劇場と映画、ときどき音楽と本

オペラ、バレエ、歌舞伎、文楽などの鑑賞日記です

Let It Be  ~ ビートルズの曲を聞かせるショー

2019-09-30 10:29:33 | 音楽
9月29日(日)の夜に、新宿文化センターで「Let It Be」を観る。17時開演で、一幕70分、休憩20分、2幕60分で、終演は19 時30分ころだった。客席は半分ぐらいしか埋まっておらず、観客層は往年のビートルズ・ファンという感じの年配者が中心。若い人は少ないし、空席も多いので場内の盛り上がりを欠いたコンサートだった。

「Let It Be」という作品は、2012年にロンドンで上演され、2013年にはブロードウェイでも上演。日本でも2014年に公演があった気がする。ブロードウェイの公演では日本人の製作者川名氏もかかわっていたが、客が入らず、5割程度の入りだったので、1か月ちょっとで公演が打ち切られている。それでもツアーであちこちを回り稼いだようだ。世界中にファンは多いだろうから、結構どこでも公演できるわけだ。

それでも、未だ旅回りを続けているのかと思ったら、パンフレットには小さく「パート2」と記してあった。前作の続編みたいなものだろう。

オリジナルの作品では、一幕、二幕を通して、ビートルズのデビューから解散までの歴史的なコンサートを再現したような内容だった。「カヴァーン」でのデビューに始まり、英国の「ロイヤル・バラエティ」や米国の「エド・サリヴァン・;ショー」、「ハード・デイズ・ナイト」「シーア・スタジアム」「サージャント・ペッパーズ」までが前半で、後半は「マジカル・ミステリー・ツアー」「アンプラグド」「アビーロード」「アンコール」となっている。

今回のパート2では、こうした歴史的コンサートの再現は1幕だけにしてしまい、2幕は「もし80年代にビートルズが再結成されていたら」みたいな内容のコンサートになっていた。1幕の構成は「エド・サリヴァン」「日本の武道館」「サージャント・ペッパー」「アビー・ロード」と随分端折っている。

それでも1幕を見ていると、ビートルズは60年代の初めに登場して、激動の60年代を駆け回って60年代に終わったことがよく判る。デビュー当時の歌はまだ50年代の雰囲気を引きずっていたが、60年代の中頃からヴェトナム戦争反対運動が盛んとなり、ヒッピーたちも登場してアメリカや世界中のムードが大きく変わった。そのため、ビートルズの楽曲も60年代後半には大きく変わった印象だ。そうして60年代末にはロックの総決算となったウッドストックがあって一つの時代が終わった感じがする。

今までビートルズが音楽シーンを変えたような気がしていたが、この作品を観て、世の中の変化がビートルズの曲にも影響し、遂にビートルズはその変化に追随できなかったような気がしてきた。

今回の公演では、せっかくの面白い過去の名場面の再現で衣装や髪形の変化を楽しむ場面が減ってしまい、後半の気の抜けたコンサートに変わったため、面白くなくなった。一つ良かったのは、ブロードウェイ版ではポール・マッカートニー役も右利きのベースを使っていたが、今回の公演ではちゃんと左利きになっていたので、この方が盛り上がる気がする。

東京では3日間で5公演をこなし、この後は2週間かけて一夜興行を繰り返して全国を回るようだ。結構ハードスケジュールだなあと感心した。

帰りにはいつものスペインバルで食事。エビのアヒージョや若鳥のローストなどを食べる。


湯浅赳男の「東洋的専制主義論の今日性」

2019-09-29 15:09:07 | 読書
湯浅赳男の本が面白かったので「東洋的専制主義論の今日性」を読む。2007年の新評論刊で、350ページほどの本。副題に「還ってきたウィットフォーゲル」とある。ウィットフォーゲルという名前はまったく知らなかったが、この本の9割はウィットフォーゲルの伝記的な内容だ。ウィットフォーゲルが晩年に書いた「東洋的専制主義」論に至るまでの経緯とその内容が書かれているが、内容だけをもう少し丁寧に書いてくれると嬉しいという気がした。

内容を一口で言うと、農耕文明で大規模な灌漑が必要な地域では、国全体として管理が必要となるために、専制的な政治形態が生じる。それが東洋的専制政治というわけだ。代表例は中国だ。この中国の東洋的な専制政治は、ジンギスカンに代表される騎馬民族のユーラシア大陸制覇により広まり、とりわけモンゴルのくびきにによってロシアも東洋的専制主義国となったと述べられている。共産主義国家として成立したソ連と中国はどちらもマルクス主義というよりも、東洋的な専制主義国家としての色彩を強く残しているというのだ。

東洋的な専制主義国家であると、封建制度が確立しなかったため、社会の取引における信頼関係が育たずに、結局はブルジョワ革命もプロレタリア革命もなく、単に東洋的な専制主義で統治された国家だという内容。全く違うアプローチであるが、梅棹忠夫の「文明の生態史観序説」も同じ結論に達しているという。こちらは僕も読んでなるほどと思った記憶がある。

出版されたのは2007年で、今ではかなり状況が変わっているが、本質的にはロシアや中国の行動パターンや統治スタイルはこの本で述べられているところとあまり変わっていない気がする。

内容は面白いのだが、途中の引用部分や評伝は長くて読みにくい。これは社会科学をあまり勉強してこなかったから、読んでも判らないのかなあと思いながら読んだ。

紀尾井ホール室内管弦楽団第118回定期演奏会

2019-09-28 13:07:31 | 音楽
9月27日(金)の夜に、紀尾井ホールで定期演奏会を聴く。午後7時開演で、20分間の休憩を挟み終演は9時20分だった。会場はほぼ満席。

曲目は最初にバッハのヴァイオリン協奏曲第2番。ライナー・ホーネックがヴァイオリンの独奏と指揮。ホーネックはウィーン・フィルのコンサートマスターで、指揮活動もしているが、ヴァイオリンの音色が清らかで、その音色だけで泣けてくるほど美しいと感じた。曲や演奏がどうのこうのという前に、音色だけでノックアウトされて、心洗われる思いだった。

続いてメンデルスゾーンの「弦楽のための交響曲第10番」。題名からわかる通りに管楽器は入らないし、交響曲という割には一つの楽章しかない曲で、約10分で終わり。ホーネックのヴァイオリンをもっと聞いていたいと思ったが、この曲ではホーネックが指揮に回る。弦楽器だけとは思えないほどのメリハリの付いた音で、結構迫力があった。

休憩の後は、ベートーヴェンのバレエ音楽「プロメテウスの創造物」の全曲演奏。西村まさ彦のナレーションが途中で何回か入り、物語を説明した。ナレーションはマイクを使っていたが、このホールでは残響が長すぎて、言葉が聞き取りにくい。しかし、そこは語りのプロらしく、内容が伝わるように明瞭に話を進めていた。プロメテウスはギリシャ神話の話で、神々の世界から火を盗み出して、人間に使い方を教えたためにゼウスの怒りをかったというぐらいしか知識がないが、この話は、プロメテウスが神の形に似せて泥から人形を作り、教育をして人間とする話だと分かった。

バレエ音楽らしく、リズムははっきりとしており、場面に合わせた情景描写的な音楽が多いので、ナレーションと合わせてバレエの舞台がなんとなく思い浮かぶような演奏だった。ホーネットの指揮は、時には荒々しいほどの力強さを見せ、ドラマチックに内容を伝えていた。

最近聞いた中では最も楽しんだ演奏会で、すっかり良い気分になって帰宅。作ってあった、サラダ、骨付き鶏肉のトマト煮のマッシュトポテト添えで軽い食事。ワインはボルドーの白。


映画「マッキントッシュの男」

2019-09-27 11:03:16 | 映画
衛星放送の録画でジョン・ヒューストン監督の「マッキントッシュの男」を見る。1973年の作品で、ポール・ニューマン主演、ドミニク・サンダ、ジェイムス・メイスンの競演という顔ぶれ。ジョン・ヒューストンの作品としてはそれまでとはちょっと異なるスパイ物で、見逃していた。

「マッキントッシュ」というと、今ではすっかりアップル社のパソコンの名称が思い浮かぶが、アップル社のパソコンはリンゴの品種名からとられている。この映画が作られた時には、未だアップル社のパソコンは世に出ていない。マッキントッシュというのは、人の名前だ。

スパイを描いた話で、ソ連のスパイと通じている政治家が誰であるのかを探すために、英国の諜報局の担当マッキントッシュは、ポール・ニューマンの演じる泥棒を利用して、郵便で配送される宝石を強奪させ、それを理由に刑務所に入れて、ソ連スパイと共に脱獄させ、ソ連スパイを助けようとする政治家を特定する。マッキントッシュ氏は何者かに交通事故にみせかけて殺害されるが、その秘書をしていたドミニク・サンダが実はマッキントッシュの娘で、父に代わってポール・ニューマンを助けて復讐を果たすという話。複雑な話で分かりにくいが、1971年にデズモンド・バグリィが出したスパイ小説の映画化だ。

僕はポール・ニューマンだけでなく、ドミニク・サンダのファンだから、結構楽しんだ。ドミニク・サンダはベルトリッチ監督の「暗殺の森」や、デ・シーカ監督の「悲しみの青春」が思い出深いが、特に「悲しみの青春」は忘れられない映画だ。1982年に作られたジャック・ドゥミー監督の「都会の一部屋」は、「シェルブールの雨傘」の焼き直しみたいな作品だったが、ドミニク・サンダはあまり魅力的に見えなかったので、やはり、1970年代前半のこの映画あたりが良い気がする。

この頃は東西冷戦を背景としたこうしたスパイ映画が沢山あったが、米中対立が激しくなってきたので、中国スパイもので面白い映画ができないかなあと思っている。

映画版「道化師」

2019-09-26 11:15:31 | オペラ
衛星放送で、ゼフィレッリの監督した「道化師」をやっていたので、録画して見る。1982年のイタリアとドイツの合作で、主演はプラシド・ドミンゴ。相手役のネッダにはテレサ・ストラータス。ジョルジュ・プレートル指揮で、ミラノ・スカラ座のオケと合唱。

このオペラの物語は、劇中劇で展開される妻の不倫と、現実世界で起こる妻の不倫が、夫の役者(道化師)の中で入り混じって展開されるのが面白い。映画の中でも小さな芝居一座の舞台場面を見せる関係上、すべてをスタジオ内のセットで撮影しており、最初も小さな舞台の上で展開される形で始まる。

そうした点で、完全なリアリズムとは一線を引いており、映画の中で歌うことの不自然さを感じないで済む。見ていると顔のクローズ・アップが多く、歌手の演技による心理表現はよくわかる点が、本当の舞台とは異なる印象。

しかし、歌手の歌声も映画向けに録音されており、なんとなく聞きなれたオペラのムードとは違うものを感じた。やはり、オペラは舞台の物かなあと、改めて感じた。