今朝の東京新聞の『筆洗』(1面のコラム)を読んで、気持ちを新たにした。書き出しはこうだ。
「理想と現実が異なるとき、どうしたらいいのか。理想を無視したり現実に合わせるのが手っ取り早い解決方法になる。でも何のために理想を掲げているのか分からなくなってしまう」
今日は憲法記念日だ。護憲派も改憲派も各地で集会を開いていた。争点は決まって第9条だが、憲法が現実から乖離しているのは確かだとしても、「憲法(理想)を現実に合わせろ」とする改憲派の主張に従うと、何のために人が理想を掲げるのか分からなくなる。かといって、理想と現実を使い分けて憲法違反が常態化してしまうのも困りものだ。空文化した理念なら、むしろない方が良い。では、どうすべきか?
『筆洗』は、ここで政治学者の南原繁さんの言葉を引用する。
「理想はひとり青年の夢想ではなく、また単なる抽象観念でもなく、われわれの生活を貫いて、いかなる日常の行動にも必ずや現実の力となってはたらくものである」
何とも力強い言葉だ。理想と現実のはざまに立たされたとき、つぶやきたい台詞だと思った。そして『筆洗』は、憲法が掲げる理想も「かくありたい」と述べながら、日本がモデルとしているアメリカでは弱者切捨て政策によって生存権をおびやかされた貧困家庭の子供たちがお金のためにやむなく軍隊を志願し戦地へ向かう現実(『ルポ貧困大国アメリカ』より)を引き合いに出し、幸いにして日本には戦争放棄の憲法9条があると結んでいるが、同新聞の社会面を読むと、日本でも同じことがすでに始まっていることがわかり、愕然とした。というのも・・・
「自分は今でも戦争を求めている」と言い切る若いフリーターがいる。「戦争で死ぬのと経済的に死ぬのは自分にとって同じこと。今のままでは、どうせ寿命はまっとうできない」
年収約150万円、コンビニで働く青年は、一昨年暮れ「31歳。フリーター。希望は、戦争」という論文を月刊誌に発表した。
「非正規労働者がはい上がれない社会が続くのなら、戦争で大勢の正社員が死なない限り、自分は正社員になれない」
知識人たちは「格差社会の不満のはけ口に戦争を希望するとは暴論」と非難したらしいが、「不満のはけ口」に、ホームレスを暴行したり、無差別殺人を試みるとか、チューリップの花を切り落としたり、白鳥や黒鳥を殴り殺す、といった出来事が日常的に起こる一方で、集団的ヒステリーに近い正義感が振りかざされ、不用意な発言をした芸能人やスポーツ選手をバッシングする(最近はテレビドラマまで。朝ドラ『瞳』がいくら面白くないといっても、怒りの抗議をする問題ではない)風潮も不気味だ。
ついでながら、彼の論旨の根本的な間違いは、仮に日本が外国で戦争を始めるとして、誰が戦地に行くのか考えてみれば明白だ。最初に戦地に赴くのは彼が期待する大勢の正社員ではなく、「これをチャンスと考える」彼自身か、先の例のようにやむなく入隊する人々で、したがって戦争で死ぬのも不幸なことに自分たちに他ならない(徴兵制が実施されれば話は少し変わるが)。それに何も戦争を望まなくても、自衛隊に入隊すればすなわち正社員になれるのだけれど、それについてはどのように考えているのだろう。なぜ彼は隊員にならないのか?
今年の憲法記念日は、憲法第9条ではなく、第25条の「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」について考えたい。この「すべて」というのは、年齢・性別を問わず、病気や障害の具合に係わらず、どんな職業についていようと、どんな嗜好や信条を持っていようと、平等に保障されている権利だ。
さらにつけ加えると、ニンゲンだけでなくこの星で生を営む全ての生きものの生存権が等しく認められるような世の中に、願わくばなってほしい。ニンゲンは万物の長とも言われているけれど、そうではなくて、一番上に君臨しているかのように見えるニンゲンが他者に生かされているにすぎない生きものだ、という認識を持つことで初めて生じる考え方ではないかと思う。大風呂敷を広げすぎたかな?