しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
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朝の露 <主の英知は測り知れない>

2022-03-09 | 詩篇

「われらの主は偉大であり 力強く その英知は測り知れない。」(詩篇147:5新改訳)

一口に神の英知といっても、その広大さ、精緻さは人間の理解がとうてい及ばないものだ。人類はいまだに宇宙の広がりも、その果てがあるのかないのかも完全には理解していない。物質の究極の姿もわかっていないし、力の正体も突き止めることができていない。わかっているようで実は何もわかっていない、というのがほんとうである。それなのに、人間は万物の本源なる神に対して「まいりました。降参します」と言わずに、飽くことなく学問と称する探求を続けている。私にいわせれば、結局のところ傲慢で頑(かたく)ななのだ。▼神は人間に「愛を知る力」だけを与えられた。何がわからなくても、私たちは自分をお造りになった神を知り、愛されていることを感知することができる。そしてほめたたえ、礼拝することがゆるされている。これはじつにすばらしいことではないだろうか。しかも子供から老人に至るまで、全ての人が礼拝に参加できるとは、これぞ神の英知である。

サマリアの一女性は、村はずれの井戸でふしぎな人に出会った(ヨハネ4章)。いろいろな会話を交わすうちに、話はメシアの来臨に及び、「私は、キリストと呼ばれるメシアが来られることを知っています」と彼女が言うと、その人は「あなたと話しているこのわたしがそれです」と言われたのである。つまりこれは「わたしは在りて在るもの(エゴー・エイミ)」と、神の自己顕現のおことばであった。▼小さな村に住む零落した女性は、予想もしていなかったのに、万物の本源であるまことの神にお会いし、その御姿を見たのである。こんなふしぎなことがあるだろうか。まさにこれが「神の英知」である。創造主から遠く離れ、永遠のいのちの何たるかも知らず、露のように現れたが露のように消え、永遠の暗黒に呑み込まれて行く私たち人間、その目の前に神が現れなさった。▼もし神が本来の栄光と輝き、太陽よりも燃える炎のまま現れたら、女性は一瞬のうちに消滅したであろう。ところがそうではなかった。「あなたと話しているこのわたしがそれです」と語るひとりのユダヤ青年として現れたもうたのである。いかに罪深く、いかに反逆していても、いかに傲慢そのものであっても、それを怒らず撃たず、永遠の火に落とさず、救おうとして近づき、手を差し伸べられた神、そこに無限の英知と愛を認めないわけにはいかない。それが私たちの主、イエス・キリストである。