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5/5 映画「愛しのアイリーン」感想

2020-05-05 20:12:18 | 映画

5/5

先日、「愛しのアイリーン」という映画を観たので、感想を少し。

新井英樹のコミックが原作であるらしく、この作者の名前を私は憶えていなかったが絵柄は記憶にあった。汗臭く泥臭い作品が多かったと思うが、私はひとつもきちんと読んだ記憶がまったくない。おそらく当時の私には「こんなの暑苦しくてとてもとても」だったと思う。

それで映画「愛しのアイリーン」だが、もちろん原作コミックのことはまったく知らなかった。話が始まって、安田顕か、まあ顔は知っているな。なんか今回は変な役だな。河井青葉か、よく知らないが、たしか「私の男」に出ていたような。などと思いながら観ていたら、主人公岩男の母役の婆さんの演技が白熱してきて、私は一気に映像に引き込まれた。

話の筋はというと、
田舎のパチンコ屋の純情ウスノロ店員の中年男、岩男が淡い恋に破れ、持て余した性欲の勢いでフィリピンへと嫁を買いにゆく。貯金するしか能がなく地道に溜めた貯金から300万円ほどを使い仲介業者から買った嫁アイリーンを日本に連れて帰った。

年老いた母はその外国人嫁を猟銃で撃ち殺そうとするが果たせず、しかしその後は嫁を虫けらと呼び、以降、邪険に扱い続ける。

国に残した家族思いのクリスチャンで健気な嫁だが、まだ金で繋がった夫に心も身体も許す気になれず、夫の岩男は身体はデカいが性格が優柔すぎて嫁の態度を受け入れたまま悶々と暮らしている。
そんな息子を溺愛している母はどうしても日本人の嫁と息子を一緒にさせたく、その弱みにつけ込んだ女衒ヤクザの口車に乗ってしまい、アイリーンを拉致させてしまう。しかし寸前で帰宅した岩男が猟銃を持ってヤクザの車を追いかけて行く……、という感じで、起承転結でいえば、ここで承くらいではないか。

私は最後まで母である婆さん役の女優が誰だかわからなかった。
もたいまさこ?に似ているが、いや違うだろう。では誰か。と考えながら観ていたら、すっかり婆さんの演技に嵌ってしまい、カメラの前で燃え尽きてしまうのではないかと不安になるほどに荒ぶる女優魂に私はヘッドロックされ、最後までそれは外せなかった。女優の名は木野花。

岩男の嫁フィリピーナ役で実際にもフィリピンの女優ナッツ・シトイも大変によかった。弾けるような可愛さと芯の強さを併せ持つ佇まいがよかった。とはいえ私には小学生くらいの子供にしか見えず、そういった対象には最後まで思えなかったが、あのフィリピンの田舎から出てきたばかりのような南国娘が、日本の田舎の雪道を綿入れ袢天姿でトボトボと歩く姿にはちょっとまいった。あれは見るのが辛かった。

話はヤクザがアイリーンを拉致し、それを岩男が追いかけてゆき、行き止まりの山道に追いつめたところから新たな展開を見せていくのだが、その後のことはここには書かない。

それでこの作品の主題は何か?というと、
私の今のところの答えは「都会と地方を一緒にするな」ではないかと考えている。

都会と地方にはそれぞれの長所や短所があるが、しかしやはり地方には、とくに雪国には、私のような都会育ちの自然の災いにまず苦しんだことのない者にはまったくわからない厳しさがあり、故田中角栄がそのことをよく言ったことを思い出す。

それはたしか「他の者にとって雪はロマンだが、雪国の者とっては雪は戦いだ」というような意味であった。

だからこの映画にも雪の景色が出てくるが、私にはその本当の厳しさがわからない。「美しい」で済む世界ではないということはわかるが、そこに生きて暮らすことなど1ミリも思うことはない。

厳しさは雪や自然環境だけのことではなく、直截にいえば、嫁問題であり、排他的な村社会のしがらみであり、雪と同じように気ままな都会暮らしとは大きく違う部分が良くも悪くもあり、導かれる答えは、雪を美しいと思う尺度では地方の全ては語れない、ということではないか。

もちろん私には地方に排他的な村社会などが「あるかどうかもわからない」ままこれを書いていること自体が本質的にズレているわけだが、そこはご容赦のほどを。

しかしそれを悪い意味だけで書いているわけではない。
村社会は良くも悪くも作用するであろうし、良くも悪くもは村でも町でも同じであり、つまり「違う」ということを言いたいだけで、それをひと言でいうなら、まあ「多様性」なのかもしれないが、それだと当たらずとも遠からずというところか。

主人公岩男の暮らす環境は、田んぼに囲まれた古い実家があり、ボケた父がいて母がいて、パチンコ屋に勤め、夜は下卑た上司と絵に描いたような地方の飲屋街のフィリピンパブで飲み、下品な話をする。なにしろ冒頭から「オ◯ンゴ、オ◯ンゴ」の連呼である。上司の挨拶が「おはようご◯ーメン」である。

けっして上品ではない私が見てもキツい生活環境なのだが、ところが岩男が嫁を買いにフィリピンへ行くと、そこにはさらに一段も二段も低い環境が普通にいくらでも広がっているのだ。

この、観客、岩男、フィリピンの貧しさ、という三段構えの構図にもっと深い答えがあるように思えるのだが、それを書くにはまだ考えが足りない。

ただし、フィリピンがすべて貧しいわけもなく、フィリピンのハイクラスは英語も満足に喋れない日本人などはまず相手にしないことは明記しておきたい。

最後に、私のこの映画への結論は簡単だ。これは母である婆さんの映画である。制作者や監督、出演者たちの様々な思いはあっただろうが、婆さんがそれら全てを捩じ伏せてしまったのではないか。

老婆で感動した記憶があるとすれば、映画「阿弥陀堂だより」のおうめ婆さんを演じた北林谷栄である。

北林谷栄の生と死の狭間のように止まった時空においての演技を「静」とするならば、こちら「愛しのアイリーン」で気違いじみた、まるで怖いものなどないがごとく突進する鬼婆は「動」として対比させることが出来る。しかし、山に広がる死の予感に満ちた雪の中で、善も悪も絶対値としての等価に凍りつかせてしまうような厳寒の中で、「動」であった老婆は自らの生涯最高の記憶を二つの命に重ね合わせた瞬間、彼女の「動」はついに終わった。荒ぶる魂は雪の静けさに永遠に同化した。
その真っ白に昇華してゆく彼女の姿を私がここに神々しいと書いて何の差し支えがあろうか。

日本に来たばかりのアイリーンが山の田んぼ道を走る軽トラックの助手席で口ずさむタガログ語の歌とその後の花火の場面がとても素晴らしい。

健全ではないが、いかがわしくもない。

以上。E V O L U C I O

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