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20201130 中野重治の詩を読んで、ほんの個人的な感想文。追記あり。

2020-11-30 18:43:00 | 本の要約や感想

20201130


  ここは西洋だ
  イヌが英語をつかう



  中野重治 「帝国ホテル」より抜粋 昭和29年 昭和詩集 角川書店発行




詩人中野重治という名前はけっこうな重さを持っていると思うが、私は彼の作品を読むのはこの本でが初めてである。

中野重治Wikipediaリンク

名前だけは知っていた。なんとなく抒情詩作家であるような気がしていた。しかし真逆でした。共産党員のプロレタリア詩人で、冒頭に貼った抜粋のようにかなり挑発的で辛辣で、抒情の欠片もないというか、抒情は拒否だという気概があり、しかしそれは抒情を理解しないということではなく、自分は抒情を行かず、人が目を背けるような場所を歩こうと決めていたようだ。まあ私は彼のいくつかの詩を読んだだけなので、その後変わったの変わらなかったのか、わからないが、Wikipediaを読むと「死ぬまで左翼」といった様子である。とはいえ現代の共産党とは違い、理想を追いかけた当時の謂わば良い左翼であり、それは作品に顕れている。人に嘘があれば詩は書けない。そこに嘘があるかないかわかる人にはわかる。ただし嘘といっても日常の金の無心につく嘘などではなく、自分が紙の上に吐く言葉に嘘があるかどうかである。


冒頭の抜粋は題名通りに帝国ホテルのことを書いていて、暗喩ではなく明確明瞭に揶揄している詩なのだが、なかなかキビシイですね。つづきを少し貼りましょう。



  それからここは安酒場だ
  デブ助が酔つぱらつている

  それからここは安淫売屋だ
  女が裸で歩く


イヌとはおそらくホテルの従業員だろう。デブ助は外国人かもしれない。女はそういった商売の人だろう。(補記。そういった商売の人ではなくて、露出の多いドレスのご婦人を指しているのかもしれない) 安淫売屋が悪いというのではなく、お高く気取っているけど安淫売屋じゃねーか、という感情を読み取れるが、ホテルはその大小にかかわらず今も昔もそういった側面は少なくないので、中野さんの気持ちはわかる。いかにも共産党員らしい視線での作品で、いわゆるブルジョアを毛嫌いしているといった気持ちが露骨に表れていて、しかもそれが直球で表現されているところが私にとって好ましく面白い。デブ助などという言葉を他の詩に見たことがない。

もちろんデブ助も比喩だとも考えられ、単にホテルに来るたとえば大柄の外国人を指すのではなく、日本という国の上に何かのよからぬ手段で立ち、まだまだ貧しい地方の生活など顧みず、戦後の混乱に焼け太る誰かの姿を指しているのかもしれない。(訂正。帝国ホテルという詩は昭和三年以前に書かれたようなので、戦後という理解は当たらない)

最後にもう一つ、彼の思考の根底がよくわかる詩の抜粋を貼っておこう。中野さんはどうも汽車とか機関車が好きなようだ。


  きかん車
  きかん車
  まじめな
  金で出来たきかん車


━━以下追記━━12/1

昨日、上の文章を書いて公開にしたのだけれど、夜中にはっと目が覚めて、その時、頭に浮かんだのはなぜか「抒情」という言葉で、よくよく考えてみたら自分は抒情の意味をよくわかってないのではないか、と深夜のベッドの上で心配になり、PCを立ち上げて少し確認したら、ますますわからなくなり、しかし眠いし、それで一旦、昨日の文章を非公開に処理して、また寝たという次第。もちろん少し恥ずかしい気持ちとともに。しかし「抒情」の意味はけっこう難しくて、これを書いている今でも明確にわからない。言葉の意味が広くて深いのがその原因であるかと。

通常、抒情(叙情)の意味とは「自分の感情を述べ表すこと」であるらしい。すると自分の感情を詩に書き表している中野重治は抒情詩人ということになり、上に書いた私の文章における中野が抒情を拒否したという箇所はまったくの私の勘違いであったことになる。

昨日までの私の抒情や抒情的などの意味の認識はというと、赤とんぼや故郷などの童謡を抒情歌と呼ぶが、私はその雰囲気を抒情、抒情的だと思っていた。間違いではない。そして童謡ではなく、クラッシック音楽などにも抒情的というニュアンスがあり、それは哀愁や切なさを含んだ物悲しいのにどこか心地よい曲調を指す場合が多いと思う。

しかし、それが詩についての抒情ということになると少し変わってくるらしく、自分の感情を込めることを抒情とするなら、やはり中野重治は抒情詩作家であるといえる。ところがいくつかの中野についての文章を読むと、やはり中野重治は初期は抒情詩を書いていたが、共産党員になった頃に抒情に決別した、というような見解もあったり、いや中野は「新しい抒情」を生み出した抒情詩作家である、という人もあり、私は悩むところである。

この「新しい抒情」という考え方がおそらく詩の業界にはあるらしく、私は業界人ではないから知らなかったが、つまり、要するに「抒情」の意味も時代とともに変わっているようなのだ。

私としては抒情はあくまでもその言葉が嬉しくとも悲しくともある種の心地よさを持っていたいと思うので、デブ助云々に抒情であるとしたくはないが、まあ学識としての判断に準じたい。それに詩というものをカテゴライズするところから困難であるとしかいえなくもない。

この追記で何を言いたかったかというと、まずは私の認識不足。そして抒情という言葉の捉え方が業界によって違っているということ。そして「新しい抒情」というような複雑さがあるということ。です。だから上の文章は消さないが、当たっているかもしれないし、まるで見当違いなのかもしれないので、ご理解ください。他にもいろいろ不足蛇足があると思います。以上。

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