飛鳥寺&甘樫丘

2008-05-01 23:58:05 | 鹿男あをによし=奈良



 甘樫丘を見上げている入鹿の首塚です。蘇我蝦夷&入鹿は甘樫丘の麓に邸宅を構えていました。645年、入鹿が飛鳥板葺宮の大極殿で中大兄皇子&中臣鎌足らに暗殺された後、蝦夷も自宅に火を放って自殺します。首塚は、蘇我氏の菩提寺でもある飛鳥寺の裏にあるのですが、どんな気持ちで甘樫丘を見つめているのでしょう? 郷愁を感じながら我が家を見つめている? あるいは、炎に包まれた自宅を見て悲嘆に暮れているか、憤怒の叫びを上げているのかもしれません。
 正史によると、蘇我入鹿は、政敵だった山背大兄王の一族を襲い自殺に追い込むなど横暴の限りを尽くした悪人だけど、それは勝利者側の言い分に過ぎません。それでも、日本書紀には入鹿が斉明天皇の寵臣だったことが記載されており、天皇の御前で皇子と佐伯子麻呂に斬りつけられた際に、天皇に無罪を訴えて命ごいをした、といった生々しい記述に、真実が描かれているような気がします。


                   



(左上)入鹿の首塚から振り返る飛鳥寺
(右中)飛鳥寺(入口側)と、その奥に見える甘樫丘。大きな樹が数本並んでいるところが甘樫丘展望台になる。
(左下)甘樫丘から見下ろした首塚(右手前)と飛鳥寺(左後方)のアップ。

 現在の飛鳥寺(法興寺)は小さな田舎のお寺といった風情だけど、飛鳥に都があった頃は四大寺にも数えられる堂々たる大寺で(蘇我氏は聖徳太子と共に仏教を手厚く保護した)、入鹿を倒した中大兄皇子は、直ちに法興寺に軍を進め、蘇我邸を取り囲んでいます。
 飛鳥寺のもう一つの魅力は、日本最古の仏像でもある飛鳥大仏(釈迦如来坐像)が安置されていること。平安&鎌倉時代に罹災し、オリジナル(鞍作鳥の作)の部分はわずかしか残っていないそうですが、そのお姿は非常に美しく、時間が許すなら一日中ここで過ごしたいほど・・・この日も飛鳥大仏の正面に15分ほど対座させてもらい、後ろ髪を引かれる想いで寺を後にしました。
 2005年から行われている入鹿邸発掘調査から、大化の改新は単なる権力闘争から引き起こされたものではなく、外交&防衛政策を巡る対立の末に、親百済派が起こしたクーデターだとする新たな説が唱えられています。
 

  

                   

(左)時刻は15時45分。飛鳥を去る時間が近づいてきた。残るは、「水落遺跡」と「甘樫丘」のみ。
(右)660年、日本で初めて水時計を作り、人々に時刻を知らせた。「水落遺跡」は時刻省と呼んでもいいかもしれない水時計建物と、当時の科学技術の最先端を用いて造られた時計装置の跡。遺跡の隣に当時の水時計を再現してほしいなあ~♪


 甘樫丘に上る前に、遊歩道入口近くにある民宿「吉田」を訪ねてみました。13年前に大変お世話になった民宿です。雨で濡れ鼠になったニワトリさんは、向かって右に見えるガレージにバイクを停めさせてもらい、部屋で乾いた服に着替え仮眠をし、夕方「甘樫丘」に上りました。
 家の前で当時を懐かしんでいると、偶然、女将さんが出てこられました。事情を説明し、「今度飛鳥に来るときは、また泊めて下さい」と仮予約?を入れ、記念写真を撮らせてもらいました。早く飛鳥に帰りた~い!
(『鹿男あをによし』のDVDが今夏発売されるので、それを見てから・・・)


 標高148mの展望台まで、わずか10分。木々が切れると、このような素晴らしい眺望が開けてくる。


 展望台から橿原神宮側を望む。真ん中左に見える剣池と、その斜め右の畝傍山が美しい(特徴ある形なのですぐわかる)。


 写真だと広角レンズのせいもあって(近くにあるものが大きく写ってしまう)、手前の張り出しが邪魔だが、実際は視界の妨げにならない。藤原宮方面を見下ろす。左の丘が耳成山。右の丘が(天の)香久山。手前に(写真には写っていない)雷丘。
 甘樫丘から眺める大和三山(左から畝傍・耳成・香久山)は、本当に素晴らしい!

 小説『鹿男あをによし』、「俺」が印をつけられたところまで読みました。ちまちま読み進めています・・・