劇場と映画、ときどき音楽と本

オペラ、バレエ、歌舞伎、文楽などの鑑賞日記です

ローラン・プティのコッペリア

2017-02-25 17:14:03 | バレエ
2月25日(土)昼に新国立劇場で「コッペリア」を観る。普段は14時開演なので、そのつもりでいたがチケットを見て13時開演と気付いて慌てた。どうして13時開演なのかと思うと、マチネーだけでなくソワレもあるので、いつもより1時間ほど開演が早かったようだ。

「コッペリア」は1870年にパリのオペラ座で初演されているが、今回の上演は約100年後に発表されたローラン・プティ版の方。音楽はレオ・ドリーブのものを使っているが、振付は全く現代的だ。1870年頃に上演された作品といえば、「ドン・キホーテ」や「ラ・バヤデール」の頃だから、題材としては古典だが、それを現代的に振付し直してある。ちなみに、オペラで言うとヴェルディが「アイーダ」を作曲したのが1870年だ。フランスではオッフェンバックが「ペリコール」を上演したのが1868年だ。

そのころは、ちょうど万国博覧会がブームになった時代でもあった。万国博は1851年にロンドンで始まり、パリでは1855年、1867年、1878年、1889年と開催されている。万国博覧会というのは産業博覧会で、産業革命の見本市であると同時に、世界からの珍しい物などを西洋に紹介した役割を担っていた。そうした時代に作られた、「コッペリア」とはどういう作品なのだろうか。

原作はホフマンの「砂男」とあるから、オペラの「ホフマン物語」の「コッペリア」の話とも通じるものがある。それまでは錬金術師の時代だったものが、産業革命により機械仕掛けの人形があたかも命を得て本物の人間のように動くというのが、物語の底流にある。現在ならば、あたかもロボット、アンドロイド、AIといった世界だろう。そうした時代の話だと認識しておく必要がある。

こうした時代背景を考えると、古典的な作品としては成立しても、ローラン・プティが1976年という100年後にこの作品をリメイクしたのはなぜなのだろうと疑問に思う。産業革命の時代は終わていたのだ。鉄腕アトムなどのロボットの時代にこの作品を再振付したのは、ドリーブの音楽を使いたかったのだろうという気がする。何しろ、バレエの新作を作ろうとしても、現代音楽で果たして踊れるのだろうかというような曲ばかりだ。だから、古典的な音楽を使い新作を作りたくなる気持ちも理解できる。

1870年の「コッペリア」が、レチタティーヴォとアリアによって作られたなら、ローラン・プティ版は全編がアリアというかレチタティーヴォというか、両者が統合されている。ダンスとマイムに分かれずに連続した現代的な振付だ。しかも、100年前にはマズルカやチャルダッシュなどが使われたが、現代ではカンカンやキャバレーでの踊りなども取り入れられている。

25日昼は米沢唯がスワニルダ役で難しい踊りを見事にこなした。人形つくりのコッペリウス役の菅野英男も役柄を見事に表現する踊りを見せた。現代的で、スピーディーな踊りとなっているから、スワニルダの友人役の6人の娘や、衛兵、娘たちも休みなく踊る。これを昼夜2回踊るのはかなり大変だろうと思った。

ローラン・プティの振付は、サービス精神に溢れた楽しいもので、古典ファンも満足する出来栄え。楽しい時間を過ごした。

帰りはおなかがすいたので、スペインバルでタパスを食べながらワインを飲む。


コジ・ファン・トゥッテに見る演出の力

2017-02-25 10:18:45 | オペラ
新国立中劇場で「コジ・ファン・トゥッテ」を2月24日(金)の夜に観る。新国立劇場のオペラ研修所の終了公演として上演されたもので、24日から26日までの3回公演。新国立のバレエ研修所は2年間だが、オペラ研修所の方は3年間で、プログラムの説明によると、ANAからの支援を受けて、研修のだいぶ充実しているようだ。各年5人の研修生が選ばれるので、3年間学ぶと15人の研修生がいることになる。

コジの出演者は6人なので、3回公演だと18役あるので、ほぼ全員が大役に挑戦することになる。中には2回演じる研修生もいる。各年5人といっても、ソプラノ、メゾソプラノ、アルト、テノール、バリトン、バスの声域を考えると、一人足りない。バランスよく集まるかというと、そうでもなさそうで、15人の中ではソプラノ6人、メゾソプラノ2人、アルト0人、テノール3人、バリトン3人、バス1人といった具合。

そうした条件での公演だから、作品の選出や配役にも苦労があるかもしれない。今回は17~19期生の発表会の位置づけだから、商業的な公演ではないかもしれないが、きちんと装置や衣装も準備して、演出、照明も凝っており、30人編成の生オケ(芸大フィル)に芸大生らの合唱も加えて、きちんとした舞台になっている。

特筆すべきは粟國淳の演出で、いつも感心するのだが、オーソドックスで分かりやすく好感が持てる。決して無理な姿勢で歌わせたりせずに、歌唱中に余計な動きをして邪魔することもない。歌がよく客席に聞こえるように、ちゃんと客席に向かって歌うように演出されているが、それでもドラマを損なうことはない。出演者が6人のオペラなので、空間を縮めるために舞台の上にもう一つ額縁舞台を作り、それと、幕前やわきの舞台を使いながら、場面転換をうまく進める。こうしたクレヴァ―な工夫は、昨年見た彼の演出による「フィガロの結婚」にも共通している。

日本国内のオペラの演出は、演劇と同じように人を動かしすぎたり、妙に現代化したりする作品が多い中で、粟國氏の演出は伝統的で安定感があり、何よりも見ていて面白い。今回は研修所の発表会だが、観ていて面白いという点にかけては、そこらでやっているオペラよりもずっと面白いのではないか。

今回の公演の研修生の中では、男性はドン・アルフォンソ役を演じた氷見健一郎が、声、歌、演技ともに群を抜いていた。女性ではフィオルディリージ役の砂田愛梨が良い。芸大フィルは初めて聞いたが、少し音が固いような気がした。

衣装もなかなか良かったが、「コーディネーター」としかクレジットされていないところを見ると、新国立劇場の衣装倉庫からかき集めてきたのかもしれない。こうした既存の衣装を使えるところが良いのかもしれない。

しかし、夜の公演だったせいか、6~7割に入りといったところで、これだけ面白いのにもったいないと思った。

終演は10時を過ぎたので、食事をできる店が少なく、居酒屋での食事となった。

3枚のポストカード

2017-02-23 16:35:28 | ミュージカル
「3枚のポストカード」というオフ・ブロードウェイのミュージカルを、勝田安彦の演出でやるというので、南青山に見に行った。勝田安彦はトム・ジョーンズとハーヴェイ・シュミットの作品を多く翻訳、演出しているが、それ以外のオフ・ブロードウェイの小品も良く上演している。アメリカでもほとんど上演されないような珍しいミュージカルを上演してくれるので、見逃せない。

今回のミュージカルも、プログラムによれば1987年に初演、その後1994年にこれもオフのサークル・イン・ザ・スクウェアで上演されただけだから、ほとんど知られていない作品だ。よくこんな作品を見つけてきて上演するものだと感心する。台本はクレイグ・ルーカスで、ブロードウェイでもイタリア物の「広場の光」や、映画を舞台化した「巴里のアメリカ人」を書いた人だというが、オフの時代だから、かなり過激な台本を書いている。

幼稚園時代からの親友の3人の女性が久しぶりにレストランで食事する。そして、レストランへの到着から食前酒、食事の注文、食事、会計、表に出てタクシーを拾うまでの間に、それぞれの人生の抱えた問題点が披露される。その方法がなんとも過激で、普通に会話していたのが、何かをきっかけとして突然過去の思い出になったり、現在の問題点となったり、時には未来をフラッシュしてしまう。

こうした手法は映画ではよく使われるが、舞台でこうしたことをやり、レストランのウェイターが何役にもなって突然相手役を務めるのだから、観ている方はちょっとびっくりする。観客のわかりやすさだけを考えると、丁寧に照明を変化させるなどして区切りがあった方が良いかもしれないが、必ずしもそうした演出にはなっていない。

3人の女性は幼稚園時代からの仲良しだが、現在は上流の婦人(宮内理恵)、ごく普通の主婦(北村岳子)、仕事探しにも苦労している女性(福麻むつ美)となっている。ウェイターは上野哲也、ピアノとときどきヴォーカルも担当するのが森俊雄といった顔ぶれ。

こうした3人なので、素敵なレストランの予約や、酒のオーダー、料理のオーダーも上流婦人が中心で、勘定もクレジット・カードで一人で払う。食前酒の後のワインはサシャーニュ・モンラッシェを注文するが、赤が出てきて驚いた。モンラッシェといえば高いワインなのでそうそう飲まないが、殆んどの場合は白が出てくる。赤は飲んだ事がなかった。だが、注文した料理の内容からすると、赤の方が良く合うかもしれない。

上流の婦人はそんな生活なのに、電話での雑誌の販売の仕事にやっとあり付いた女性は元気なだけが取り柄でいつも明るい。生活スタイルが今では全く異なってしまった3人が果たして、共通の話題などあるのだろうか。3人は一緒に話をしているようで、結局は自分のことを話しているだけだ。ここに1980年代末のニューヨークの人間関係が見て取れるような気がする。

いつもは勝田氏は翻訳も自分でやっているが、今回の翻訳は福田美輪子、曲はクレイグ・カーネリアで、曲調は50年代から80年代までのポップス調といったムードだが、台本と曲との関係をもう少し緊密にしても良いかもしれない。

レストランでの食事をしながらの芝居なので、会場も南青山のシアターレストランであるMANDARAだったが、キャパが少なく寿司詰めとなり、見づらいという問題が残った。小さな会場だから生声で聴きたかったが、最近はこうした会場でも必ずマイクとなるのは残念。

次回は自由が丘で、ロジャース唯一の失敗作ともいわれた「アレグロ」を5月に上演するという。今から楽しみだ。



中途半端だった「ヴァレンタイン・バレエ」

2017-02-19 08:56:05 | バレエ
新国立劇場で「ヴァレンタイン・バレエ」を観る。ヴァレンタインといっても、特に愛の告白をテーマにしているとか、そういうことではなく、単に2月に公演するので「ヴァレンタイン」という命名なのだろう。昨年は1月だったので「ニュー・イヤー・バレエ」だった。内容は、一つの作品の通しではなく、短い作品の寄せ集めと、有名作品の見せ場の組み合わせ。歌舞伎で言えば「通し」の公演ではなく、「見取り」の公演ということになる。

今回のプログラムは、第一部がバランシンの「テーマとバリエーション」、第二部が「黒鳥のグラン・パドゥ・ドゥ・ドゥ」、深川秀夫の「ソワレ・ド・バレエ」からパ・ドゥ・ドゥ、そして昨年も出たバランシンの「タランテラ」、第三部が男性8人で踊る少しコミカルなロバート・ノースの「トロイ・ゲーム」。僕は18日に観たが、17日は「黒鳥」の代わりに「ドンキ」のグラン・パドゥ・ドゥ・ドゥという構成。第一部と第二部は東京交響楽団の生演奏でポール・マーフィーの指揮。第三部は民族音楽的なパーカッションを中心とした録音音源だった。

全編で2時間10分だが、二回の休憩で45分あるから、実質の上演時間は1時間半弱といったところ。新国立のバレエは原則通しの公演が中心だが、年に1回だけこうした「見取り」の公演が入る。

今回の公演では、バランシンが二つ、プティパの古典がひとつ、ソワレ・ド・バレエは現代の振付だが、ムードは古典的、最後のトロイ・ゲームはバレエというよりも体操的なダンスだった。観ていると、どうして黒鳥がこの中に入っているのだろうという気になる。まるで、現代美術館の抽象画の中に、ポツンとひとつ印象派の絵が紛れ込んだ印象だ。バレエの公演ではガラ・パフォーマンスというジャンルがあって、スター・ダンサーたちが次から次へと自分の得意な踊りを見せる舞台がある。そうしたノリで構成したのだろうか。この公演を貫くテーマがなくてよいのかという気にさせる。安易に「ヴァレンタイン」という名を使うからこんなことになるのだろう。これは踊り手というよりも、製作側の責任といえる。

新国立劇場のバレエ公演では、今シーズンからビジュアルな作品解説を中心としたプログラム(スーヴェニア・プログラム)をシーズン・プログラムとして有料で販売して、各公演ごとの配役説明は無料配布の「公演リーフレット」で説明している。これは大変良いと僕は思っている。プログラムを各公演ごとに買うとなると、経済的な負担もさることながら、家での置き場所にも困るからだ。リーフレットはB5版20ページで半分は広告だが、それで無料で配れるならば皆喜ぶ。

ところが、その内容となると、編集は改善を求めたい。今回のリーフレットでは作品紹介、出演者紹介、スタッフ紹介となっているので、例えばソワレ・ド・バレエを観るときに、3か所を探してみる必要がある。これは各作品ごとに、作品名、スタッフ名、出演者名がまとめて明記されれば事足りるので、そうした形式で載せてもらいたい。人物紹介は、作品とは分けて、まとめて後ろに掲載するのが良いかと思う。その方が、観る側にとっては便利だ。

今回のリーフレットは舞台写真も多く、それはそれで楽しいが、そうしたものは有料のプログラムに掲載して、無料配布のものは出演者の顔写真程度で構わないのではないかと思う。そうすれば、判型ももう少し小さくできてA5版かB6版にできるのではないか。小さい方が持ちやすくありがたい。紙質ももっと薄いものでよいと思う。思い出に残すというよりも、その時に配役やキャストを知りたいのが主目的だからだ。記録的な意味でも、リーフレットだけでは「トロイ・ゲーム」に録音音源が使われたということはわからない書き方になっているのはまずいと思う。

さて、肝心の公演の内容だが、一つ一つの作品としての出来は悪くない。バランシンの「テーマとヴァリエーション」は小野絢子と奥村康祐という看板スターを中心に構成されており、安心してみていられる。バランシンらしく古典的な技法を用いつつ、音楽にのせて美しい動きがあるが、それが文学的に何かを表しているわけではない。まるでモンドリアンの抽象画を見せられている気分で、観ている方としては集中力が続かない。宮殿風のセットと美しい衣装だが、どうもバランシンの作品は苦手だ。

二部に入り、黒鳥は新進気鋭の木村優里と渡邊峻郁で、見せ場の32回転ではトリプルを2回も入れるサービスぶり。木村優里は手の腕の動きに優雅さが加わるとさらに良いかと感じた。この踊は裸舞台で後ろにはホリゾントがあるだけで、寂しい。簡単な書割でもおいたらどうなのか。

続くソワレ・ド・バレエは現代作品ながら古典的な優雅さ、美しさを持つ作品で、池田理沙子と伊澤駿が踊る。背景は美しい星空となり、ソワレだよなと思ってみるが、全体として何を表した作品なのかはよくわからなかった。こうした現代ものは、作者のコメントを何かリーフレットに載せるのも一案ではないか。

それから、米沢唯と福田圭吾の「タランテラ」で、細かな動きまで平然と踊って見せる米沢唯に、ただただ敬服。素晴らしいの一言。これも裸舞台でセットはない。バランシンの作品でセットなしと指定があるのだろうか。

休憩をはさみ三部のトロイ・ゲームは、バレエでは珍しい男っぽい作品だが、日本人が踊ると、どうしてもマッチョさよりも可愛さが出てしまうが、それはそれで面白い。なんとなく味噌っかすの男が、皆からからかわれるのだが、全体として何が「トロイ」ゲームなのか、僕にはわからなかった。一般人には、理解できるのだろうか。僕が勉強不足なのか、よくわからない。これも現代作品だからかセットはない。

こうして全体を通してみると、まるでばらばらの寄せ集め作品集に過ぎず、何が「ヴァレンタイン」なのと、意地悪く質問したくなる。個人的にはあまり好きではないが、バランシンを中心にプログラムを組むとか、パリ・オペのように「ディアギレフの夜」といったやり方も考えられる。ガラ・パフォーマンス的にやるならば、新国立のダンサー総出演でやったらどうか。

個々の作品の出来もあるが、一つの公演として何をやりたいのかをもっと明確にする必要があると考える。なんとも中途半端な公演の印象で、ストレスでつい食べ過ぎた。


帰って来た「ジョージと一緒に日曜日の公園で」

2017-02-14 12:57:53 | ミュージカル
毎年6月の初めにトニー賞があるので、今頃になると駆け込みで新作ミュージカルの話題がにぎやかになる。昨年は「ハミルトン」一本やりの印象だったが、今年はぶっちぎりの新作はないようだ。そうした中で、2月11日から改装の終わったハドソン劇場で「ジョージと一緒に日曜日の公園で」のプレビューが始まった。

この作品はスティーヴン・ソンドハイムの名作で、ジョルジュ・スーラとその恋人の話。英語読みなのでジョルジュではなくジョージとなっている。恋人のドット嬢(点描画を得意としたので)にはアナリー・アシュフォード、ジョージにはジェイク・ギレンハールという顔合わせ。

2月23日から本公演とアナウンスされているので、問題がなければ順調に幕が上がるだろう。一幕の終わりではスーラの有名な絵の再現があったが、今回はどのようなできだろうか。

もう一つ、「サンセット大通り」の再演も評判を呼んでいる。これはオリジナル・キャストだったグレン・クロースが再び演じるというのが売りだ。初演の時よりもだいぶ歳をとったが、もともとこの役は老齢に達した元大女優という設定なので、今回のほうが役にあっているかも知れない。初演でのクロースは鬼気迫る演技だったので、今回はどのように演じられるか楽しみだ。こちらは一足先に2月9日からの上演で、切符の売れ行きもよいという。2月9日はブロードウェイでは悪天候のために、公演の実施も心配されたが、嵐の中のスタートだったようだ。

初演の時には素晴らしい装置と衣装に圧倒された覚えがある。特に大階段をあしらった居間のセットをグレン・クロースが降りてくるときには、その衣擦れの音を聞いて、それだけで感動した。ところが今回の公演では、鉄骨を使った簡素で象徴的な装置となっていて、よくも悪くも現代的になってしまった。オペラでのアブストラクト演出の波がミュージカルにも押し寄せるのだろうか。経費節減と現代化とは違うと申し上げておきたい。

今回のトニー賞には間に合わないが、6月13日からドリー・パートン主演による「ハロー、ドリー!」に再演も決まっていて、もう切符の前売りが始まっている。これもちょっと見てみたい。

面白い新作が出なくなったブロードウェイだが、再演はどれも魅力的だ。