劇場と映画、ときどき音楽と本

オペラ、バレエ、歌舞伎、文楽などの鑑賞日記です

映画「奇跡がくれた数式」

2017-11-30 14:06:39 | 映画
イギリス映画「奇跡がくれた数式」を観る。インド出身の天才数学者シュリニヴァーサ・ラマヌジャンの伝記映画。2015年製作で主演はマリーゴールド・ホテル・シリーズに出ていたデーヴ・パテール。原題は「ザ・マン・フ―・ニュー・インフィニティ」なので「無限を知っていた男」とでも訳すのか。

僕は数学は専門ではなくて知らなかったのだが、ラヌマジャンは整数論みたいな分野で天才的な仕事をしたようだ。映画では英国へ渡るところぐらいから始まるが、生い立ちを調べてみると、バラモン階級の出身者なのでカーストは一番上の方だが、貧乏で苦労したようだ。奨学金を得て大学へ進んだものの、数学ばかりを勉強して他のことはまるでダメだったので、卒業できなかったという。

独学で研究を進めて、勧めによってケンブリッジ大学の教授に手紙で研究内容を知らせると、イギリスに呼び寄せられて、一緒に研究することになる。天才肌で、いろいろな法則性や公式を直観により表現してしまい、経過の説明や証明がないので、学会でなかなか認められないのを、イギリス人の教授が助ける。

彼が英国へ渡ったのが、ちょうど第一次世界大戦がはじまったときだったので、食料事情が悪く、厳格な採食主義者だった彼は栄養を取れずに病気となってしまう。映画では出てこないがバラモンの出身なので、厳格な採食主義で宗教的にも信心深い。

イギリス人の教授は証明の大切さを教えて、何とか彼に証明付きで公式を発表させようとするが、彼は公式は自明であり、正しいのだからどうして証明をしなければならないのか、理解に苦しむ。結局、第一次世界大戦後に故郷インドに帰るが、やはり体調が戻らずに、早世してしまう。

伝記に忠実だが、ドラマとしての盛り上がりにはもう一つ欠けるかも知れない。映画の中でいろいろと数式が出てきたり、公式の話が出てくるので、数学が苦手な人はうんざりするかも知れない。

それでも、少ない理解者が彼を助けて、何とか世に出そうと努力する姿は、頑固なイギリス人的な良い面が出ていて、興味深い。イギリス人が、「どのようにしてそうした公式を得るのか」と質問すると、ラマヌジャンは「インドの女神がそっと教えてくれる」と答える。イギリス人の教授は、結婚もせず、神も信じていない偏屈物で、「マイ・フェア・フェディ」に出てくるヒギンズ教授にちょっと似たムードだ。

邦題は「奇跡がくれた」となっていて、「奇跡」を擬人化した表現になっているところがどうも引っかかる。映画の中の台詞からとって「女神のくれた数式」ぐらいの方が良いのではないかと思った。

ミラノ大聖堂聖歌隊コンサート

2017-11-29 16:00:34 | 音楽
11月28日の夜にイタリア文化会館で行われた「ミラノ大聖堂聖歌隊コンサート」を聴く。ミラノには大司教がいてゴシック建築のファザードで有名なカテドラル(大聖堂)があるので、立派な聖歌隊もいる。大人20人子供35人の聖歌隊らしいが、今回は大人20人だけが来日してコンサートを開いた。歌うのは18人で、ピアノ伴奏一人と、指揮クラウディオ・リヴァが加わって20人となる。

西洋音楽の歴史ではたいていがグレゴリオ聖歌から始まるが、グレゴリオ聖歌はグレゴリウス1世の時代だから7世紀ごろに成立したもの。ミラノの大聖堂ではミラノの守護聖人といわれているアンブロジオの時代の聖歌が歌い継がれていて、こちらは4世紀の成立だから、グレゴリオ聖歌よりもさらに古い。その本家だから、どんな感じで歌うのかが聴きに行った最大のポイントだ。

4世紀だから、現在のような平均律や決まったリズムがあるわけではなく、ラテン語(だと思う)の歌詞で教会旋法で、あまり飛躍しない音階を使って歌う形。4曲ほど披露したが、ピアノの伴奏はつかず、アカペラで歌う。最初の音は指揮者が音叉で確認して隊員に指示して歌うが、必ず先唱者が一節をソロで歌い、それに続いて隊員たちがユニゾンで歌う形。声部は別れずにひとつのみ。いわゆるモノフォニーの曲。

5曲目はやはりアカペラだが、ポリフォニーの曲で声部が4つに分かれて、複合的なアルガヌムで歌う。これは中々すごかった。

後半はピアノの伴奏が入り、ホモフォニーの新しい曲を歌う。歌詞はイタリア語になる。終わりにヴェルディのオペラの曲もサービスし、締めくくりはモーツアルトのカノンをアカペラで歌った。

アンコールは聖歌隊らしく「きよしこの夜」だった。各人が圧倒的にうまいというわけではないが、アンブロジオ聖歌の本家を聴けて大満足。

帰りがけに新規開拓したビストロで食事。田舎風のパテに、仔羊もも肉肉のロースト、ワインはラングドックの濃厚な物。デザートはタルト・タタンで、エスプレッソを頂く。




ビル・マーレイの喜劇「恋はデジャ・ブ」

2017-11-28 14:57:11 | 映画
久々に気軽な映画を見る。ビル・マーレイの喜劇で、ハロルド・ライミス監督の「恋はデジャ・ブ」。原題は「グラウンドホッグ・デイ」なので「モグラの日」という意味。1993年のアメリカ映画だが、21世紀になってブロードウェイでミュージカルにもなっている。

ローカル局で天気予報解説をしているビル・マーレイは、メジャー・ネットワークに進出の夢を持っているが、なかなかローカル局から抜け出せない。天気予報士ということで、小さな町でモグラの春占いの取材に行かされるが、4年目の取材なので、小さな町に飽き飽きしている。

ところが、突然の大雪で町に閉じ込められて、翌朝起きてみると、前日と全く同じ繰り返しになるというか、前日が何度も繰り返される。翌日に進まなくなるのだ。誰にも理解されずに、町の酔っ払いに、「毎日が同じ場所で同じことの繰り返しとなる」とぼやくと、町の酔っ払いからは「俺の生活と同じだ」という答えが返ってくる。

何をやっても朝になると同じモグラの日の繰り返しとなるので、やたらと娘を口説いたり、派手に遊んだり、交通事故を起こしたり、自殺もするが、翌朝には戻っている。自暴自棄になったりするが、結局は町のいろいろな人々が困っているのを助けたりして、人の役に立つことをしようとする。すると、今まで相手にしてもらえなかった番組プロデューサーの女の子と恋ができ、無限ループから抜け出せる。そうして、今までは退屈だと思っていた町に住みつくことにする。

一見、馬鹿げた状況に見えるが、そうした状況に置かれたときに、人は何をすべきなのかが、喜劇的に描かれていて面白い。主人公の男は、現状に不満を持ち、もっと大きな局での活躍を夢見ているのだが、不条理な状況であるにしても、現状に満足して自分の生きがいを見つけることにより幸福を得られるという、結構、哲学的な内容の映画になっている。

同じことを繰り返すので、本人にはデジャ・ブ感覚がある。朝食の時に、食堂のおばさんに、「デジャ・ブというのを知っているか」と尋ねると、おばさんは困った顔をして「シェフに聞いてみますわ」と答える。主人公はそんな町が嫌なのだが、映画のラストでは、そうした町に住むことにより本当の幸せが得られると悟ったのだ。日本語題名もなかなか気が利いていると思った。

菊池清麿著の「私の青空二村定一」

2017-11-27 18:16:03 | 読書
論創社から出ている菊池清麿の「私の青空二村定一」を読む。副題に「ジャズ・ソングと軽喜劇黄金時代」とある。本文は約200ページで、それに年譜とディスコグラフィがついて、全体で230ページの本。活字が大きいので簡単に読める。2012年の出版で、著者の菊池氏は音楽評論・歴史家となっている。著作の一覧を見ると、日本の古い流行歌史が専門のようだ。同じ出版社から「日本流行歌変遷史」という本も出している。

二村定一は、日本の流行歌の歴史では「アラビアの唄」で知られるが、他にも「私の青空」などを出しているので、この本の題名もそこからとられている。この本を読むまで知らなかったのだが、二村定一は日本のアル・ジョルスンを目指していたようだ。彼とよく共演していたエノケンが和製エディ・キャンターを目指していたように、この時代の役者や歌手は、アメリカのレコードや映画に大きく影響されている。

二村定一は、いわゆる音楽学校の出ではないので、ベルカント風の歌い方は無理なため、ヴォードヴィル風の歌い方をしたと菊池氏は書いている。そして、1930年代後半以降にはマイクを使ってクルーナー風の歌い方を試したがうまくいかなかったとも述べている。

アメリカでも、1930年代にラジオが普及してくると、ビング・クロスビーやルディ・ヴァリーなどのクルーナー歌手が出現するので、日本でもクルーナー歌手の時代となってくるが、二村はその変化に乗り遅れたようだ。

ベンチマークしたアル・ジョルスンの絶頂期は1910年代と20年代だろうから、アル・ジョルスンはずっとヴォードヴィル風というか、ミンストレル出身なので、力強い歌い方を変えなかったが、二村は途中でクルーナーを目指したのだろうか。そこらはこの本には書かれていない。二村は戦後すぐに亡くなってしまったので、直接のインタビューや本人の書き物が残っているわけではないので、この本はもっぱら外形的に迫った伝記となっている。

エノケンと共演していた時代の雑誌記事で、一緒に共演したい女優として「ルビー・キーラー」の名前が挙がったと書いてある。ルビー・キーラーはトーキー初期にワーナーのミュージカル映画で有名になった女優だが、実はブロードウェイ時代にアル・ジョルスンに見いだされてデビューし、ジョルスンと結婚してふたりでハリウッドに行ってスターになったのだから、こうした点でもアル・ジョルスンを意識していたことをうかがわせる。そこらの話には触れていないが、説明した方が分かりやすいだろう。

もう一つ、昭和7年に二村はエノケンと一緒に「モン・パパ」を歌ったという記述がある。ジョルジュ・ミルトンの主演映画「巴里っ子」が昭和6年11月に日本で封切られたので、その主題歌をコピーしたように書いている。カシミール・オベールフェルドというユダヤ系のポーランド人でフランスで活躍した作曲家がミルトンのために書いた曲だ。まあ、それも間違いとは言い切れないが、引用されている日本語歌詞は白井鐵造の物なので、昭和6年8月に宝塚大劇場で上演された白井鐵造のレビュー「ローズ・パリ」の主題歌で大ヒットしたもののカバーと考えた方が良いだろう。

巻末のディスコグラフィは丹念に作られていてありがたい。本文中にも丹念過ぎるほどに各レコードでの歌いっぷりが書かれていた。

ルドルフ・ヌレエフの「豚の湖」

2017-11-26 19:35:39 | バレエ
「20世紀ダンス史」は、振付家中心だが、振付した作品を丹念に一つひとつ説明している本だというのが有難い。ルドルフ・ヌレエフの項では、マーゴ・フォンテインと一緒に踊った話だけでなく、子豚と踊った話が出てきた。

一緒に踊ったのは「白鳥の湖」(スワン・レイク)、ではなく「スワイン・レイク(豚の湖)」だ。どんなものだろうと気になったので、さっそく動画共有サイトで検索してみると、カラーの画像で出てきた。アメリカの人気テレビ・シリーズである「マペット・ショー」に出たときのもので、カエルのカーミットが最初に前口上を述べて始まる。

ヌレエフが「白鳥の湖」の王子の格好で出てきて2幕の場面を踊り始めて、ひとしきりピルエットとジャンプをやり、パントマイムで美女を示す顔をなでるようなしぐさをすると、後ろから豚が登場する。マペット・ショーだから、カーミットの恋人の豚のミス・ピギーが、思いっきりバレエ・メイクしてクラシック・チュチュで登場、抱腹絶倒のパ・ド・ドゥを踊るが、驚いたことに、きちんとトゥで立ち、脚もきちんと上げる。ちゃんとしたクラシック・バレエの訓練をミス・ピギーが受けていたとは知らなかった。

アメリカやイギリスの良いところは、こうしたクラシックの巨匠みたいな人物が大真面目でふざけた企画に付き合う所だ。そうした意味でヌレエフは、十分西側に適合した印象を与えたのだろう。

スワインという言葉は知らなかったので、辞書で調べてみると、イノシシとか雄豚のような響きらしいので、ミス・ピギーに対して使うのが良いかどうか疑問だが、スワンならぬスワインというのが面白かった。