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映画「悪人」感想

2016-09-24 21:24:49 | Diary
2016/8/8

2016/8/10


CS放送でまたなんとなく観てしまったので、以前の書きかけを思い出した。

上のリンク二つは映画「悪人」を観たことについての感想だが、今日はその続き。

以前までに書いたように、私は原作を読んでいないから、あくまでも映画だけの感想である。



映画では「誰が本当の悪人なのか」というキャッチコピーがついている。

そしてそのコピーを反映させるかのように映画の最後で深津絵里が
「そうよね。世間ではあの人は悪人なのよね」という意味のセリフをつぶやく。

これは深津が乗ったタクシーの運転手(でんでん)が、捕まった祐一を評して何気なく放った「あんな悪い奴はいない」という意味のセリフ━━━、それは当然ながら、世間一般がこの事件を見る角度であり、若い男が痴情の果てに女を殺し棄てて、また別の女を拉致し、逃亡の末に捕まった。という一方向、もしくはメディアが切り取った一断面の切り口だけからの判断と論評━━━に対比させている。

劇中では、殺人者清水祐一(妻夫木聡)の陰で何人もの小悪人たちが登場する。

性格の表裏と虚言癖があり、会うことに金を要求する女、石橋佳乃(満島ひかり)。

佳乃を深夜の峠に蹴り出し置き去りにし、またその死を嗤う学生、増尾圭吾(岡田将生)

催眠商法で房枝(樹木希林)から金を巻き上げる男、堤下(松尾スズキ)

正義と報道の名の下に、ではあるが、本心では「いい画が撮れれば。問題のあるコメントが録れれば」とだけしか頭にない、しかも朝も晩も近所の迷惑も何も考えずに房枝を追いかけ回すレポーターたち。

幼い祐一(妻夫木聡)を棄てたにもかかわらず、祐一を実質的に育てた祐一の祖母、清水房枝 (樹木希林)に一方的に文句をいう祐一の母、清水依子(余貴美子)

キャッチコピーと深津のセリフと何度も描かれる小悪人たちの姿から━━━、たしかに祐一は殺人を犯したけれど、それは単純な衝動的殺人であり、もちろんその罪が重いことは間違いないのだが、しかしこの世には小さな悪が蔓延っている。人を殺すという絶対悪の陰に罪を問うことまでは出来ない小さな悪が無数にあり、対して祐一は人を殺したという以外は非行でもなく、祖父母と暮らし、寝たきりの祖父の世話をし、仕事も真面目にこなし、しかし実の母に棄てられたことによって心の底に空いた穴を持ったままただ灰色に過ぎていってしまう人生に強烈な焦燥を感じていた青年で、彼には結果としての殺人の罪が残った。

なぜ残ったか。理性が足りなかったからである。これをしたらどうなるか、という想像力の欠如からである。なぜ理性が足りず、想像力が欠如していたのか。愛されなかったからである。いや、愛は祖父母によってある程度は満たされてきたかもしれない。しかしどうしても幼少時に母に置き去りにされたという傷は簡単に埋められるほど浅くはなかった。またその傷の原因を本人はそれだとわかっていなかった。そのためにかただ一瞬の愚かさをもって悪人となってしまった青年。優しいのに。けっして汚れてはいないのに。深津演ずる光代は何度もそう思う。しかしそのただ一瞬の愚かさと、そしてやはり運命というものの気まぐれさが彼女には心残りであった。

愚かさはなぜそこにあったのか。いったい誰がその愚かさを彼に与えたのか。引き金を引いたのは祐一ではあったが、引かせたのは誰か。引き金を与えたのは誰か。引き金をそこに置いたのは誰か。━━━そういったことを考えさせられる。しかし社会とはある種の公約数であり、誰かが罪の責任を負わなければならない。

一方、夜の峠で車から佳乃を蹴りおとし棄てた学生、増尾圭吾(岡田将生)の場合はどうだろうか。あの時に蹴り出された佳乃は明らかにガードレールに額を強くぶつけているが、彼女があの衝撃によって、もしくは気絶の末の凍死などで死んだとしたら今度は彼が殺人犯であったわけだ。

しかし佳乃の額は頑丈であった。あれでは死ななかった。だから増尾圭吾は罪に問われることなく、その後の友人の集まりで死んだ佳乃を嗤えるのだった。また祐一があの場に現れず、結果佳乃も死なず、佳乃が蹴り出されたことを訴えたら圭吾は刑事民事ともに敗訴でそれなりの罰を与えられるに違いなかった。しかしいろいろな意味でジョーカーを引いたのは祐一で、しかしそのジョーカーを引いたことによる深い場所でだからこそ彼は何かを知ることになる。

物語は祐一が光代と結ばれることによって愛の手応えを感じ、心の穴が埋められ、その時にやっと自分の罪の重さに気がつく。

愛することと愛されることを知り、愛するものを失うことの重大さを知る。

そのことを佳乃の父(柄本明)が物語の主題を代弁するがごとく絶望の果てに誰に向かってでもなくレストランのドアの前でつぶやくが、あれはわかりやすい反面、善悪を明確にし過ぎて、私は余計だったように思う。

私が年を十分にとったせいか、説明と説教くさいのにはうんざりで、逆に心理描写の積み重ねが足りないのには不満で、さらに正直に書くと、「はっ」とする場面もセリフもそれほど感じられなかった。感情移入があまり出来なくて、覚めたまま見終わった。それなりに面白かったことはあるが、もう一度観たいかというとそうでもない。要するに若さゆえの気持ちがもうわからないということかもしれない。

この映画に関しては、それぞれの俳優の演技を楽しむものと私は理解した。

柄本明も樹木希林もよかった。妻夫木聡もよかった。深津絵里はすごくよかった。

だからこれは深津絵里を鑑賞する映画なのではないだろうか。

同じではないが、殺人者をかばい匿い、結果的に愛してしまうという物語の映画「とらわれて夏(Labor Day)」がケイト・ウインスレットとジュシュ・ブローリンの共演によってあるが、あれは何度も観たいと思わせる。

今日現在に上のトップ画面に貼った動画は「悪人」のエンディング曲です。いい曲ですね。

以上、ざっと書いたので、後でこっそり直す箇所もあるかもしれない。

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