三多摩の鐘

The Bells of San Tama -関東のキリスト教会巡り-

晴佐久昌英神父を批判する

2014年03月23日 | 東京のカトリック教会
カトリック多摩教会聖堂
(住所:東京都多摩市聖ヶ丘1-30-2)

「言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」(ルカ13・3)、「だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります」(二テモ4・3-4)。

今月15日、及び22日付の『東京新聞』朝刊に、晴佐久昌英神父の寄稿が掲載された。「宗教の普遍性」という表題だが、内容は従来の「福音“万人救済”宣言」である。そこには「救い」「必ず」「全て」の文字が躍り、聖書に替えて「キリスト教憲法」(15日付同紙)や「神仏ご自身の愛のことば」(同22日付)が登場する。「それでも、私は救われているとしか思えない」という晴佐久神父は、「キリスト教は『あなたはもうすでに、救われている』と宣言している。神は全ての人を愛しており、必ず救うからである」と結論付けた。

だが、『東京新聞』の賢明な読者は次のような疑問を抱くに違いない。「ヒトラーやスターリンも救われていたのか」「(カトリック教会が認めない)同性愛者も救われているのか」。確かに、神は全ての人の救いを望んでおられるが(一テモ2・4)、必ずしもそれが「無条件」ではないことは、聖書の多くの言葉(注1)、カテキズムの教え(注2)からも明らかだ。私たちが「救われている」のであれば、イエスが「地獄」の恐ろしさを強調されることはなかったし、カトリック教会が私審判や公審判、煉獄や地獄を教える必要もない。

晴佐久神父の「福音“万人救済”宣言」や説教(というよりも「演説」)は、人間にとって「都合の良い言葉」だけで潤色され、聖書の「不都合な真理」については沈黙する(注3)。だが、それは「一時的な平安」「その場しのぎの癒し」による「救われた気分」という錯覚に陥らせることはあっても、「霊魂の救済」とは成り得ないだろう。「なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです」(二コリ5・10)

奇妙なことに、晴佐久神父は「どのようにして救いは実現するのか」について曖昧となる。ただ「救われる」と力説しているだけなのだ。この点、正教会のカリストス・ウェア府主教が「三つの大切な問い」を通して、「救いとは何か」を考える機会を提供された(注4)。第一は「私たちは何から救われるのか」(出発点)、第二は「私たちはどのように救われるのか」(道筋)、第三は「何に向かって救われるのか」(旅の終局)。何となく「救われている」と浮かれていた人々は、それが単なる「感傷的信仰」と気づくのではないか。

「あなたは救われたのですか」という質問に対し、ウェア府主教は次のように答えている。「『はい、救われました』とはとても答えられません。そんな風に答えたなら、救いは成就した事実、実現された事実として、もう既に今ここにあることになってしまいます。(中略)ちょうどよいのは、『救われました』と答える代わりに『神の慈憐と恵みによって、救われつつあることを信じています』と現在進行形で答えることでしょう」。さらに、「師父シソエスにならって答えましょう。『悔い改めを始めたかどうかさえも疑わしいのです』と」。

日本のカトリック教会は晴佐久神父の「福音“万人救済”宣言」に迎合しつつある。そこでは神よりも人間の都合が優先され、「フレンドリーなイエス」を拝み、十字架は単なるアクセサリーだ。「何だかよく分からないが、私たちは救われた」と小躍りしている人々は、「復活の栄光」よりも目先の「ご利益」を追い求めている。「公会議の精神」「日本人の感性に合った宣教」の掛け声と共に、こうした「救い」の世俗化は避けられそうにない。私はイエスの全てを伝えようとしない晴佐久神父とその「福音“万人救済”宣言」を批判する。

「天を仰げ、地の為に之(これ)を失ふな。地獄を眺めよ、一時の快楽(たのしみ)の為にその中に入るな。イエズス・キリストを思へ、世間の為に主を否み奉るな」(聖フランシスコ・サレジオ『信心生活の入門』より)


(注1):『聖書』マタイ7・21、マタイ10・28、マタイ13・40-43、マタイ25・41-46、マルコ9・43、黙示21・27など。
(注2):『カトリック教会のカテキズム要約』135項、171項(但し262項)、208項、210項、212-214項など。
(注3):2013年7月21日付『カトリック新聞』投書欄で「イエスの厳しい言葉を重く受け止めていない」と指摘された晴佐久神父は、「そういう言葉だけ取り出して説明することで、どれほど多くの人が苦しんできたかを考えてほしい」と反論(同日付「説教」より)。だが、晴佐久神父も「都合の良い言葉だけ取り出して説明」している。「多くの人が苦しんできた」以下の発言は同調圧力を伴った「おためごかし」だろう。晴佐久神父は「福音“万人救済”宣言」正当化のため、聖書の言葉に恣意的な「優先順位」をつけている。
(注4):「三つの大切な問い」の回答は、ウェア府主教著『私たちはどのように救われるのか』を参照。正教の「原罪」観は異なるが、本書は「救いとは何か」についての有益な示唆に富む。ご一読をお薦めする。

◆主な参考文献など:
・「カトリック教会のカテキズム要約」 日本カトリック司教協議会監訳(カトリック中央協議会・2010年)
・「カトリック要理(改訂版)」 カトリック中央協議会編(中央出版社・1992年版)
・「信心生活の入門」 聖フランシスコ・サレジオ著、戸塚文卿訳(日本カトリック刊行会・1931年)
・「私たちはどのように救われるのか」 カリストス・ウェア主教著、水口優明、松島雄一共訳(日本ハリストス正教会西日本主教教区教務部・2003年)
ジャンル:
ウェブログ
コメント (36)   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 横浜ハリストス正教会 | トップ | 大斎節第3主日の聖餐式 »

36 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (森の都)
2014-03-23 15:06:24
はじめまして。

「とても」芯のある司祭様だとは思いますが、お祈りが必要なようには思います。その範囲でのかかわりは礼儀に反しないと思います。

よい司祭にますますなられるように、周りが配慮しなければならないこともあると思います。カトリックの信者としての周りの配慮が欠けていることもあります。

わたしには、「そのような?霊に」憑かれているかのように見えます。あの独特の雰囲気にはわたしもびっくりさせられました。

このような真摯な批判は、なかなか本人には届きにくいです、熱心なお祈りの心のみが、奇跡を起こし、適切な言葉を表します。

失敗や不幸・悲劇を目の当たりにすることによって、信仰深い人達はそれで考えが変わっていきます。その中で伝統に出会うことで自分が今まで欠けていたこともわかってきます。それ以外では変わらないと思います。しかし今の日本の教会はキリスト教の深い霊性に出会う事がなかなか出来なくなっています。教会が色々なことをやめてしまったからです。

それに日本の社会は恵まれているので難しいと思います。

聖ヒエロニモの言葉 (エウティコ)
2014-03-24 12:29:00
森の都さん、はじめまして。

「福音を語りまくる」という晴佐久神父は、聖書の言葉で直接「福音を宣べ伝える」ことを避けているように見えます。
「福音“万人救済”宣言」を“合憲”とするために、「キリスト教憲法」なるものを起草したり、果ては阿弥陀仏の本願力にすがって(?)「神仏ご自身の愛のことば」を創作してしまう。さらに、主日説教は晴佐久神父の「個人的な感動体験」や「一週間の“救済”事例報告」がメインとなり、当日の福音朗読箇所について殆ど触れない場合さえもあります(注)。

昨年の『カトリック新聞』で80代の外国人司祭が指摘されたように、晴佐久神父はイエスの厳しい言葉を重く受け止めようとしません(なおかつ、晴佐久神父はこの先輩司祭の忠告を謙虚に受け止めず、主日説教を潰して長々と反論)。しかし、信者や求道者にはその「厳しい言葉」の本当の意味について、正確に「知る権利」があります(晴佐久神父の「キリスト教憲法」では保障されていないのでしょう)。なぜなら、「聖書を知らないことは、キリストを知らないこと」(聖ヒエロニモ)になるからです。それでは「救われません」。

トマス・ア・ケンピスはイエスの厳しい言葉をストレートに受け止めました(光明社版『キリストに倣いて』第2巻12章参照)。しかし、晴佐久神父はその言葉から逃避しています。「聞かなかったことにしよう」という態度で。私は「福音“万人救済”宣言」に熱狂しつつある日本のカトリック教会に失望しています。


(注):前教皇ベネディクト16世『使徒的勧告 愛の秘跡』(カトリック中央協議会・2008年刊)より。「神のことばが重要であれば、説教の質をよりよいものとすることが必要です。(中略)叙階された役務者は『聖書に関するふさわしい知識に基づいて、説教を注意深く準備しなければなりません』」・・・・。つまり、晴佐久神父の説教は「演説」です。
Unknown (森の都)
2014-03-24 23:55:51
健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命ある限り、真心を尽くすこと・・・・・・。

洗礼を結婚に譬えることがありますが、ぴったりの譬えだと思います。

洗礼の時いろいろ誓いますよね、あれの言葉の意味は上の結婚の誓いの引用と同じだと思います。

健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、・・・・・神の愛を信じ続けますか。という問いがそこにはあるのだと思います。


エウティコはいつまでも結婚しない、いつまでも皆の前で愛を誓うことを拒んでいる。



いつまでも結婚しないことは恥ずかしい事だ。




相手を辱めているということはあり得る。



Unknown (森の都)
2014-03-25 01:05:38
ご指摘のお説教を読ませて戴きました。

わたしは個人的に司祭の神学生時代(結構人が傷付くのを頓着せずに、神様のためにはっきりものを言うきつ~いお方でしたっ☆)を振り返り「へぇ、成長したなぁ」と正直くすくす笑ってしまいました。

今の司祭は、「鬱」の方のために人間として「自分が」言ってしまいたい事を言わないで、その方に必要なことを聖書から選んで話しをする方になったようです。

「人々が神の愛をこそ」信じられるように、頭を尽くし、心を尽くし、魂を尽くし、くたくたになるまで力を尽くしていると思いますよ。

ただそれは鬱ではないフツーの生活を送る信者さんには同じように受け取られないのでしょう。確かに彼らにはもう少し違う話もしたほうがいいこと「も」ありますけど。

そうであっても、それも、神の愛を・・・・・充分過ぎる位に信じられない者にそのような話をしても、またもや、律法主義に陥ったようになるのではないでしょうか。

人間の怖いところはそこです。

みんな厳しいお話に落ち着きたいだけでしょう。だいたいが律法主義に落ち着きたいだけです。

と、厳しい話をする。



ローマン・カトリックにおける罪の「定義」は・・・・・「この神の愛を、充分過ぎる位に感じられる者だけが、理解できる事柄」なのだと思います。

しかし聖霊に犯した罪は許されないといわれています、しかしこれは理屈としてぺらぺらとしゃべっていい事ではないですよね。・・・・・本当の事は決して語れないと思います。鬱の方は広い世の中の政治経済のことまで考えずに、むしろ純真さからこれも自分の事だと思ってしまうので決して言えません。

厳しい事を言うようですが、厳しい事を聞いたからといって、理解できるような事柄ではないと思います。心で感じて涙を流して初めて許しに近づくのだと思います。



司祭はこの点に関してご自分の司牧する教会の信者や、「現代人」という事を誤解していないと思います。

また、司祭がイエスの厳しい言葉を重く受け留めようとしません、という批判にはいささか疑問を感じます。司祭はご自分の事に関してはそのように充分にしていると思います。

わたしがこの高名な愛情深い司祭に危惧する点に関しては、あなた様のブログでは伏せておきます。エウティコさんとはどうやら違う考えのようです。エウティコさんの心を惑わしているのは律法主義です。

大変失礼たしました、お詫び申し上げます。言葉において思いの足りないことがあり、お心を損なうような表現がございましたら、どうぞ平に平にお許しくださいませ。

あなた様にとってもわたしにとっても四旬節が祈りの時でありますように。では。
彷徨える罪僕 (エウティコ)
2014-03-25 19:39:47
森の都さん、こんばんは。

あなたは私の受洗に至らない懊悩を、「エウティコはいつまでも結婚(受洗)しない、いつまでも皆の前で愛を誓うことを拒んでいる。いつまでも結婚しないことは恥ずかしい事だ」と表現されました。さらに、「相手(神でしょうか?)を辱めているということはあり得る」とも。その通りだと思います。返す言葉もありませんが、「後にいる者が先になる」(マタイ20・16)ということもなくはないでしょう。

ただ、神を求めながら、教会の「現実」の姿に困惑する者もいます。「ここに神はおられるのか。とても信じられない」と。日本のカトリック教会の「現実」を申し上げることは控えますが、既に私の心は日本のカトリック教会から離れ、もう半年間もミサに与っておりません。現在、東方正教会に惹かれているのは、「荘厳な儀式や聖歌に憧れて、隣の芝生が青く見えているだけ」ではないことを、ハッキリ申し上げておきます。

「律法主義」とはどのようなものでしょうか。イエスの「厳しい言葉」は「律法主義」でしょうか。それらも「真福八端」と同じく、「神のことば」ではないでしょうか。私は「厳しい言葉」を求めて、「律法主義に落ち着きたい」と望んでいるのではありません。ただ、イエスの全てを知りたいだけなのです。従って、私が「律法主義に惑わされている」というご指摘には、強く抗議いたします。

今回、晴佐久神父は「あなたはもうすでに、救われている」と現在完了形で断言しました。それが日本のカトリック教会だけではなく、「キリスト教の宣言」だというのです。この「福音“万人救済”宣言」が日本のカトリック教会だけで留まっていたら、罪僕のような私が日本のカトリック教会の「カリスマ神父さま」を批判することはなかったでしょう。
Unknown (Unknown)
2014-03-25 19:58:34
わたくしの拙い表現を清らかな心で愛の内にお読みくださってうれしいです。


エウティコさんは、きっとカトリックに向いておられると思います☆


エウティコをカトリック教会が得る事が出来るように祈ってます☆


洗礼を受けると色々な秘跡を授かる事が出来ます☆


それに預かる事よって信仰が育てられると思います☆


信仰が増すと知らなかったことを知るようになります☆


愛するとやっと本当のカトリックの方の悔い改めが出来るようになります☆


そうするとやっと本当の方で信じて福音を信じる事が出来るようになると思います☆


でもカトリックは、神秘的な事、超自然的な事に心を開いて初めて信者として自己発見に至る、というのがあるので、そこの処が、ちょっと心配といえば心配です。それを避けては身も心もカトリックになることはないと思います。

「イエスの全てを知りたい」という熱意を全て・・・・・全て、「イエスの全てを愛したい」という熱意に置き換えてみるというのはいかがでしょう☆

今日はその事を考え続けたらエウティコのおかげでごミサにあずかりたいという気持ちにまでなりました。今日は3月25日なので特に。

イエス様を知ることは、イエス様を愛さないとできないと思います。

日本のカトリックは・・・・・とおっしゃられますが、だからこそ、あなたのような思いの青年が是非とも必要なのだとは思いますよ。違いますか?エウティコさんようにものが見えている人には是非カトリックの方で信者になっていただきたいと思っています。

カトリックは勉強できる事が沢山あって、本当にとても楽しいですよ☆☆☆、信じて愛している者にとっては学ぶ事が、あり過ぎるのです。

それと。

カトリック教会は・・・・・今あるカトリック教会の、とあることに気が付いて、愕然とするまで、迷い続けるという可能性はあります。まさに呆けたように愕然とすることです。

律法主義に惑わされているんじゃないぞというはっきりとしたお気持ちがあるならば、本当に良かった。きっと違うってわたしも思いました。大変失礼いたしました、あなたのポジティブな気持ちに助けられました。大変なご無礼をお許しください。

わたしが洗礼に関して言った事は、真面目です。

どうかときどき思い出してください。


‐‐‐わたし達はエウティコを得るために何ができるのだろう。




わたくしメは、もうこれでコメントいたしませんが、ときどき思い出して祈っています。

Fiat(フィアット) (エウティコ)
2014-03-27 13:12:30
森の都さん、こんにちは。

3月25日は神のお告げ(受胎告知)の祭日ミサがあったのですね。私も聖母マリアの「Fiat (仰せの如くなれかし)」に倣って、神の御旨に従いたいと思います。

2012年の復活節第2主日(4/15)までは、私も日本のカトリック教会で入門講座を受講しようと真剣に考えていたのです。しかし、その後は以前から抱いていた日本のカトリック教会の「現実」を痛感することになりました。晴佐久神父の「福音“万人救済”宣言」を軽率に受け入れてしまう「現象」もその一つです。それに加えて、私は敬虔なカトリック信徒だった祖父の思い出を通して、日本のカトリック教会に過度な「理想」を求め過ぎていたのです。古き良き時代の信仰を。

以前、今枝由郎氏の『ブータン仏教から見た日本仏教』(NHK出版・2005年)という本を興味深く読みました。著者は日本仏教の「異質性」について、次のように説明しています。「現在の日本の仏教は、まさに日本化したもので、多くの面で本来の仏教とは本質的に違ったものになっている」・・・。この文章の「仏教」という言葉を「カトリック」に置き換えると、私の日本のカトリック教会に対する将来の(小さくない)危惧となります。しかし、それについて多くを語ることは控えます。

その意味では、私も『バチカンから見た日本のカトリック教会』という視点で、「カトリックの信仰とは何か」を再考する必要があるのかもしれませんね。「気が向いたら」ですが。
お祈り、ありがとうございます。 (エウティコ)
2014-03-27 13:33:35
メロさん、こんにちは。

今回、晴佐久神父が「福音“万人救済”宣言」を日本のカトリック教会のみならず、それが教派を超えて「キリスト教の宣言だ」と(なおかつ、「あなたはもうすでに、救われている」と現在完了形で)言い切ってしまったのは、あまりにも「勇み足」というものでしょうね。

この点、イエズス会のペトロ・ネメシェギ神父は次のように指摘されています。「すべての人間が確かに救われるということを、“主張”することはできませんが、それを、“希望”することは許されるでしょう」(雑誌『聖母の騎士』2010年9月号より)。また、正教会のカリストス・ウェア府主教も「全てが救われるのか」という質問に「救いという神秘につき、多くを語り過ぎないように」と戒めつつ、「全ての者のために祈らなければならない」という聖シルワンの言葉を紹介されました(『私たちはどのように救われるのか』より)。
つまり、ネメシェギ神父もウェア府主教も「全ての人の救い」のために「祈り」をすすめているのです。ところが、晴佐久神父の「福音“万人救済”宣言」は「悔い改め」のみならず、「祈り」そのものが欠落している。そんな霊的に貧しい状態なのに、「私はもうすでに、救われている」と錯覚してしまう。「福音“万人救済”宣言」はこのような危険も孕んでいると思います。

たしかに、最近の晴佐久神父は「福音“万人救済”宣言」を糊塗するために、教皇フランシスコの言葉さえも「都合良く」セレクトしていますね。教皇様がそんな「生ぬるい信仰」に共感されていないことは、今年の四旬節(レント)に寄せられた「悔い改めを伴わない自己放棄は、真の自己放棄ではありません」というメッセージなどからも明らかです。晴佐久神父は「福音“万人救済”宣言」に結びつくようなキーワードを聖書や教皇様の発言から血眼になって探し求めているとしか思えません。
はじめまして (ビション)
2014-03-27 17:11:11
エウティコさん、はじめまして。
いつもブログを拝見させていただいておりましたが、コメントを書き込むのは初めてです。各地の教会を巡っていらっしゃる記録をいつも楽しく拝読しております。

さて、晴佐久神父の件ですが、いつも私がモヤモヤしていた部分を明確に文章化して下さった、との感想を抱きました。正直、嬉しかったですw

私はカトリックなのですが、日本のカトリック内では彼を持ち上げる傾向が強く、なかなか信徒同士でもこの種の話題はし難く…唯一、カトリック新聞内で批判の投書があった位でしょうか。でもそれも、彼自信の説教の中で否定されていましたね(大人気ないなぁ)。
まあ、でもこれは理解できます。あれだけの実績(受洗者数)がある以上、お上も何も言えないでしょうから。

確かに、心を病んでいる人に対して、彼のような福音を語る人は必要でしょう。それはよくわかります。しかし、それ一辺倒だとね、と思うのです。

聖書、カテキズム、教皇の言葉等々。実際のカトリックは、非常に厳しいものです。とても軽々しく「みんな救われてる」なんて言えるものじゃない。
そこで気になるのは、彼の下で受洗した方は、彼の司牧を離れた場合、どのように信仰を保つのだろう?という点です。恐らく非常に困難なのではないかな、と想像します。

ともあれ、この件に関して、はっきりと声を上げて下さったエウティコさんには感謝しております。カトリック内では、腫れ物を扱うような状態でしたので。非常に客観的で、正しいご指摘です。

また、「日本のカトリック、そして日本化されたキリスト教」に対する危惧とご意見にも全面的に同意です。私はすでに信者になって長いので、カトリックを離れるつもりはありませんが、求道者であるエウティコさんが離れてしまわれたのは大いに理解できます。

求道者である事にコメントされる方が多いようですが、お気になさらない方が良いと思います。私自身、洗礼に至るまで長くかかりました。そしてその時間は必要なものだったと感じております。信仰は、あくまで神と自分自身の関係性の中での問題です。他者には決して理解し得ないものです。

毎週教会に通い続けられるエウティコさんの真摯な姿勢には、いつも大いに励まされ、学ばされます。これからもブログの更新を楽しみにしています。
やがて、過ぎて行きます。 (うたびと3164)
2014-03-27 18:59:33
エウティコさん、お久しぶりです。

晴佐久ブームも…やがて過ぎて行きます。

私は幼児洗礼ではなく、二十歳過ぎに受洗して(いろいろ躓きもありましたが)…かれこれ三十年以上になります。そう書いて、自分でもびっくりしてしまいます。(笑)

だからという訳ではありませんが…晴佐久神父一人のために、カトリックをやめようとは思いません。理屈ではなく、カトリックは、これでなかなか懐深いです。

私自身も、キリスト教の事を知りたいと思ってから、カトリック教会に辿り着くまで、数年かかりました。
逆にカトリックが身近にありながら、辿り着かない、親しい人も居りました。その辺り、とても難しい問題だと思います。

高い、高い、山を見なさい ―ホイヴェルス神父

私も…お節介の気持ちからではなく、お祈りさせて頂きます。

こころ (メロ)
2014-03-28 10:10:09
私自身心を病んでおります。
しかし、今回、晴佐久神父のメッセージに「否」ということができました。

また、たくさんの心病んでいるクリスチャンを知っていますが、晴佐久神父のメッセージでないと救われない人はいません。

逆に、心を病んでいなくても、「悔い改め」や「地獄」に話題が触れるや否や、怒り始めるヒューマニストはたくさん知っております。

「欝」の苦しみに、もうそれは、のたうち回るほどの苦しみの中で、それでも、万人救済のようなメッセージに走らない人を知っています。

「欝」の苦しみを知るがゆえに、イエスがともに傷んでくださるのです。

人々から捨てられ、蔑まれ、人々の罪をご自身のもとに負われた主の苦しみのどれほどのことであるか、その人の罪の恐ろしさがどれほどのものであるか、、、、欝の苦しみを背負いながら、ご自身の独り子をそのような酷い目にあわせなければならなかった父なる神の痛みがどれほどのものであったか、、、。

欝の苦しみを味わいながら、彼は証するのです。御子と、御父の痛みがどれほどのものであったかと。
はじめまして。 (エウティコ)
2014-03-28 20:29:48
ビションさん、はじめまして。

確かに、晴佐久神父が司牧する教会では、年間を通して「受洗キャンペーン」を展開していますね。しかし、私はその結果を「教勢拡大、慶賀の至り」として受け止めることができません。旧約の時代から、信仰が弱まってくると、人々は「都合の良いこと」を求め、果ては偶像崇拝に陥ってしまいました。晴佐久神父の「福音“万人救済”宣言」は、弱体化した信仰の「副産物のようなもの」としか思えないのです。ちょうど、それは「目先の不安」に駆られたイスラエルの民が、アロンに「金の子牛」を造らせたような(創世32・1-4)。

「み~んな復活する。パパさま大好き、『暗いキリスト者』はいけませんよね」。晴佐久神父の四旬節第2主日(3/16)の「説教」は、今年の洗礼志願者数の「実績」、及び『東京新聞』の寄稿に浮かれて、当日の福音朗読箇所(マタイ17・1-9。「主の変容」の場面)については、「いつものように、おざなり」にしてしまいました。ほぼ毎回のように「福音よりも、“私(ワタシ)”を語る」説教(演説?)によって、私も「(信者や求道道が)どのように信仰を保つのだろう?」との疑問を抱きます。摩訶不思議です。

米国聖公会のウィリアムズ主教(立教学院創立者)は、「道を伝えて己(おのれ)を伝えず」という言葉を遺されました。晴佐久神父の「福音“万人救済”宣言」は、「道」を伝えているのでしょうか。
お祈り、ありがとうございます。 (エウティコ)
2014-03-28 20:36:16
うたびと3164さん、こちらこそご無沙汰しております。

2011年8月27日(土)、私はカトリック多摩教会で年間第22主日のミサに与りました。その時の晴佐久神父の「説教」が忘れられません。無人島キャンプの思い出話に熱弁をふるい、福音朗読箇所に触れたのは「僅か数10秒」。さらに、衝撃の告白もありました。「私、無人島キャンプでUFOを見ました。夜、仲間から『はれれ、何か呼んでよ』と頼まれたので、私が手を上げて呼んだんですよね~。その時、私はUFOに『パラレルワールドに連れてって!』と願ったんです」・・・。その間、聖堂内は「ワハハハハァ」の笑い声。いったいミサ聖祭とは、どういう祭儀なのでしょう。

前教皇ベネディクト16世は、叙階された役務者の説教を通して「神のことばが教会の支えといのちになる」と強調されました(『使徒的勧告 愛の秘跡』より)。晴佐久神父の「説教(無人島キャンプの思い出話)」では、神のことばは「添え物」以下の扱いでした。しかし、私が何よりも驚いたのは、あの「ワハハハハァ」という笑い声なのです。穿った見方かもしれませんが、そこに晴佐久神父を「カリスマ」と仰ぎ、「福音“万人救済”宣言」を容認してしまう「現実」のようなものがあると思うのです。

ホイヴェルス神父の素晴らしい言葉をご紹介いただきまして、ありがとうございました。私は日本のカトリック教会の入口で躓いてしまいましたが、もしかするとそれは「高い山」が見えていないのかもしれません。
苦しまなかったら (エウティコ)
2014-03-28 21:00:31
メロさん、こんばんは。

昨晩ご投稿いただいたコメントですが、ごく一部の表現を少しだけ修正する必要があると思い、当方で「編集」して再投稿いたしました(メロさん名義で「こころ」という表題のコメントです)。何卒ご了承ください。

心や体に苦しみを抱えていても、メロさんのように「万人救済のようなメッセージに走らない人」を、私も知っています。クリスチャン詩人の水野源三氏(1937-84年)は、脳性麻痺という重い十字架を負いながらも、プロテスタント教会で洗礼を受け、喜びと希望を持った信仰生活を送られました。水野氏の「苦しまなかったら」(1974年)という作品をご紹介いたします。

もしも私が苦しまなかったら
神様の愛を知らなかった
もしもおおくの兄弟姉妹が苦しまなかったら
神様の愛は伝えられなかった
もしも主なるイエスが苦しまなかったら
神様の愛はあらわれなかった

『こんな美しい朝に 瞬きの詩人・水野源三の世界』(いのちのことば社・1990年)より
ありがとうございます (メロ)
2014-03-29 00:14:14
エウティコさん。美しく編集して掲載してくださり、ありがとうございました。
それぞれの入り口 (うたびと3164)
2014-03-29 00:23:28
エゥティコさん、こんにちは。

「高い、高い、山を見なさい」というホイヴェルス神父様の御言葉は、私の、昔から親しい神父さんが、神学生時代、例のスチュワーデス(黒い福音)事件に躓き、司祭になる事をあきらめようと、真剣に悩み、ホイヴェルス師に相談した折に頂いた御言葉だそうです。

人は、いろいろな道を通ってローマへと辿り着くのだと思います。(むろん、迷子のままの人もいます。)また、教会活動に熱心のあまり、短距離ランナーだった友人もいます。つまり…もう教会に通っていません。

私は子どもの時から絵が好きでした。中学生になると、文庫本を読むのが好きになり、外国文学に触れると、どうしても…基督教を知らないと理解できない事柄にぶつかりました。
私の道の入り口は、美術や小説だったのだと思います。しかし…むろん、そんな高級(笑)で、単純なきっかけばかりではなく、育った来た過程にもいろいろありました。

水野源三さんや、星野富弘さんの詩、いいですね。

私は高橋たか子さんの霊的著作『土地の力』、『霊的な出発』、『亡命者』、『始まりへ』等が割と好きで、時々読み返しています。アヴィラの聖テレサや、フランス・カトリックの影響を強く受け、頑固で、周囲の顰蹙を買ったりした事もあった高橋さんですが、なかなか筋の通った作家兼、修道者です。残念ながら最近、天国へ旅発たれましたが…

ビションさんという方も、洗礼に至るまで、長い逡巡の時間があったようで…私と重なる部分があり、なんとなく嬉しく、ほっこりしました。





詩編121 (エウティコ)
2014-03-29 21:06:34
うたびと3164さん、こんばんは。

目を上げて、わたしは山々を仰ぐ
わたしの助けはどこから来るのか
わたしの助けは来る
天地を造られた主のもとから

これは詩編121(1-2)、いわゆる「都に上る歌」の一つですが、ホイヴェルス神父の言葉をいただいて、ふと思い出しました。今、私は山裾に漂う晴佐久神父の「福音“万人救済”宣言」という濃霧に戸惑い、その先の光が見えていないのでしょう。それ以外にも、日本のカトリック教会の入口で躓いてしまった要因は少なくないのですが、改めて高い山々を仰ぐ必要があるのかもしれません。

文学・音楽・美術を通して、神様が私たちを招いておられることはありますね。また、キリスト教に触れると、それらの理解が確かに深まることもあります。以前、私は宗教音楽を何となく敬遠していたのですが、カトリックのミサに与るようになってから、モーツァルトのミサ曲などの新たな美しさに気づくようになりました。

恥ずかしながら、私は高橋たか子さんの著作を読んだことがないのです。機会があれば、図書館などで探してみようと思います。ありがとうございました。
経験から (カナリア)
2014-04-07 00:14:35
カトリック信者には晴佐久神父を批判的に見ている人がかなりいると思います。そのような信者たちは晴佐久神父の説教を聞きに行っているのではなく、単にミサに出ているだけです。司祭を悪く言うことを好まない彼ら彼女らは、おおっぴらに言わないのです。説教中の笑いも、楽しい笑いではなく、失笑に近いものではないでしょうか。わたしはしばらく晴佐久神父の司式するミサに出ていたことがあります。批判的なのは信者だけでなく、シスター方や、主任司祭の留守の折に来てくださる他の神父さま方のなかにもいらっしゃいます。少し気をつけて教会内を見たり、言葉の端にでるものに耳を澄ませていると、それがわかります。一方で晴佐久神父の取り巻きのようになっている人たちもいました。
典礼行為の内的統一性 (エウティコ)
2014-04-08 10:52:10
カナリアさん、はじめまして。

確かに、晴佐久神父の説教に於ける会衆の「ワハハハハァ」には、お追従(ついしょう)笑いと共に、失笑が含まれていたのかもしれません。それにしても、「単にミサに出ているだけ」という現象は、「ことばの典礼」と「感謝の典礼」が互いに緊密に結ばれていないということになりますね。「教会が典礼の中で神のことばを読み、告げ知らせるとき、神のことばは、その本来の目的である聖体へ導くのだということ」(前教皇ベネディクト16世『使徒的勧告 愛の秘跡』より)を、晴佐久神父の「説教」は軽んじています。

晴佐久神父は「フクインを語りまくる」と豪語していますが、奇妙なことに「福音」は宣べ伝えていません。彼の「説教」の中心は「個人的な感動体験(無人島キャンプでUFOを見たんですよ~!)」や「一週間の活動報告(今週も私は多くの人を救ったんですよね~!)」であり、毎回のように福音朗読箇所については「ほとんど、おざなり(もしくは、スルー)」。そして、ひたすら「あなたはもうすでに、救われている!」と連呼するだけ。説教を注意深く準備した形跡はうかがえず、「神のことばがより完全に理解され、信者の生活の中で実りをもたらすようになる」(前掲書)ものとなっておりません。

それでも、「晴佐久神父さまのお説教は素晴らしい。最高!」という人々が少なくありません。私には何が素晴らしいのか全くわかりません。カトリックの衣をまとった「はれれ教」の教祖に心酔しているだけとしか思えません。
エウティコさん ありがとう (カナリア)
2014-04-08 14:12:41
わたしはプロテスタント教会で洗礼を受けた者です。まだカトリックに転会していません。晴佐久神父については、エウティコさんのおっしゃることにほとんど同意できます。

カトリックについて多少勉強してみると、異端的な聖職者の存在はそれほど珍しいものではないのだと分かりました。晴佐久神父はごく凡庸な異端ではないでしょうか?

わたしが心配するのは、彼のような人間は、今の時代の動きのなかで、権力側や右派に利用されはしないかということです。彼はその点について無自覚のように見えました。
「文句言う人」 (エウティコ)
2014-04-10 09:49:15
カナリアさん、こんにちは。

「私はお祭りを素直に喜びたい」。2020年の東京五輪決定にはしゃぐ晴佐久神父は、つくづく「無自覚」の極みだと思いました。今でも五輪開催の意義に戸惑う声は少なくないのです。4月3日付『東京新聞』朝刊に次のような70代女性の投書がありました。「私の周囲の東京人は、復興が遅々として進まぬことにいらいらし、いまだに被災者が仮設住宅暮らしを余儀なくされることに心を痛めており、五輪開催ではしゃいでいる人などいません。原発事故の処理はコントロール下にあるなどいいかげんなことを言い、強引に招致した人たちの気がしれません」。

このような懸念に対して、晴佐久神父は「文句言う人」と断罪しました(下記URL参照)。結局、彼の「福音“万人救済”宣言」は、自分と価値観を異にする者には適用されないのです。「そんなのは律法主義だ!西欧のキリスト教だ!文句言う人だ!」と感情的に喚き散らしながら。つくづく「無自覚」な「日本のカトリック教会のカリスマ神父さま」です。

(2013年9月27日付記事「晴佐久昌英神父に抗う」:http://blog.goo.ne.jp/eutychus/e/8cb2cc73648c887612b666c4de71619a
違う (りんご)
2014-04-26 17:46:09
晴佐久師批判よりも、ヒトラーやスターリンが救われるのかという設問に驚きました。
非道な独裁者、殺人者、犯罪者を神は救いたい。犯罪者ではないLGBTは言うまでもなく。
神様が存在を与えた全ての人間を神が永遠の生命に招いている。それがカトリックの信仰。
東京新聞の「こころ」欄でもカトリック信仰に矛盾するようなことは言ってないし、かねてから煉獄がないとか罪の償いをしなくていいなどと主張してません。
晴佐久より曽野綾子、麻生某、山谷某らの「カトリック信仰」の方がよほど危ない。
「違う」? (エウティコ)
2014-04-28 17:39:14
りんごさん、はじめまして。

いいえ、晴佐久神父の「福音“万人救済”宣言」は聖書やカテキズムの教えから逸れています。お手数ですが、いま一度拙稿を「注」の部分(特に聖書とカテキズムの参照箇所)や既出コメントと共に読み直してください。それに、私は「晴佐久神父が、かねてから煉獄がないとか罪の償いをしなくていいなどと主張している」とは申し上げていません。彼の「福音“万人救済”宣言」はそれらを軽んじて、日々の祈りを「生ぬるい信仰」に貶めていること、そして「あなたはもうすでに、救われている」と現在完了形で断言していることが問題なのです。しかも、晴佐久神父は「すべての人」の対象さえも曖昧にしています。

信者である曽野綾子氏らの「信仰心」よりも、晴佐久神父の「福音“万人救済”宣言」を憂慮すべきでしょう。曽野氏らの「危険性」を強調されても、私は晴佐久神父の「宣言」を受け入れることはできません(もっとも、晴佐久神父の「宣言」によれば、社会的弱者への暴言やヤスクニ参拝を繰り返す曽野氏らさえも「すでに、救われている」)。今回、晴佐久神父の「宣言」が日本のカトリック教会のみならず、それを「キリスト教の宣言だ」と豪語したことに、私は強烈な不快感を覚えています。

晴佐久神父の「宣言」が「カトリックの信仰」というのであれば、私が日本のカトリック教会を必要とする理由は全くありません。「カトリックの信仰」の源泉は、あくまでも聖書と聖伝です。晴佐久神父の空想がこしらえた「福音“万人救済”宣言」ではありません。むしろ、それは「贖宥状」のような危険性(「何となく救われた」という錯覚)を孕んでいるだけです。マルティン・ルターが『95箇条の提題』で示したように、まず「キリストを信じる者の全生涯は悔い改め」であり、これは「カトリックの信仰」に於いても矛盾していないでしょう。
Unknown (メロ)
2014-04-28 18:36:17
横レス失礼します。りんごさんに質問です。

>かねてから煉獄がないとか罪の償いをしなくていいなどと主張してません。

晴佐久神父がどのように罪の償いをするように教えているか?を教えてください。私も多数晴佐久神父の著作本をもっていますが、罪の償いをするように教えている箇所がみあたらないのです。

晴佐久神父が「すべての人が救われる」と、説いているのは、煉獄で罪の償いをさせられるから救われる、と説いている、ということなのでしょうか?
「通常の善徳」 (エウティコ)
2014-04-30 13:22:23
メロさん、こんにちは。

イエスが「悔い改めよ」(マタイ4・17)と言われても、晴佐久神父は「御言葉を聞くだけで行わない」(ヤコブ1・23)のです。むしろ、毎回のように「私の救済実績」と「私の感動体験」で盛り上がる晴佐久神父の「一人称(私)だらけの説教」は、御言葉そのものを軽んじていることがうかがえます。かくも自意識過剰な晴佐久神父が、信者に悔い改めや罪の償いを強くすすめることは難しいでしょうね。昨年の年間第16主日(7/21)、そんな晴佐久神父を象徴する出来事がありました。同日付『カトリック新聞』に彼の「福音“万人救済”宣言」を危惧する外国人司祭の投書が掲載されたのです。

それまで「カリスマ神父」ともてはやされ、鼻持ちならぬ「天狗」になっていた晴佐久神父は、初めて公然と批判された事態に動揺し、説教の時間を潰して(いつものように福音朗読箇所も「おざなり」にして)、自己弁護と自己宣伝に終始しました。要するに、彼は先輩司祭の忠告を謙虚に受け止めることが出来ず、さらにイエスが示された「地獄」の存在を笑い飛ばしたのです。自説を死守するためなら、神の御言葉を軽んじることも厭わず、人の批判的な意見も聞かない。ここに晴佐久神父の「品性」が表れています。

これは私にとって驚くべき「事件」でした。しかし、相変わらず日本のカトリック教会は「はれれ人気」にあやかろうとしています。晴佐久神父をメディアに露出させ、さらに講演会、トークショー、映画の試写会、豪勢な海外巡礼ツアーなどの華やかなイベントに登場させて、教勢の拡大を図ろうというのです。東京教区の大司教や補佐司教も「福音“万人救済”宣言」の蔓延に洞ヶ峠を決め込んでいるのでしょう。もはや日本のカトリック教会は「何をか言わんや」の状況になりつつあります。

「キリスト者としての通常の善徳が身についていなければ、聖人たちの善徳を上辺だけ実行しても無益であることを考えよう。それは、豪華な宝石で下着を飾るようなものである」(聖ホセマリア・エスクリバー)。
ほかにもいる? (カナリア)
2014-04-30 14:54:15
こんにちは、エウティコさん。
こんにちは、りんごさん。

曾野・麻生・山谷という方々は平信徒です。神父には平信徒以上の責任や義務があると思います。石破氏はプロテスタントだと聞いていますが、彼がプロテスタントの公式見解を述べていると考える人びとがいるでしょうか?よほどキリスト教を知らない人のなかにはいるかもしれませんが。

ところで、わたしにはカトリックの知人がいます。わたしが晴佐久神父の説教を嫌っていることを知ったその人は、こういう趣旨のことを言っていました。「晴佐久神父は一人ではない。ほかにもあんなのが何人かいて、いっしょに相談しながらやっているんじゃないか」。

以前読んだ本(『知の教科書 キリスト教』竹下節子著 講談社選書メチエ)に「カトリックのような形式的な典礼が主流の世界でも、同じ傾向のカリスマ(賜物)派というのが生まれていて、カルト宗教すれすれだと批判する人もいる」という記述がありました。

晴佐久神父がこのカリスマ派というわけではないと思いますが、カトリックにもカルトのようなものが存在しているのかと驚きました。

わたしはカトリックのことはまだよく分からないことが多いのです。気をつけて、しっかりと自分で考え、勉強していかなければと思っています。
Unknown (メロ)
2014-04-30 23:16:35
りんごさんにした質問でしたが、りんごさんからはなかなかご返答がないので、エウティコさんがかわりに返答をくださりありがとうございました。

おそらく、りんごさんは、コメントを書きっぱなしで、その後の状況は見てないのかもしれませんね。

りんごさんの書き込みを読んで私が感じたことは、

ビションさんのコメントの中に

>そこで気になるのは、彼の下で受洗した方は、彼の司牧を離れた場合、どのように信仰を保つのだろう?という点です。恐らく非常に困難なのではないかな、と想像します。

とあるのを思い出しました。

もしかしたら、「りんごさん」は、彼の下で受洗した方、あるいは彼の支持者で、なんとか彼を擁護しようと試みたのかもしれない、と思ったのです。

私も、こちらのブログでのやりとりをしているさなかに、晴佐久神父のメッセージは真理にたってはいない、と、確信を得ることができました。

しかし、晴佐久神父の支持者たちの声を聞くたびに、恐れが再来し、心が揺れ動きました。

それによって、「間違っている」という結論をストレートに伝えるよりも、丁寧に、疑問点を提示し、聖書からともに取り組んでゆこう、という姿勢のほうが効果的かな?と思いました。

りんごさんの書き込みでは、
>「かねてから煉獄がないとか罪の償いをしなくていいなどと主張してません。」

と、なんとか晴佐久神父を擁護しようという苦しさが感じられました。

そこから、それでは晴佐久神父はどのように煉獄や、罪の償いについて教えているか?という点について、ともに学んでゆけたら、と、思ったのです。

結論はエウティコさんの書かれたように、それらについて、一切教えてはいない、ということかもしれませんね。

そうであるならば、そのことをりんごさんに受け止めてもらいたい。その上で、本当にイエス様が語られた信仰を一緒に求めてゆけたら、と、思ったのです。
初めまして (maco)
2014-05-01 01:02:56
エウティコさん、初めまして。
私は、先日列聖された教皇さま、ヨハネ・パウロ二世が来日された年の暮れに、カトリックの洗礼を受けた者です。

他の方もおっしゃっているように、私もエウティコさんのお書きになった文章を読んで、『ものすごく腑に落ちた』といった感じを受けております。このような記事を作ってくださったことに対して、感謝申し上げたいと思うほどです。
と言いますのは、やはりカトリックの中では、晴佐久神父のことを表立って批判するのはちょっと・・・という雰囲気がかなりあるので、「何かおかしい」と思っていても、それを口に出すのははばかれる空気があり・・・しかし健全な批判というものは、とても必要だと思います。それがカトリックの中からもっともっと出てくればよいのですが(自分も含めて)やはりどうしても及び腰になる傾向がありまして・・・エウティコさんにそれをしていただいて、ありがたかったです。
エウティコさんのご指摘なさってることは、本当にその通りだと、全面的に賛成致します。

まだこれほどまで有名になる前から、私は人からもらった書物によって晴佐久神父のことは知っていたのですが、その時に受けた何とも言えない違和感を、今でも拭い去ることができません。それは「病気になったら」という詩を読んだ時のことでした。
あの詩を読んで・・・「何て薄っぺらいんだろう!」と、まず思いました。「作者は実際に、“本当の苦しみ”というものを垣間見たことが あるのか!?」と、疑わしくなったほどです。
そして「こんなことを書いてるけど、この人はこういう状況になったら神に頼るのではなく、目に見える人間を全面的に頼るんだろうな」と思ったものです。・・・神に全信頼をかける人は、あんな言葉など紡ぎ出したりはしません。
そして最後に感じたのは、どうしようもないうすら寒さというか、淋しさでした。・・・このような詩を読んで、心慰められる人、癒される人がいるのだろうか? 私だったら、ますますひとりぼっちにさせられたような気分になって、落ち込むだろうと思ったのです。
しかし(ネット上だけの感触ですが)世間的には、この詩はかなり広範囲に好意的に受け止められているようで、ある意味「やっぱりな」という感じです。(「千の風になって」が話題になった時にも、同じような違和感を受けたことを思い出します)
後から、あの詩は神父が入院した時の体験を基にして作られた、というのを知りましたが、そうであればますます「ちょっとな・・・」と思う気持が強まります。

私は実際、晴佐久神父のミサにあずかったこともありませんし、集いのようなものに参加したこともありません。(一度だけ、間近に接したことがあったのですが、神父は何だか機嫌が悪そうな感じで、あまり良い印象を持ちませんでした)でも私がこの詩を通して受けた「ちょっと・・・」という違和感(薄っぺらさや、心にしみ込むものが何もない、など)は、今の神父の言動(説教や、諸々の活動においての発言など)に、広く反映されている気がします。「ただの一個人の感覚を押し付けて、神父の印象を決めつけるな」と言われればそれまでですが・・・

私の知っている東京教区の神父様は、派手なところは何もありませんが、司祭であることを心から喜び、神さまと回りの方々との触れ合いを大切にしながら日々司祭職に打ち込んでおられるご様子がうかがえます。ミサの説教もこれまた派手さはないけれど、そこには光るものがいつも必ずあり、「ああ、また聴きたいなぁ」と思わせるものがあるのです。(今は異動されて、毎週聴くことができなくなってしまいました・・・残念です)
エウティコさんにご紹介したいくらいです!!
エウティコさん、メロさん、カナリアさん (りんご)
2014-05-01 23:13:57
コメントをいただいていたのに失礼しました。ブログ本文と注を読み直しました。
晴佐久師が「罪の償いをしなくてもよい」と説いたことはなないと書きましたが、罪の償いについて教えているとは書いていません。
気分と欲望の赴くままにやりたい放題をして、悔い改めも償いも不要、洗礼を受けさえすれば、或は洗礼を受けなくても神様に泣きつきさえすれば天国に入れてもらえます、などと晴佐久師は説いていませんよね?
己の愚かさを悔いた放蕩息子を喜んで迎え入れた父が神だ、それが信仰の原点だと言ってると私は理解しています。神は、人間を甘やかすだけで叱ったり罰したりしない愚かな親ではないという前提は、キリスト者なら、まして神父なら当然知っています。
はれれから授洗したわけでもないしファンでもありませんが、反感を持つ方々がこんなにいらっしゃるとは驚きです。
授洗してくれた高齢の修道司祭が、神様はヒトラーも赦して下さる方だから、地獄には誰もいないかもしれませんよ、と言われたのが心に残っています。もちろん悔い改めと償いの後に。
私が知る限り、放蕩息子を喜んで迎えるのも神、裁きを行うのも神というところは外してないと思うのですが。
はれれ (うたびと3164)
2014-05-02 14:51:42
「はれれ」って言うんですか?晴佐久神父って。

私の通っている東京教区の教会では、「はれれ」の事が話題になった事は、ほとんどありません。いちど、一部数人の年輩のご婦人方が、「はれれ」の噂をしているのを偶々耳にした事はありますが…
個人的には、四谷のサンパウロで「はれれ」の本を立ち読みした時も、正直言って…買う気にならなかった。簡単にいうなら、何かの入門書の、初心者向けのしらじらさがそれらにあって(そういった事を突き抜けて生きて来た自分にとっては)、読んでもなんの参考にもならないと思い、2~3ページ読んで書棚に戻しました。

いつの時代にも売僧(まいす)めいた聖職者はいますが…
そろそろカトリックを、そして東京教区を「はれれ」から眺めるのはやめませんか?
コメントありがとうございます。 (エウティコ)
2014-05-03 13:04:58
カナリアさん、こんにちは。

カトリック多摩教会の公式ホームページにアクセスすると、そこにはイエス・キリストの御名よりも、晴佐久神父の名ばかりが目につきますね。晴佐久神父の日めくりポエムやら、晴佐久神父の関連商品やら、晴佐久神父の活動実績やら、晴佐久神父への賛辞(読者からのお便り)やら。とにかく、晴佐久、晴佐久、晴佐久の洪水です。「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」(使徒4・12)。それでも、晴佐久神父は自身の「カリスマ性」を強くアピールしたいのでしょうね。


macoさん、はじめまして。

2010年、多摩地域のカトリック教会を巡り始めた頃、私も「司祭であることを心から喜び、神さまと回りの方々との触れ合いを大切にしながら日々司祭職に打ち込んでおられる」神父様に出会いました。当時、カトリック八王子教会主任司祭だった稲川圭三神父です。お説教は毎回のように、福音朗読箇所から「神さまが共におられる神秘」を丁寧に解き明かされていました。聖イグナチオ教会のハビエル・ガラルダ神父と共に、私が最も強い影響を受けたカトリック司祭です。

もし私が「福音“万人救済”宣言」に安住していたとしたら、本当の苦しみが訪れた時、真っ先に十字架のもとから逃げ出してしまうかもしれません。最近、私は聖ホセマリア・エスクリバーの「箴言集」を読んでいるのですが、次の言葉には強く勇気づけられました。「臆病に負けて苦しみから逃げる人よ、喜んで苦しみを抱く人々を眺めなさい。そして彼らを黙想しなさい。苦しみをキリストの精神で忍ぶ人が少なからずいる。その人の模範に倣おうではないか」(聖ホセマリア・エスクリバー著『拓(ひらく)』より)。


メロさん、こんにちは。

メロさんはプロテスタントですから、『ウェストミンスター小教理問答』をお読みになったことがあるかもしれませんね。晴佐久神父の「福音“万人救済”宣言」に苛立つ私に、次の問答は「主に立ち帰れ」と促しているようです。

(問90)御言葉が救いに有効となるには、御言葉をどのように読み、また聞かなければなりませんか。
(答)御言葉が救いに有効となるには、私たちは、勤勉、準備、祈祷をもってこれに傾聴し、信仰と愛をもって受けいれ、私たちの心のうちに蓄え、私たちの生活の中で実践しなければなりません。
『ウェストミンスター信仰基準』(新教出版社・1994年)より。


りんごさん、こんにちは。

以前、遠藤周作氏の本(たしか『私にとって神とは』だったと思います)を読んだ時に、遠藤氏が親友の井上洋治神父に「ヒトラーも救われるのだろうか?」と問いただす場面がありました。これに対して、井上神父は「ヒトラーが心から悔い改めたら、神は彼をお赦しくださるだろう」とお答えになりました。どちらかと言えば、私は遠藤氏の「母なる神」や井上神父の「南無アッバ」に違和感を覚えていますが、この問答だけは強く印象に残っています。

「気分と欲望の赴くままにやりたい放題をして、悔い改めも償いも不要、洗礼を受けさえすれば、或は洗礼を受けなくても神様に泣きつきさえすれば天国に入れてもらえます、などと・・・」。私はそんなことは申し上げておりません。繰り返しますが、彼の「福音“万人救済”宣言」は悔い改めや罪の償い、何よりも聖書の御言葉を軽んじて、日々の祈りを「生ぬるい信仰」に貶めていること、そして「あなたはもうすでに、救われている」と現在完了形で断言していることが不可解なのです。しかも、晴佐久神父は「すべての人」の対象さえも曖昧にしています。

りんごさんは「キリスト者なら、まして神父なら当然知っています」と仰いますが、それは『東京新聞』の読者や私のような未信者にも当てはまるでしょうか。むしろ、もう一度『東京新聞』の寄稿、及び今年の四旬節(それはイエスの受難と死を黙想し、悔い改めと罪の償いに励む期間です)に於ける晴佐久神父の「説教」を読み返してください。彼の「福音“万人救済”宣言」は明らかに「何か」が緩んでいます。私はその「極端な」アンバランスに戸惑ってはいますが、それは「反感」ではありません。


うたびと3164さん、こんにちは。

日本のカトリック教会に於ける晴佐久神父の影響は決して小さくないのです。また晴佐久神父の「しらじらさ」に共鳴する人々も少なくありません。たとえ現在の「はれれブーム」が過ぎ去っても、さらに劣化した「はれれ2号」や「はれれ3号」が現れるでしょう。あくまでも個人的な憶測に過ぎませんが、それが日本のカトリック教会から受けた私の悲観的な印象です。
劣化とは? (うたびと3164)
2014-05-03 18:36:37
エウティコさん。
私もヘンな神父3人ほど知っています。それと間逆の神父の方々も。そのような間逆の司祭の方々が居られる限り、私はまだ、日本のカトリック教会に希望が持てると(護教的にではなく)思っています。
オブザーバーも、時に必要ですけど…
ここって、聖公会教会巡礼や、ハリストス正教会巡礼その他の教会巡礼で、コメントされる方々、いますか?

エウティコさん。
「悲観的な印象」を持たれているカトリック者らに関わり続けても、仕方ないのでは?それよりもっと、ご自分の信じられる道を歩まれた方がいいと思います…が。

ありがとうございました。 (エウティコ)
2014-05-03 21:26:28
うたびと3164さん、こんばんは。

そうですね、ご指摘の通りだと思います。関わり続けても仕方ないのかもしれません。私は今後も教会を彷徨いながら、自分の「信じられる道」を気長に探すことに致しましょう。どうぞお祈りください。

晴佐久昌英神父と日本のカトリック教会を批判したこの記事は、私の「恥の記録」として残しておきます。
恥ではありません。 (カナリア)
2014-05-03 22:49:25
こんばんは。エウティコさん。

紹介してくださった『ブータン仏教から見た日本仏教』(今枝由郎著 NHK出版)を読みました。今まで日本仏教はかなり「変形」されているらしいとは意識していたのですが、「奇形」とまでは知りませんでした。参考になりました。

このブログに出会えて良かったと思っています。ありがとうございます。
ご投稿いただいた皆さまへ (エウティコ)
2014-05-04 15:37:13
皆さま、こんにちは。

当記事「晴佐久昌英神父を批判する」にコメントをお寄せいただきまして、ありがとうございました。「三多摩の鐘」開設以来の反響に驚くと同時に、私の不適切な表現が一部のカトリック信徒の方々に不快な思いをさせたことを深くお詫び申し上げます。

誠に勝手ながら、今回をもちまして当記事「晴佐久昌英神父を批判する」へのコメントご投稿の受付を終了させていただきます。何卒ご了承ください。あらためて、お寄せいただいた多くのご意見に感謝申し上げます。ありがとうございました。


カナリアさん、こんにちは。

『ブータン仏教から見た日本仏教』をお読みになったのですね。著者の外部からの型破りな批判を、日本仏教界がどのように受け止めているのかが気になります。ただ、最近の「葬式仏教」批判などによって、日本仏教界は再生への現状打破を図っているようにも見えます。羨ましい動きだなあと思いました。

再び日本のカトリック信徒の方々に不快な思いをさせてしまうのですが、最後に一言だけ。カナリアさん、私は「カトリックの信仰」と「日本のカトリック教会」とは別異に解しようと思うのです。「日本のカトリック教会」に対する一方的な反発(嫌悪)によって、私は今も「カトリックの信仰」そのものへの思いを完全に失うことは躊躇しています。だが、どうしても「日本のカトリック教会」の扉を叩くことはできない。『ブータン仏教から見た日本仏教』には、私の「日本のカトリック教会」に対する「得体の知れない違和感」がオーバーラップして、本当に驚いたものです。
【警告】うたびと3164さんへ。 (エウティコ)
2014-05-07 20:10:26
うたびと3164さんへ

当記事「晴佐久昌英神父を批判する」へのご投稿受付の終了を告知したにもかかわらず、あなたは私に「頭でっかち」「無神経」などと評するコメントを投稿されました(5月6日午前0時28分付)。それでも、私はキリスト信者のあなたに申し上げます。どうか、罪深い私のために神に祈ってください。しかし、当記事へのご投稿受付終了のお願いは受け入れてください。あなたの忠告によって、私も「日本のカトリック教会や晴佐久神父と関わり続けても、仕方ない」と悟ったのですから。

キリスト信者のあなたが私への怒りを抑えられないのであれば、このブログと「関わり続けても、仕方ないのでは?」とも思います。あなたが仰るように、このブログは「あちこちの教会を覗いて回る」という本当に拙い内容です。そうであれば、あなたがこのブログを「覗いて回る」必要はありません。残念ながら、あなたの信仰生活にとって「三多摩の鐘」は有害無益と言えるでしょう。あなたは「ご自分の信じる道」を真っ直ぐに歩んでください。

聖母月です。ご一緒に聖マリアへの取次ぎをお祈りしましょう。

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。

関連するみんなの記事

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL
ブログ作成者から承認されるまでトラックバックは反映されません。
  • 30日以上前の記事に対するトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • 送信元の記事内容が半角英数のみのトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • このブログへのリンクがない記事からのトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • ※ブログ管理者のみ、編集画面で設定の変更が可能です。