しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

涼しくなってから

2013-07-20 | インポート

Photo_2札幌はこのところ、30℃近くになり、お昼前後は道産子にとって外出を控えたくなる気温。

それで、4時ごろ、日差しが弱く、影が長くなってから買い物客がどっとふえます。私たちも明日聖日準備のため、近くのスーパーに行くと、車が次々と入ってくるので、さすがの駐車場も満員に近く、整理員が2人も出て、誘導していました。でも窓を開けるとさわやかな風が吹き抜けるので、汗はかかないで済みます。日蔭にでも入れば、30℃近いとは思えない涼しさ。

今日は広島に帰省しておられたO兄一家が戻り、おみやげにと、向こうの家庭菜園で作ったトマト、キュウリ、さやいんげん、人参などをくれました。夕食にさっそくトマトをいただきましたが、ひさしぶりにいただく西日本の野菜、なつかしいのひとこと。しかも無農薬、無添加とあってはたまらない、ゆっくり堪能させていただきました。

広島といえば、最近の悲しいニュースも思います。16歳の子が同じ仲間を殺し、山中に埋めた事件。なんでもラインという通話媒体で話しているうちけんかになり、それが殺人に至ったというのですから、言葉もでません。一昔前とちがい、通信手段はおどろくほど発達、だれとでもいつでもどこでも話し、交われるようになりました。

でもそれで、私たちは幸せになったのでしょうか。便利と幸せは似ていますがちがいます。神様はバベルの塔事件で、人間の言葉を通じなくし、ある範囲でしか(民族)意志の疎通ができないようにされました。なぜなら、それが人の幸せを守る方法だったからです。「言葉の垣根」があるというのは、じつはとても大切なことだと思います。

でも人間はそれをいやがり、さまざまな方法を開発し、言語の壁を乗り越え、ひとつになろうとしている、それが現代ではないでしょうか。でも心の奥深くにある「愛の問題」が解決しないかぎり、どれほど言葉を交わしても幸せにはなりません。なったように思えるだけです。

幸せのためには、もうひとつのことばが必要です。「神のことば」といわれるイエス・キリストがそれです。このことばによって私たちが「会話をするとき」、平安と喜びがやってきます。今の日本で不幸なことは、「それはキリスト教という宗教の世界の中のこと、私には関係ない」と、あまりにも多くの人々が考えてしまうこと。そうさせた要因はいろいろありましょうが、わたしたちキリスト者にも責任があるでしょう。誤解を解く不断の努力が必要だ、そう思えてなりません。