劇場と映画、ときどき音楽と本

オペラ、バレエ、歌舞伎、文楽などの鑑賞日記です

新国立劇場の「デカローグ」

2024-07-07 11:14:57 | 演劇
7月6日(土)の昼と夜に、演劇「デカローグ」の7~10を見る。これまでに1~6は見て来たので、後半の四本。モーゼの「十誡」に基づいて1989年当時のポーランドを描くテレビ映画の舞台化で、1作品は55分~60分程度になっている。昼に7と8を、夜に9と10を見た。昼の部は9割を超える入りだったが、夜の部は7割程度。客層は20代から60代まで多様で、男女の数もほぼ同じくらい。オペラやバレエと異なり、圧倒的に一人客が多い。お友達は、演劇には付き合ってくれないのかなあと思う。

モーゼの十誡は、前半の半分は信仰に関することで、後半の半分は道徳的な内容なので、今回の7~10は道徳的な内容がテーマだった。前半は十誡の順番とは異なったが、後半はほぼ十誡の順序と同じ順番だった。「デカローグ」とは「十誡」のことであり、各物語はそれぞれのテーマに沿っているので、それを知るととても面白いと思うのに、プログラムにもどこにも、十誡との関係を論じていないので損をしている。聖書学者が十誡の解説はしているが、この作品との関係はほとんど論じられていない。これでは見る人にとって不親切だろう。

7話の「ある告白に関する物語」は、娘二人と一緒に暮らす中年夫婦の物語。娘は22歳と6歳だが、下の娘は上の娘が16歳の時に生んだ子供を、祖母が「娘」として育てていた。しかし、祖母がその娘を溺愛し、娘もなついていたので、本当は母にあたる上の娘は、自分の子供を奪われたような気になって、両親から逃れようとする。16歳当時関係した元国語教師の助けを求めるが、結局はうまく行かない。これは「姦淫するなかれ」に基づく。

8話の「ある過去に関する話」は、大学で倫理学を教える中年女性を尋ねて、彼女の著書を米国で翻訳している若い女性大学教授がやって来る。そして1943年当時のワルシャワで、当時6歳だったユダヤ系の少女を匿うため、カトリックの洗礼を受けるために代父母を務める予定だった夫婦が、その当日に代父母を断ったのは、倫理的に問題ではなかったのかを問う。米国の翻訳者はその6歳の少女であり、倫理学の教授は断った夫婦の妻だったのだ。米国から来た翻訳者の女性は、その後ずっと「なぜその時に裏切られたのか」を疑問に感じて生きてきたのだ。もしかしたら、「偽証をしてはいけない」という教えを守ろうとしたのか、と思い悩んできたのだ。倫理学の教授は、当時のレジスタンスの活動家で、その少女を匿うとした家族が、当局のスパイであり、レジスタンスの組織が危険にさらされることを恐れて断ったと話し、二人は理解し合うことができる。

9話の「ある孤独に関する物語」は、性的に不能で治らないと知らされた男が、友人から離婚を進められる。妻はそんな彼に優しく接していたが、実は大学生と浮気していた。それに気づいた男は自暴自棄となり、妻は男子大学生との関係を清算するが、男は自殺を図る。「これは隣人の妻を欲してはいけない」に相当する。

10話の「ある希望に関する物語」は、会社員の兄とロックバンドをやっている弟の父親が亡くなり、その父親のアパートを尋ねると、膨大な切手コレクションを発見する。二人には価値が分からなかったが、専門家の話を聞くと、ポーランドでは並ぶものがないほどの貴重なコレクションだとわかり、兄弟はそのコレクションを守ろうとする。中でも貴重な3枚組の切手のうち、2枚を集めて1枚が手に入らないまま亡くなった父親の遺志を継ぎ、二人は何とか残りの1枚を手に入れようとする。それを持つ蒐集家は、金では売らず、他の貴重な切手との交換を求めていることを知る。そして、その交換用の切手を手に入れるため、兄は腎臓の一つを提供して残りの1枚を手に入れた。しかし、父親のアパートは、何者かに荒らされ、コレクションはすべて盗まれているのだった。これは「隣人の財産を欲してはならない」に基づく。

どれも、映画的な作品なので、舞台化には苦労が伴っただろうが、うまく舞台化されていた。特に10話などは、O・ヘンリーの短編を読むような面白さ感じた。出演者は概ねキチンと演じていたが、9話では、舞台的な訓練がうまくできておらず、台詞が聞き取りにくい出演者もいた。

午後1時から見始めて、終了したのは、午後7時50分頃。帰宅の途中で、天丼を食べて帰る。


新国立小劇場「デカローグ5・6」

2024-05-22 11:14:42 | 演劇
5月21日(火)の昼に新国立小劇場で「デカローグ」を見る。「デカローグ」は10話からなるので、その5番目と6番目。来月は7~10話となる。平日の昼間だったが、客席は9割程度埋まっていた。

「デカローグ」とは「十戎」の事だから、各エピソードはそれぞれの戒律に対応している。今回の5話は「ある殺人に関する物語」で、これは「汝、殺すなかれ」に対応しているのはわかりやすい。田舎の村に居づらくなった19歳の青年が都会で暮らすが、居場所がなく、タクシー強盗を働き運転手を殺してしまう。弁護についたのは新米弁護士で、死刑反対論者だが、青年は結局死刑になってしまう。芝居の冒頭に、「死刑制度というのは、犯罪の抑止のためではないのか?そうでなければ、単なる犯罪に対する報復になってしまう。抑止の点でほかの手段はないのか?」と弁護士は悩む。

一ひねりした問題設定で面白いが、殺人場面をリアルに演じるのは感心しない。主題はそこではないだろう。テレビ映画だとそうした映像表現もあると思うが、演劇だったら、もっと台詞に重点を置いた方がよいのではと感じた。

第6話は「ある愛に関する物語」。これは「汝の隣人を愛せ」に対応するのだろう。郵便局に勤める内気な青年が、友人の母の家に下宿して、隣のアパートの若い魅力的な女性を望遠鏡で除く話。まるでヒッチコックの「裏窓」のようだ。女性は男出入が多く、次から次へと男性が訪れて情事を重ねる。男性は思い切った手段で女性に近づくが、女性から「何が望みか」と聞かれて「ただ愛している」と答える。女性は彼も部屋に連れ込んで相手をしようとするが、青年は傷ついて自殺を図る。それを見た女性は「真の愛」があることに気付くが、彼の住まいをたずねると、友人の母親から、「彼の面倒は私が見るので、構わないで」と断られてしまう。これも、十戎の意味が一ひねりされていて面白かった。

残りのエピソードもどのように料理しているのか、楽しみになった。

帰りがけにスーパーで買い物して家で食事。ほうれん草のお浸し、米ナスの田楽、さつま揚げ、タイ飯、わかめスープなど。純米大吟醸を飲む。

新国立劇場の「デカローグ」AB

2024-04-21 11:24:38 | 演劇
4月20日(土)の昼と夜で、新国立小劇場の演劇「デカローグ」のAとBを見る。全10話の短編演劇が4~7月に2本づつ上演されるうちの前半4本となる。どの作品も50分程度で、20分の休憩を挟んで、2本上演されるので2時間で終了。午後の部は1時開演で、3時に終了。夜の部が5時半開始で、7時半終了だった。観客は中年層の一人客が多く、8割程度の入り。

「デカローグ」は、基は冷戦末期に作られたポーランドのTV作品で、それを演劇化したもの。ポーランドの団地に住む人々の風景を描いた作品だ。須貝英が脚色して、小川絵梨子と上村聡史が演出している。俳優も演出も良く、セットもうまくできていて、面白い作品だった。

原作はキェシロフスキ監督の作品で、僕などは「二人のヴェロニカ」と「トリコロール」しか見ていなかったので、フランス系の監督かと思っていたが、解説を読むとポーランドの監督だった。冷戦末期の作品なので、社会主義の体制下で抑圧された市井の人のごく普通の生活が描かれる。

「デカローグ」とはラテン語起源で「(モーゼの)十戎」の意味だ。そこで、10の戒律に対して、10話の話が作られている。どのエピソードがどの戒律に相当しているかは、明らかではないが、番号順にほぼ戒律とエピソードが一致しているように感じられた。

1話は、「ある運命に関する物語」となっていて、言語学を教える無神論者の大学教授は妻を失い、12歳の息子と二人で暮らしている。息子には科学を教え、自分でも科学を神のように考えているが、科学に裏切られて最愛の息子を失う。これは、十戎の最初の「主を唯一の神とせよ」をテーマにしている。

2話は、「ある選択に関する物語」で、重病の夫を抱えたヴァイオリニストの妻が、寂しさに耐えられずにほかの男性と関係して妊娠する。夫が亡くなるならば産もうかと考えて、担当医を訪ねるが、「回復の可能性は数パーセント、植物人間として生き続ける可能性は15%程度が、過去の統計的数字」だと教えられる。女性は堕胎を決心するが、医者に止められる。夫は奇跡的に回復して妻が妊娠したと聞き喜ぶ。戒律の2番目は「偶像を拝むな」だが、この物語にはしっくりこない。むしろ9番目の「嘘をつくな」の方がうまく当てはまるかも知れない。個別の問題に対しては統計的な数字は役に立たないとするのが確率論だ。この話を見て、物理学者ボーアが量子の位置に関して確率的な説明をしたのに対して、アインシュタインが「神はサイコロを振らない」と懐疑的だったエピソードを思い出した。

3話は「あるクリスマス・イブに関する物語」。タクシー運転手がクリスマス・イブを家族と過ごそうとしていると、愛人の女に呼び出されて、認知症気味の愛人の夫が行方不明となっているので、町中を朝まで探し回る手伝いをさせられる。最後に愛人は、実は夫はおらず、他の家族が団欒を楽しむのを見て嫉妬しただけだと明かす。これは十戎の3番目「安息日を忘れるな」がテーマだろう。

4話は「ある父と娘に関する物語」で、娘を生んですぐに母親が亡くなったため、父と娘が二人で暮らしている。母親は複数の男性と付き合っていたので、父と娘は本当の親子かどうか不安を感じるが、必死になって親子を演じ続けようと努力する。これは戒律の4番目の「父母を敬え」がテーマなのは明白。

こうした読み替え的な作品は好きだが、普通の日本人にはキリスト教的なテーマは説明なしではわかりにくいだろうと思う。プログラムも読んでみたが、あまり「十戎」との関係は説明されておらず、もう少し丁寧な説明をしたほうが良いと感じた。

原作が映画だということもあるだろうが、日常の生活を淡々と描く中でテーマが浮かび上がるような描写となっているが、演劇化に当たってはもう少し演劇らしく手を入れたほうが良いのではないかという気がする。どの話も、考えようによっては喜劇的な要素が多く含まれている。「近景は悲劇でも、遠景では喜劇」という言葉の通り、少し引いた形で喜劇的要素を浮かび上がらせた方がよいのではないだろうか。真面目に描きすぎると、重たいテーマで、見ているほうもくたびれる気がした。映画べったりの描き方ならば、映画を見ればよいのであり、演劇科の意味はない。

家に帰って軽い食事。マフィンにチーズ、トマトなどを挟んで食べる。ビールとボルドーの白を飲む。


横浜ボートシアターの「小栗判官・照手姫」

2023-11-24 10:14:25 | 演劇
11月23日(木)の昼に、シアター代官山で横浜ボートシアターの「小栗判官・照手姫」を見る。シアター代官山は劇団ひまわりの持つ120席ぐらいの小さな劇場だが、結構見やすかった。この「小栗判官」は、約40年前にボートシアターが設立された当時のヒット作品だが、作者の遠藤啄郎が2020年に亡くなったので、その追悼公演として行ったもの。1980年代の伝説の舞台が蘇った。場内はインテリ中高年という感じの人で満席だった。休憩15分間を入れて上演時間3時間なので、午後4時に始まり、終演は7時だった。

「新版」と銘打っているので、台本は同じだが、演出、美術、音楽などは少し変わっている印象。製作費が十分でなかったのか、初演当時よりも美術にはお金がかかっていない。豪華さが失われた印象。それでも遠藤氏が作った仮面はほぼそのまま使われたようで、仮面劇としての面白さは失われていない。音楽は打楽器を中心として素晴らしいもので、初演当時とは微妙に異なるが、初演時のムードを維持している。和太鼓だけでなく、インドやアラブなど各地の太鼓や鐘を使い、ガムラン音楽の鐘で不思議なムードを醸し出していた。初演では、衣装も東南アジアのテイストがあったが、今回の美術はそれが失われて、音楽だけに東南アジアのムードが残った印象。

物語は「説教節」で有名な話だが、初演時は歌舞伎的な演技だったが、今回の演技は文語調の台詞回しだけが残り、歌舞伎調は失われている。出演者8人が、演技だけでなく楽器演奏も行い、仮面を変えて複数の役を演じるので、役者も休む暇なく3時間動き回るハードな舞台。力強く、演じきった劇団員には大きな声援を送りたい気持ちだ。出演者の都合などもあったのだろうが、最後の方で小栗判官が「餓鬼」となって地上に戻り、車に乗せられて湯治に行くくだりは、初演時は人間が小さな車に乗って演じたが、今回は仮面と衣装だけとなり、車も省略された。ちょっと寂しい。その後に、仏陀か菩薩的な人物も登場するが、今回はそれも省略されて、舞台後ろの小さな仏像が光るだけだった。これは大いに残念。人数が足りなかったのだろうか。

それにしても、伝説的なこの舞台を見れたのは幸せ。1980年代の前衛的なエネルギーが、十分に残っていた。

家に帰って、豚肉と白菜の鍋を食べる。飲み物は吟醸酒。

シェイクスピア喜劇二本立て

2023-11-10 16:14:38 | 演劇
11月9日(木)に新国立劇場の中劇場でシェイクスピアの喜劇二本立てを見る。午後に「尺には尺を」、夜に「終わりよければすべてよし」。両方とも休憩20分を挟み3時間ほどの公演。2本続けてだと、見ているだけでも疲れるが、演じているのは昼夜ともまったく同じ俳優なので、演じるほうでも大変だろう。昼夜とも8割程度の入りで、中高年主体の観客。

最後に人が死ぬわけではないので、悲劇ではなく喜劇でよいのだと思うが、世の中的には「ダーク・コメディ」とか、「問題作」と分類されることもある2本だ。このように扱われるのは、誰が正しいのかわからないような複雑な問題を扱っているからだろう。2本とも、似たような物語展開で、操の硬い美女が男性に誘惑されて、操を捧げると見せかけて、妻などの本来の正しい相手と入れ替わるという話。「尺」も「終わり」も、ソニンに代わって中嶋朋子が代わって相手をする。両作品は同じ時期に書かれているが、「終わり」の方が先で「尺」の方が後なので、見ていると「尺」の方が一ひねりしてあり、会話も結末も面白く感じた。

演出も美術も概ねよくできているが、新国立の中劇場は劇場の特性もあり、滑舌の悪い俳優だと声が聞き取りにくいという問題がある。新国立中劇場の残響時間は満席時で1.0~1.3秒とHPには出ているが、何となくもっと長い印象がある。壁面に布をかけて残響を減らす工夫もしていたが、もう一工夫いるのではないかという気がする。

「尺には尺を」という意味は、人を裁いたり、計量したりするときには、自分が使った基準が自分に対しても適用されるという意味で、人に厳しく、自分に甘くするのはダメだという、二重基準を批判した言葉だ。出典は聖書とされ、マタイ福音書7章又はルカ福音書6章からの引用とされる。公爵不在中に、人を裁くことになった代理人が、若者の姦淫に対して死刑を宣告したのに、自分が姦淫を行おうとするのを責める話となっている。

兄が姦淫の罪で死刑となりそうなのを、修道女準備中の妹が公爵代理に助命の嘆願に行き、助ける代わりに操を差し出せと要求される。妹はそんなことはできないと断る。妹が「杓子定規に法を適用して血も涙もない」と批判するのに対して、公爵代理は「兄を助けるために、自分の操を捧げようとしない妹こそ血も涙もない」と反論する。話は最後まで面白く展開され、今見ても面白い芝居だと思った。

やっぱりシェイクスピアは面白いなあと思った。「尺」が4時に終わって「終わり」の開始が6時30分だったので、1時間ほど5階の情報センターで読書して、それから劇場近くの中華屋で担々麺を食べ、少し休憩してからまた芝居を見た。終わって家に帰り、ビールとワインを飲んで寝た。