三多摩の鐘

The Bells of San Tama -関東のキリスト教会巡り-

晴佐久昌英神父に抗う

2013年09月27日 | 東京のカトリック教会
カトリック多摩教会の聖母子像
(住所:東京都多摩市聖ヶ丘1-30-2)

カトリック多摩教会主任司祭・晴佐久昌英神父。「あなたは救われている。神に愛されている」と宣言し、教派を超えて「カリスマ神父」と仰がれている。だが、その過熱気味の「福音宣言」を懸念する声が『カトリック新聞』(2013年7月21日付)に掲載された。「イエスの厳しい言葉を重く受け止めない“万人救済説”は、聖書や教会の教えから逸れてはいないか。このような考え方が日本の教会で人気を博していることに衝撃を受けた」。投稿主は80代の著名な外国人司祭だった。

その晴佐久神父の五輪招致をめぐる発言。「2020年、東京オリンピックです。ついに決定です。まあ、『もっとやるべきことあるだろう』とか文句言う人もいるけれども、そういう人は、じゃあ、その『もっとやるべきこと』をやってるんですかね。私は、やるべきこともやり、さらにお祭りも素直に喜びたい」(晴佐久神父説教ブログ『福音の村』2013年9月8日付)。私は安倍晋三の恥知らずな大嘘が招いた「お祭り」を素直に喜べない。未だに原発事故と汚染水は極めて深刻な状況である。

晴佐久神父によれば、私は「『もっとやるべきことあるだろう』とか文句言う人」の一人であろう。だが、「もっとやるべきこと」につき、私は9月18日付『東京新聞』に寄せられた一女子高生の投書に共感する。「被災地の復興や原発事故の収束が全く見えない状況で、『東京は安全』という理由で五輪を推し進めた人たちは被災者を差別し、その悲痛な叫びを無視している。五輪以前に日本にはやることがたくさんあるはず」。この女子高生も「文句言う人」と非難されるのだろうか。

晴佐久神父のような「目に見える被災地支援」ができない私は、「『もっとやるべきこと』をやってるんですかね」と詰問されたら、黙ってうなだれるしかない。だが、無力な者の「やるべきこと」、それは「祈り」である。しかも、私たちは「祈り」の奇跡を体験したばかりだ。教皇フランシスコがシリアの平和のために「断食と祈り」を呼びかけられてから、世界は軍事介入を回避する動きとなった。晴佐久神父のように「私はやるべきことをやる」と豪語しなくても、静かに祈り続けている人は多いはずだ。<続く>


夕映えのカトリック多摩教会

<付記>
9月25日付『東京新聞』に「五輪開催を素直に喜べない」という一女子中学生の投書が掲載された。「政府は、もう被災地や原発事故のことなど考えていないのではないか。五輪施設を建設する前に、まずは被災地の人々を救ってほしい。私たちだけこんなに浮かれっぱなしで良いのか」。前述の女子高生と共に、こうした若い人たちこそ(たとえクリスチャンでなくても)「地の塩、世の光」であると思う。
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13 コメント

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エウティコさんに共感 (うたびと)
2013-09-29 16:05:39
いつも拝見させて頂いて居ります。
私が現在の所属教会(カトリック)を決めたのも、こちらを拝見させて頂いた事が大きいです。
私はエウティコさんが昔住んで居られた、千葉県のカトリック信者です。晴佐久神父は人気のある神父らしいですが、その著書も読んだ事がありませんし…私には例の発言も???です。
幸い、私の通っている教会は、祈りと共に微力ながら被災地への支援を続けています。
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はじめまして。 (エウティコ)
2013-09-30 13:28:45
うたびとさん、はじめまして。

「昨日と今日、(サザンオールスターズの復活)コンサートやってるんです。私、申し込んだんだけど、当たらなかった。(笑)当たっていたら、昨日の夜のミサは、別の神父を頼んでました。(大笑)いや、ホントに私、行ったと思います。『すいませんっ!!』って言いながら」(晴佐久神父説教ブログ『福音の村』2013年8月11日付より)。

これは「冗談」とか「失言」の域を超えています。もし本当にコンサートに出かけていたら、置いてけぼりにされた十字架上のイエス様は、それをどのように受け止められたでしょうか。そもそも、神の愛と救いの源はどこにあるのでしょうか。極めて残念な発言です。

うたびとさんは千葉県民なのですね!私は船橋市の習志野台団地に住んでいました。房総半島全域に私の幼少期の「思い出スポット」があります(笑)。この季節になると、小学校の運動会の応援歌「♪習志野原の天高く・・・」の歌声が甦ります。
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特別な祈り (うたびと)
2013-10-03 19:45:16
私は個人的には、東京オリンピックに反対です。
やはり、普通に考えても震災復興、原発の問題が先だと思うからです。
影響力のある神父さん、牧師さんは、発言にもっと慎重であるべきです。人は弱い存在ですから、時に見えないイエス様よりも、見える神父さんや牧師さんの信者になりかねません。

…私はカトリック教会に特に不満はありませんが、「主の祈り」や「天使祝詞」を文語体から口語体へ変えてしまった事は、残念に思っています。この二つの特別な祈りは、話し言葉ではない方が望ましい気がしてならないからです。

私はサービス業に従事していまして、きょうは休みの日でした。近所の小学校(保育園かな?)から、さかんに運動会の練習の歓声が聞こえてきました。
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「めでたし」の祈り (エウティコ)
2013-10-04 08:47:59
うたびとさん、こんにちは。

カトリック信徒だった亡き祖父の隣りで、私も「めでたし、せいちょうみちみてるマリア・・・」と門前の小僧のように唱えていました。文語体の祈りは独特のリズムがあって、(内容理解はともかく)子どもでも覚えやすいものでした。

主の祈り、天使祝詞、使徒信条につき、聖フランシスコ・サレジオが次のように述べています。「汝は是等の祈祷に心を止め、その内容と己が感情とを一致させ、急いで多くを誦へようとせず、言葉の意味を噛みしめながら、心から之を誦へなければならぬ」。そして、「心をこめて誦へた一の主祷文(主の祈り)は、無雑作にすらすらと誦へた多数に勝る」(『信心生活の入門』より。戸塚文卿訳)。

文語体、口語体、そしてラテン語を問わず、私にとって「心と言葉を合わせて祈ること」が、実は今でも難しいのです。
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 (さん・こんぷりめんと)
2013-10-08 21:19:37
はじめまして
わたしは両方の神父さまを存じ上げます。
ごミサにはあずかられましたか?
晴佐久神父さまでしか神様への入口にならない人もアリ
こんぷり神父さまの聖骸布が入口となる方もアリ

ひとりひとりまったく違う人類
いろんな切り口があってこそ
それぞれの入口からいつかかみさまを求め
救われる人が一人でも増えるなら
そのために
神様は
両方をおつくりなのではないでしょうか?

そして、カトリックであるならば、
全てをうけとめる普遍性であって欲しい願望から
この美しいカトリック教会を集めたページが怒りに負けぬよう
あえて申し上げさせて下さい

お説教の中からこちらでとりあげていらっしゃる箇所は、ごく一部?
よくよく読むと、最後には逆説だったりしていませんか?

苦しみを幸いととらえる
ココで取り上げられることもまた幸い

マルバツではなく
シロクロではなく
苦しみをかかえる目の前のヒトを救いたい
というそれだけのシンプルな思いに感じます

迷うヒトが増えぬよう
チマッティ神父さまにお取次を祈ります
自らの五感で各々がたに出会いかみさまにむかわせてくださる聖霊の導きを祈ります
…言葉足りぬわたくしでごめんなさい

両神父さまへの感謝のうちに

かみさま
全てのひとをお守り下さい
今、海で苦しむヒトに幸いを
みこころのままに


文字ではなく
キリストを着たそれぞれの神父さまに
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はじめまして。 (エウティコ)
2013-10-10 08:38:21
さん・こんぷりめんとさん、はじめまして。
いただいたコメントは、私宛てのご意見と理解してよろしいでしょうか?

そうですね、確かに私は「怒り」に負けていたと思います。
ことに「文句言う人」や「『もっとやるべきこと』をやってるんですかね」などの言葉に不快感を抱き、それらを柔和に耐え忍ぶことができませんでした。聖書には「人の怒りは神の義を実現しない」(ヤコブ1・20)と書いてありますよね。この傲慢な未信者をお笑いください。

ただ、これらの「怒り」を取り除いても、私は晴佐久神父のように「お祭りを素直に喜ぶこと」はできません。記事内で触れた2人の女子中高生は大震災後の厳しい現実を見つめ、隣人として悩みながら、「今、苦しむヒトに幸いを」願っているのです。私は日本のカトリック教会がこのような「まなざし」を共有していると信じています。そして、お祭りに「文句言う人」もまた、「苦しみをかかえる目の前のヒト」の一人です。

(なお、記事内の説教引用は「ごく一部」の箇所ですが、改めて全体の論旨と照合しても、私は当該箇所が「逆説」を導くための「前提」になっているとは思いません。そもそも、「逆説」のためであれば、前掲コメント内の「イエスよりもサザン、ミサよりもコンサート」のような発言も許されるのでしょうか。そこで晴佐久神父と一緒になって「大笑」するのでしょうか。キリストの気高い十字架のみ前で。)
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(続)エゥティコさんに共感 (うたびと)
2013-10-11 23:28:06
エゥティコさんへ

ごく普通の、名もないのカトリック信者の多くは「今、苦しむヒトに幸いを」と願って居ります。              
カトリック信者であるなしに係わらず、おのれ(または教会)を客観的に見るまなざしは…必要ですね。

エゥティコさんは、いろいろ勉強されていますし、私よりも年上の方かと思って居りましたが…私の方が年輩者でありました(笑)。
私もいつか、教会巡礼をしたいと思って居りますので、その日まで…頑張って続けて下さい。
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「最上のわざ」 (エウティコ)
2013-10-13 17:42:39
うたびとさん、こんにちは。

≪最上のわざ≫
神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる。
それは祈りだ。
手は何もできない。
けれども最後まで合掌できる。
愛するすべての人のうえに、
神の恵みを求めるために。
(ヘルマン・ホイヴェルス神父『人生の秋に』より)

「隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」(マタイ6・6)のですから、私も安心して拙い祈りを捧げようと思います。「愛するすべての人のうえに、神の恵みを求めるために」・・・。
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Unknown (メロ)
2014-03-02 15:18:44
「ごあいさつ」の記事にもコメントさせていただきましたけど、エウティコさんの言葉に胸を打たれました。

晴佐久神父様は今やカトリック教会のみならず、プロテススタント教会においても大変な人気です。

あるプロテスタント教会の牧師のメッセージを聞きましたが(ネット配信)晴佐久神父のメッセージの大きな影響
、、、というか、、、ほとんど一緒のフレーズがたくさんでてきました。

そのような中で、真正面から「否」を表明される言葉をみつけて、ここにたどりつきました。

記事における神父のメッセージ確かに、オリンピックの話題はたくさん語って、聞いている人の心は、うきうきとしそう、、、、でも、、、、聖書の言葉とはあまりつながってないように感じました。

聖書の言葉とつながってなくても、私の言葉とつながっていればよい。

神様を信じられなくても、私をしんじてくれたら良い。

そんなふうなのかなとも思います。

私はカトリック教会に行ったことないですし、神父のメッセージに触れるのも晴佐久神父一人です。

そうではないということがエウティコさんのブログでわかりました。
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「目を覚ましていなさい」 (エウティコ)
2014-03-03 09:01:00
メロさん、こんにちは。

「だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります」(二テモ4・3-4)。

私は日本の(東京教区の?)カトリック教会の一部で、晴佐久昌英神父の「福音“万人救済”宣言」が熱狂的に支持されている現象に当惑しています。もちろん、神様は全ての人々の救いを望んでおられますが(一テモ2・4)、決してそれが「無条件」ではないことは、聖書の多くの言葉や(カトリック教会の)カテキズムの教えからも明らかです。そもそも、「み~んな救われちゃう」のであれば、なぜイエス様は「目を覚ましていなさい」(マタイ25・13)と言われたのでしょうか。

いつの日か正しい審判者である主の御前に立つために、私たちは聖なる者(レビ19・2)、完全な者(マタイ5・48)となるように努めなければならないのです。これは主が命じられたことであり、なおかつ「主の鍛錬を軽んじてはいけない」(ヘブ12・5)のです。しかし、いつでもどこでもイエス様が私たちと共に歩んでくださっている。そこに神の慈しみと永遠の命への希望が見出せるのではないでしょうか。その時、「キリストの苦しみを知らぬ者が、何を知っているか」という十字架の聖ヨハネ(1542-91年)の言葉も思い起こすべきなんです。

神の救いのご計画は、晴佐久神父の「一存」で左右されるものではありません。「一時的な平安」や「その場しのぎの癒し」による「救われた気分」だけを追求するなら、私がキリスト教を必要とする理由は全くありません。その程度の「救い」を標榜する宗教はほかにもあるはずです。
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