ったのか分かりにくい。衣装と演出でもう少し判りやすさを出してほしい。また、唯一登場する女性アニタ役もズボンをはかせているが、これは良くないと思う。地味な色なので軍人と区別しにくいし、この時代であれば当然にスカート姿が良いかと思われる。ちょっと汚れた白いスカートなどはどうだろうか。

「道化師」の新演出はそれなりに良くまとまっているが、やはり、旅回り劇団なので、派手に宣伝を描いたワゴンみたいなものが出てきてほしい。歌詞にも出てくるし、ワゴンがあった方が、舞台にも立体感が出るだけでなく、演出もやりやすいのではないかと思う。予算の関係で仕方ないのかなあ、とも思うが、そこらを充実するともっとファンが増えるのではないかとも思う。こちらも歌手陣は中々充実していたが、ペッペ役の澤崎一了の声が美しく、聞き惚れた。しかし、これはコメディア・デッラルタ的に上演すべきなので、ピノキオみたいな鼻を付けるのは道も不釣り合いではないか。もしやるとしたら、上だけの仮面だろうと思う。

ダブル・ビルの公演だが、予算の関係でセットが使いまわしなのは仕方がないとしても、「道化師」の村人の男たちが「ナヴァロ」の軍服のまま登場するのは困ってしまう。せめて、軍服の上着を脱いで、シャツ姿にできないものだろうか。ムードが壊れると思う。

オーケストラは東京フィルで、指揮は柴田真郁。そつのない演奏。

劇場を出るとちょうど5時だったので、そのまま、海鮮料理の得意なイタリア料理店で食事。魚介類のフリット、カルパッチョの盛り合わせ、マグロのロースト、ピザなどを白ワインで頂く。カルパッチョの盛り合わせは、オリーブ・オイルがかかっているのを除けば、居酒屋で出てくる刺身盛り合わせとたいして変わらない。カルパッチョは完全に生でなく、ちょっとあぶっても良いのにと思いながら食べた。でも軽くあぶって出てきたら、今度はたたきと変わらないと感じるかも知れない。何が違うのだろうかと思った。

新国立劇場の「こうもり」

2018-01-28 09:19:47 | オペラ
1月27日の昼に新国立劇場で「こうもり」を観る。日本の歌舞伎では正月は曽我物を見るのが慣例だが、ウィーンでは正月といえば「こうもり」だろうから、少し遅くなったが、観てきた。台詞の多いオペレッタだから、かえって日本人が演じるのは難しいのか、主要なキャストはほとんどウィーンから呼んできた、引っ越し公演のようなスタイルだ。7人も呼んできている。他に台詞のある役で、日本人が演じたのは三人だけ。

14時開演で、一幕と二幕の間に休憩25分が入り、二幕と三幕の間は休憩なしで演じられる。終演は17時ちょっとすぎ。場内はほぼ満席だった。この作品は、三幕の牢獄の監守が酔っぱらう場面が長すぎてちょっとだれるのだが、今回のプロダクションは、そこはすっきりとしていて、あまり冗長な感じはしなかった。全体的に演出はすっきりとしている。美術と衣装はオラフ・ツォンベックで、アール・ヌーヴォーとアール・デコを混ぜ合わせたような様式で統一してあり、二幕の宴会場面のご婦人方の衣装などは特に美しく仕上がっている。

幕が開くと、舞台上にもう一つの額縁があり、その額縁の周囲には植物的な模様が描かれている。アール・ヌーヴォーのスタイルだが、それを見て、一瞬、日生劇場の地下に昔あった「アクトレス」というレストランの内装を思い出した。確かアメリカの美術家の手によるものだったと思うが、壁一面が美しいアール・ヌーヴォーの模様で覆われていて、雰囲気が最高のレストランだったので、なくなったのが寂しい。まあ、シュトラウスのオペレッタにうまく合うかどうかは疑問だが、美しいドレスがデザインされていて、主役級のドレスよりもコーラスの方がゴージャスなムードだった。

7人もウィーンから呼んできたので、さすがに芝居のテンポや雰囲気はうまく運んで退屈しないが、音楽的にも素晴らしいかというと、なんとなく低調なムードだった。オーケストラはは東京交響楽団で、小さめの二管編成で、コントラバスは4本。アルフレード・エシュヴェが本場から来て指揮をしたが、なんとなくもたついていた印象。歌はアデーレ役のジェニファー・オーリンが良かったが、ロザリンデ役のエリザベート・フレヒルにはもうちょっと頑張ってほしかった。他の配役も含めて演技は皆達者で楽しい。

二幕で、踊りが入るがこれは東京シティ・バレエ団となっている。男女とも5人のダンサーが出てきて踊るが、特に男性ダンサーが技を見せている。いつも思うのだが、新国立には専属のバレエ団がありながら、どうしてオペラの踊りで他のバレエ団の出演を求めることになるのだろう。スケジュールの都合もあるのかも知れないが、ウィーンの国立劇場のようにオペラを20演目以上もシーズン中に上演するわけではなく、新国立の場合にはせいぜいオペラは10演目、バレエは6演目ぐらいだ。いくらでもスケジュールの調整は可能だろう。大体、他の公演に出ているソリストだって多いのだから、オペラとバレエの製作陣できちんと調整すべきではないかという気がする。そうしないと、日本で本当の意味で、踊りを入れたオペラというのを創作出来ないのではないかという気がする。ぜひ検討をお願いしたい。

公演が終わると、ちょうど夕方になったので、なじみのフランス料理店で食事する。寒いのであらかじめカスレを注文しておいた。鴨のコンフィはいつもメニューにあるので、いつでも作れるかと聞いた所、白いんげん豆を戻すので、2~3日前には連絡してほしいと言われたため、事前に注文しておいた。前菜はサーモンの低温調理してスモークをかけたもので、絶品だった。シャンパンの後に、アルザスの白、最後はラングドックの赤を飲む。カスレを食べたら、おなか一杯になったので、デゼールはパスして、エスプレッソにプチ・フルールで終わりにした。

安田寛著「バイエルの謎」

2018-01-27 12:31:04 | 読書
音楽の友社から出ている安田寛著の「バイエルの謎」を読む。2012年の刊行で、280ページほどの本。副題に「日本文化になったピアノ教則本」とある。著者は音楽大学で音楽美学を専攻したこの分野の専門家。日本ではピアノの最初の教則本といったら、バイエルを使うというのが一般的だと考えられていたが、著者によると1990年代頃から、「今時古いバイエルみたいな教則本を使っているのは日本だけ」という批判もあり、バイエルのことを調べ始めたらしい。

もし、「今時そんな古いのを使っているのは日本だけ」というのが、調べ始めた動機だとすれば、ほかの国では何が使われているのか、統計資料のようなものが出てきたり、日本の音楽教室で使われている教則本のシェアを調べるというのが当然の展開だろうと思うが、安田氏の興味はこの教則本を作ったバイエルという人物は本当にいたのかどうか、実際どういう人物なのか、という方面に向けられる。そのために、生まれた町や活躍した町で、その痕跡をたどろうとするが、なかなかうまくいかない様子がエッセイ風に綴られる。

図書館や資料館で、資料を探し、とうとう故郷の教会に残っていた実在の一次資料を突き止めるというのが、ハイライト。もう一つの話は、バイエルの内容にかかわるが、全部で106ある練習曲のうち、64番までと65番以降はかなり難しさが違うので、同一人物の手によるものかどうか、著者は疑問に思ったらしい。確かにチェックしてみると、鍵盤と指の関係が65番以降はフロートになっている。また、著者は指摘していないが、ヘ音記号が登場するのは65番以降だ。

僕が面白いと思ったのは、資料探しをするのに、インターネットで検索しまくり、Webcatなどを使っている点だ。僕もこれにはよくお世話になる。いろいろと調べて、結局、本人の伝記みたいなものは見つからないのだが、4年間いろいろと探し回って判らなかったものが、ある日、Google Booksで調べたら、かなり詳しい死亡記事を見つけることができて、よくわかったというのが最後。Googleは偉大なりということだろう。

昔だったら簡単に入手できなかったような資料でもなんでも、今やインターネットでいろいろと検索するだけで、かなりの資料に接近できるようになった。そうした点で、日本はかなり世界に遅れている。国立国会図書館のデジタルライブラリーもかなり充実してきてはいるが、インターネットで公開されているものはまだまだ少ない。公立図書館などからデジタル資料を見られるというサービスもあるが、国会図書館に行かないと見れないというデジタル情報も多い。これは著作権の確認が取れていないなどの問題があるのだとは思うが、権利が明確でないものは、公開を許すというような法律を整備してデジタル化を進めないと、諸外国に大きな後れを取るのではないかと思う。

少なくとも、戦前の新聞や雑誌などは、全部デジタル化して公開したらどうなのだろうかと思った。