劇場と映画、ときどき音楽と本

オペラ、バレエ、歌舞伎、文楽などの鑑賞日記です

フィリス・ハートノルの『演劇の歴史』

2018-03-30 11:16:24 | 読書
演劇の歴史の通史を分かりやすく書いた本を探してみたが、新しい本がなく、ちょっと古いが、ハートノルの書いた『演劇の歴史』を読む。1981年に朝日出版社から出版された本。白川宣力と石川敏男の共訳。約330ページの本だが、本文は260ページで、本文は二段組だが、写真がかなり多いので、簡単に読める。訳文はおおむね読みやすく、問題は少ないが、僕の得意な分野では、一部に題名の不適切な翻訳も見受けられた。

著者はイギリスの大学で教える演劇学者のようで、西洋の演劇中心だが、ギリシャ劇の発祥から、20世紀の半ばの現代演劇まで、バランスよく記述している。原著は1968年の出版で、「コンサイス・ヒストリー・オブ・ザ・シアター」となっているが、確かにコンサイスなので、個別の演劇作品の内容にはほとんど触れずに、全体傾向だけを述べている印象。大まかな流れは理解できるが、歴史書としては「なぜ」そのような変化が起きたかを、もう少し丁寧に語ってくれるとありがたいという印象。

翻訳の二人は、本に略歴が載っていなかったので、ネットで検索すると早稲田の演劇博物館の人のようだった。そのためかもしれないが、付録として、日本で出版された西洋演劇関係の本の詳細な一覧が50ページにわたり掲載されている。それを見て思ったのが、現在よりも昔の方が、西洋演劇関係の歴史書や解説書、戯曲の翻訳が沢山出ていたことだ。ほとんど読んでいないので、書名だけからの判断だが、昔の方がこうした知識の習得に熱心だったのではないかと思わせるものがある。

特に西洋演劇の通史を読もうと思うと、現在はほとんど見当たらないが、昔は結構、いろいろと出ている。こうした教科書的な基本書を出さないのは、現在の学者たちのレベルが低下して書く能力がなくなってしまったのか、手間がかかるのでさぼって書いていないのか、読む人がいなくなってしまったために出版ができなくなったのか、どんな理由なのだろうかと考えた。

まあ、こうしたことを勉強したいというならば、先ずは英語で呼んだらよいのではということかも知れないが、いろいろな分野でこうしたことが重なると、大学の教科書は全部英語になり、授業も英語でやらざるを得なくなるかも知れない。教官も明治時代のようにお雇い外国人を連れてこなくてはいけなくなるかも知らないなどと心配した。

上野のロッシーニ・マラソン

2018-03-26 21:31:01 | 音楽
東京春音楽祭の一環として行われた東京春祭りマラソン・コンサートvol.8『ロッシーニとその時代』を聴く。ロッシーニ没後150年にあたる企画のようだ。東京文化会館の小ホールで、朝の11時に始まり、以降2時間おきに5回のコンサートが続き、最後は7時に始まるというスタイルだ。ロッシーニの初期から晩年までをたどりながら、その時代の関連する音楽家の作品も聞くという趣向。作品としては『セビリアの理髪師」から、『小荘厳ミサ曲』まで。5回分の通しでも、1回でも鑑賞可能となっていたが、殆んどの観客は通しで見ているようだった。入りは5割程度で、センターブロックは埋まっているが、サイドの席は空いている感じ。

横浜大学の小宮政安氏の企画構成となっていて、歌と器楽曲は半々ぐらい。オペラからの曲では同じテーマで書かれた他の作曲家との聴き比べなどがある。例えば、「セビリアの理髪師」や「ウィリアム・テル」の聴き比べだ。器楽曲はピアノが中心だが、前半の2回では弦楽四重奏もあり、後半ではクラリネットもあった。

歌手は何人も出てきたが、印象に残ったのは、テノールの小堀勇介で、高い音まできれいに出ていた。バリトンの吉川健一は表情豊かに歌い、歌の内容が良く観客にも伝わった。しかし、服装の趣味が今一つで、ズボンの裾が短すぎるのが気になった。エナメルの靴を履いているのは大変良いのだが、普通に立って靴下が見えてしまうぐらいズボンが短い。1920年代に活躍したアメリカのヴォードヴィル歌手でアル・ジョルスンという人がいて、この人のズボンの裾が短かったが、これは黒人の真似をするミンストレルズ芸の影響だろう。普通の服装で、靴下が見えてしまうのは何ともいただけない。他ではメゾ・ソプラノの富岡明子も美しく歌っていた。

服装ついでに言うと、司会進行をしたのは、企画構成を担当した小宮氏だったが、派手なジャケットとネクタイは舞台用だろうが、サイズが大きすぎて、まるで体に合っていない借り物然とした印象。舞台に向けて慌てて用意したのかも知れないが、ズボンが細身のワークパンツのようなままなので、まるで合わない。ラフな格好でもよいと思うのだが、上下を揃えないと、とても奇異な印象だった。

ロッシーニの音楽が沢山聴けるかと思っていったのだが、ロッシーニ以外の曲が半分以上あり、それもつまらない曲が多かったので、ちょっと不満。もっとピュアにロッシーニに絞って聴かせた方が良い。一応時代的な説明をしていたが、ちょっと誇張した説明になった部分も感じられた。また、オペラの歌については、もう少し丁寧にオペラのどんな場面で誰が、何を訴えて歌うのかという説明がないと分かりにくい。歌詞対訳が配られてはいたが、劇中の誰が歌う歌なのか表記がなく、イタリア語をチェックすると、かなり日本語は意訳になっているので、日本語を読んでも判りにくいと感じた。

これは今年だけの話ではないのだろうが、1時間のコンサートがあり、その後1時間空いて、次のコンサートになる。1時間の休みが4回もあり、ロビーで待機しろとのことだが、椅子も十分いあるわけではない。コンサートはいくら長くても良いのだが、休憩がこんなに長くては退屈でしようがない。ちょうど桜が満開だったので、上野公演に花見にも出たが、すごい人出で、桜を見る余裕もない感じ。休み時間に疲れ果てた。

僕は歌舞伎の通し公演をよく見るので、11時から夜の9時までだって頑張るが、歌舞伎はせいぜい入れ替え時間は30分ぐらいで、長く待たされることはない。今回の企画では、15分前会場というのを杓子定規に守って、観客に待ち行列を作らせる。全く観客のことを考えていない運営としか思えない。どうせ、通しで観る客ばかりなのだから、5回に分けたりせずに、途中1回休憩で公演した方が良いのではないか。

10年ぐらい前に、イタリア文化会館で「プッチーニ・マラソン」という企画があり、プッチ―ニのオペラの名曲を時代順に、次から次に歌って聞かせるというイベントがあったが、昼から始まり、夜の9時ごろまでかかっても終わらずに、最後の『トゥーランドット』などは端折らざるを得ない形となり、いかにもイタリア的な運営だった。しかし、途中の休憩は都内の有名イタリア料理店のケータリングとワインが、食べ放題飲み放題で提供され、とても心地よく時間を過ごせた。それに対して、ロッシーニ・マラソンの運営は観客を全く考えないひどい運営で、二度とこんな企画には行くまいと感じさせるのに十分だった。

疲れ切ったので外では食べず、家に帰ってサラダとイカ墨のパスタを食べた。

新国立劇場バレエ研修所の「エトワールへの道程2018」

2018-03-26 06:25:12 | バレエ
3月24日に新国立中劇場で、バレエ研修所の成果発表会を観る。今回は13期生の修了成果発表会という位置づけ。13期生が中心で、14期生のほかに予科生も参加している。各期とも研修生は6人で女性の方が圧倒的に多いので、ゲストダンサーが5人参加しているが、全員男性だ。15時開演で、前半は男性4人の「ボーイズ・アンシェンヌ」、フォーキンの「シェヘラザード」、「パリの炎」、牧阿佐見の「シンフォニエッタ」、20分間の休憩を挟んで、「眠れる森の美女」のプロローグからと第三幕の抜粋。15時開始で、17時過ぎに終了した。客席はほぼ満員で9割程度の入り。観客は圧倒的にバレエ関係者というムードで、若いバレエ・ダンサーといったムードの人も多かった。

前半は背景なしだが、後半の「眠れる森の美女」は、書割のセットがあって雰囲気が出る。前半ではフォーキンの「シェヘラザード」があまり出ない演目なので楽しい。結構、色気を必要とする演目だが、なかなかうまく踊っていた。「シンフォニエッタ」はバランシンのバレエのようなムードで、クラシックのテクニックだが、物語性が全くないので、だんだんと飽きてくる。

後半の『眠れる森の美女」は妖精の踊り、宝石の踊り、青い鳥の踊り、オーロラ姫の踊りなど。どれも一生懸命にこなしていた。ゲスト・ダンサーの男性陣がやはりきちんと踊っていてよいが、バレエ研修所のメンバーはそれなりに発表会をこなしたという感じか。

オケは東京交響楽団のアンサンブルで、指揮はアレクセイ・バクラン。演奏はちょっと低調だった。

前半の途中で、バレエ研修所の紹介ビデオが10分間ほど流れたが、卒業生の紹介だと、3期の小野絢子から最近の木村優里まで飛んでしまう。やはり、断トツの才能というのは数年に一度しか出てこないのだろうか。それでも、懸命に稽古している若いダンサーたちを見て楽しく過ごせた。

帰りはいつものスペインバルで、若鳥のローストや、パエージャを食べる。


岡俊雄の「レコードの世界史」

2018-03-24 10:22:17 | 読書
岡俊雄の「レコードの世界史」を読む。音楽の友社から1986年に出た本で、250ページほどの本。岡俊雄というと、何冊か映画関係の本を読んだことはあるが、こうしたレコード関係のことを本にしているのは知らなかった。

副題に「SPからCDまで」と書いてあるが、実際にはSP盤と呼ばれる78回転のレコードの前のエジソンの蝋管式の蓄音機の時代から、SP盤、SPの電気録音、LP盤、EP版、ステレオ録音、4チャンネル化、カセットテープ、CDまでが扱われている。出版されたのが1986年だから、CDはまだ出たばかりだ。

読んでいてなかなか面白いと思ったのは、録音技術と録音する内容の関係だ。SP盤の録音時間は短かったので、長い曲は録音できずに、流行歌などはすべてこれに収まるように録音されたこと、初期のSP盤の録音音域やダイナミック・レンジは狭かったので、オーケストラなどよりもピアノ伴奏の歌が多く収録されたことなどは興味深い。

SPの時代にはすべて直接原版に記録するダイレクト・カッティングだったが、LPの時代となりテープレコーダーで編集してからのカッティングになったことなども、改めて認識した。また、録音時間の点でもオペラの全曲盤などはLP時代の産物だとよくわかる。筆者の趣味のためか、それとも参考にした欧米の文献に偏りがあるのか判らないが、録音したアーティストの例示がかなりクラシックに偏っている気がするが、これは仕方がないかも知れない。

どのような音が好まれるかという逸話も興味深い。実際のコンサートホールは結構残響が長いために、楽器の音は混然一体となり包み込まれるような音が聞こえるが、カラヤンは録音時にこうした混然一体となった音を嫌い、一つ一つの楽器の音がクリアに聞こえるように要求したという。そのために、楽器ごとにマイクを使い、それをミキシングして全体の音を作るようにもしたらしい。どのような音が好まれるのかは時代と共に代わるのかも知れない。

いずれにしろ、電気録音の技術、そして現在ではデジタル化技術が、録音される音楽の内容にまで大きな影響を与えているというのは、興味深い話だった。

一点だけ残念に思ったのは、LP時代となって針音やテープヒス(テープの雑音)の減少を図るために、高音を強調した録音方式がとられたことに対する説明が不足していると感じられたことだ。今はなんとなく,LPレコードであればPhonoイコライザーを通して聞くというのは常識だ。このイコライザーはRIAA(アメリカレコード協会)の規格だが、この企画に統一されたのは、概ねステレオレコード以降の話で、モノラルレコードの時代には各社がそれぞれの規格でエンファシスしていたので、現在のイコライザーで聴くと正しい音ではない。

厳密にいうと、規格が統一されたのは1955年頃で、それ以降徐々に統一されたが、欧州のレコード会社では60年代まで独自の規格の会社もあったようだ。古いLP時代の録音を正しいイコライザーにかけてCDに作り直した復刻版を聴くと、LPと違う印象を受ける場合があるのは、このイコライザーの原因が大きいと思っている。せっかくの本なので、そうしたことまで触れてあると良いのにと思いつつ読んだ。

ナネット・ファブレイを悼む

2018-03-22 20:46:27 | ミュージカル
2月22日に女優のナネット・ファブレイが亡くなったと伝えられた。ニューヨーク・タイムズによると97歳だった。日本の新聞でも報道されたのかどうか判らない。読んでいる範囲では気が付かなかった。もっとも舞台とテレビを中心として活躍していたので、映画は少なく日本にはなじみがないとして、報道されなかったのかも知れない。

1940年代から70年代ぐらいまで活躍した女優で、歌もうまいのでミュージカルによく出ていた。ブロードウェイでは「ハイ・ボタン・シューズ」が有名だが、ほかに「ブルマー・ガール」にも出ていた。

こうした舞台は直接は観ていないが、1950年代にフレッド・アステアの映画「バンド・ワゴン」で共演して、「メキシコのピクニック」を歌った姿が魅力的で、今でも目に焼き付いている。独特の愛嬌があり、1950年代のムードを持っていたと思う。

今夜はもう一度「バンド・ワゴン」を観て、冥福を祈ろう。