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新国立劇場の「デカローグ」AB

2024-04-21 11:24:38 | 演劇
4月20日(土)の昼と夜で、新国立小劇場の演劇「デカローグ」のAとBを見る。全10話の短編演劇が4~7月に2本づつ上演されるうちの前半4本となる。どの作品も50分程度で、20分の休憩を挟んで、2本上演されるので2時間で終了。午後の部は1時開演で、3時に終了。夜の部が5時半開始で、7時半終了だった。観客は中年層の一人客が多く、8割程度の入り。

「デカローグ」は、基は冷戦末期に作られたポーランドのTV作品で、それを演劇化したもの。ポーランドの団地に住む人々の風景を描いた作品だ。須貝英が脚色して、小川絵梨子と上村聡史が演出している。俳優も演出も良く、セットもうまくできていて、面白い作品だった。

原作はキェシロフスキ監督の作品で、僕などは「二人のヴェロニカ」と「トリコロール」しか見ていなかったので、フランス系の監督かと思っていたが、解説を読むとポーランドの監督だった。冷戦末期の作品なので、社会主義の体制下で抑圧された市井の人のごく普通の生活が描かれる。

「デカローグ」とはラテン語起源で「(モーゼの)十戎」の意味だ。そこで、10の戒律に対して、10話の話が作られている。どのエピソードがどの戒律に相当しているかは、明らかではないが、番号順にほぼ戒律とエピソードが一致しているように感じられた。

1話は、「ある運命に関する物語」となっていて、言語学を教える無神論者の大学教授は妻を失い、12歳の息子と二人で暮らしている。息子には科学を教え、自分でも科学を神のように考えているが、科学に裏切られて最愛の息子を失う。これは、十戎の最初の「主を唯一の神とせよ」をテーマにしている。

2話は、「ある選択に関する物語」で、重病の夫を抱えたヴァイオリニストの妻が、寂しさに耐えられずにほかの男性と関係して妊娠する。夫が亡くなるならば産もうかと考えて、担当医を訪ねるが、「回復の可能性は数パーセント、植物人間として生き続ける可能性は15%程度が、過去の統計的数字」だと教えられる。女性は堕胎を決心するが、医者に止められる。夫は奇跡的に回復して妻が妊娠したと聞き喜ぶ。戒律の2番目は「偶像を拝むな」だが、この物語にはしっくりこない。むしろ9番目の「嘘をつくな」の方がうまく当てはまるかも知れない。個別の問題に対しては統計的な数字は役に立たないとするのが確率論だ。この話を見て、物理学者ボーアが量子の位置に関して確率的な説明をしたのに対して、アインシュタインが「神はサイコロを振らない」と懐疑的だったエピソードを思い出した。

3話は「あるクリスマス・イブに関する物語」。タクシー運転手がクリスマス・イブを家族と過ごそうとしていると、愛人の女に呼び出されて、認知症気味の愛人の夫が行方不明となっているので、町中を朝まで探し回る手伝いをさせられる。最後に愛人は、実は夫はおらず、他の家族が団欒を楽しむのを見て嫉妬しただけだと明かす。これは十戎の3番目「安息日を忘れるな」がテーマだろう。

4話は「ある父と娘に関する物語」で、娘を生んですぐに母親が亡くなったため、父と娘が二人で暮らしている。母親は複数の男性と付き合っていたので、父と娘は本当の親子かどうか不安を感じるが、必死になって親子を演じ続けようと努力する。これは戒律の4番目の「父母を敬え」がテーマなのは明白。

こうした読み替え的な作品は好きだが、普通の日本人にはキリスト教的なテーマは説明なしではわかりにくいだろうと思う。プログラムも読んでみたが、あまり「十戎」との関係は説明されておらず、もう少し丁寧な説明をしたほうが良いと感じた。

原作が映画だということもあるだろうが、日常の生活を淡々と描く中でテーマが浮かび上がるような描写となっているが、演劇化に当たってはもう少し演劇らしく手を入れたほうが良いのではないかという気がする。どの話も、考えようによっては喜劇的な要素が多く含まれている。「近景は悲劇でも、遠景では喜劇」という言葉の通り、少し引いた形で喜劇的要素を浮かび上がらせた方がよいのではないだろうか。真面目に描きすぎると、重たいテーマで、見ているほうもくたびれる気がした。映画べったりの描き方ならば、映画を見ればよいのであり、演劇科の意味はない。

家に帰って軽い食事。マフィンにチーズ、トマトなどを挟んで食べる。ビールとボルドーの白を飲む。


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