しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
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朝の露 <幸いなことよ>

2022-03-08 | 詩篇

「幸いなことよ ヤコブの神を助けとし その神 主に望みを置く人。」(詩篇146:5新改訳)

詩篇第一篇にも「幸いなことよ」(1)とあり、ハレルヤ詩篇の最初である本篇にも「幸いなことよ」とある。では何が幸いなことかといえば、第一篇では主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ謙遜な歩みを指し、ここでは主の助けに一切の希望を置く生き方を指している。両者は結局ひとつなのである。▼昔、イスラエルが荒野を流浪したとき、その陣営の中心はモーセの幕屋(神殿)であった。そしていつも、神殿の周囲に十二部族が一糸乱れず、整然と宿営したのである。この形はあらゆる時代を貫く信仰の原理であって、教会生活の中心にもイエス・キリストの臨在が常に崇められていなければならない。それどころかキリスト者個人の人格の中心にも、またクリスチャンホームの中心にも主の御臨在が尊ばれているべきで、それが「幸いなことよ」との呼びかけが意味することである。▼私たちの地上生活は、中心が明確であればあるほど、星雲のように正しく回転することを心に刻みつけたい。

天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造られた方、とこしえまでも真実を守る方(6)が、助けを与えようと常に目を注いでおられる人々は、①虐げられている人々、②飢えている人々、③捕らわれている人々、④目の見えない人々、⑤かがんでいる人々、⑥寄る辺のない寄留者たち、⑦みなしごとやもめたちである。社会では片隅に追いやられる人たちだが、実際は幸いなのだ。神は決して忘れることがなく、ご自身の真実をもってかならず扱い給うからである。▼主イエスが人として地上を歩まれたときも、あわれみと同情の手を差し伸べたのはこれらの人々に対してであった。言葉を変えて言うなら、キリストによって神の国が地上に開始されたのである。詩篇146篇が具体的なかたちをとって実現し出した、それが主の福音宣教であったといえる。しかもそれは一時的、臨時の神の国ではない。キリストの御復活は、永遠の神の国が開始されたという告知であった。滅び、朽ちて行く今の世の中に、永遠が姿をとって現れたのだ。まさに「喜びの訪れ」を知らせる鐘の音が私たちの世界に高らかに高らかに鳴りひびいたのであり、その音が二千年間天地をふるわせているのである。どうして「ハレルヤ!」と叫ばずにいられよう。どうしてこの大賛美に加わらずにいられよう。▼パウロ先生といっしょに歌おう、「私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです。だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。・・・私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」(ローマ8:32~39同)