しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
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聖日の朝に <御手の傷にて知る>

2022-04-24 | みことば静想

「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、そのときには顔と顔を合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、そのときには、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。」(Ⅰコリント13:12新改訳)

私は自分の娘が結婚したとき、父としてバージンロードを共に歩いたことがある。娘と腕を組み、花婿が待つ会堂の前列まで音楽に合わせてゆっくり進むのだ。これは今、私たちキリスト者が御霊と共に地上生活を歩んでいることになぞらえられると思う。▼私たちはまだ、キリストをありのまま見たことはない。御聖霊が教え示されるキリストを心に描きつつ、再臨の時を目指して歩んでいるのである。御霊が示して下さるキリスト・イエスでも、じつにすばらしい交わりである。私たちそれを見ながら、日々喜びに溢れつつ信仰生活を生き生きと続けることができるのだから・・・。▼しかし、やがて顔と顔を合わせてお会いする瞬間が来る。父親は式場の最前列近くまで娘と腕を組んで進むのだが、ある場所まで来ると手をほどき、娘と離れ、そこに立ち止まらなければならない。そして娘は一人になり、はなよめとしてそこからさらに進む。そこには花婿が待っていて、はなよめを真正面から見るのである。こうして、二人は初めて顔と顔を合わせてまみえることになる。その日、その瞬間、はなよめは自分の夫としてその男性を見つめることになる。私たちは今、キリストを知っているつもりだが、完全には知っていない。しかしその瞬間、自分のはなよめとして彼女を待っていたお方・キリストご自身をついに見つめ、完全に知るのだ。その手には傷がある。脇腹にも頭にも傷がある。それを真正面から、実際に、ありのまま見るのである。はなよめは、そのとき、自分への永遠の愛がかたちをとって目の前に立っているのを知るであろう。▼今まで御霊によって、御霊とともに御交わりをして来た愛なるお方、その方をいま自分の目でありのまま見て、愛の何たるかを知るにちがいない。それはキリストが自分を愛しておられ、知っておられるのと同じように知ることを意味する。創造主と被造者の差はあるかもしれないが、愛を知るという点で二者は同じである。なぜならひとつのからだになるからである。ひとつのからだに違った血液が流れるはずはない。永遠の愛という同じ血が二人を流れる。だから私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになる、とパウロは言ったのである。その日は刻一刻と近づいている。

<わざを成し終えて>                                                       ①わざを成し終えてこの世を離れ かなたの御国に行かば 輝く明け方 笑みをたたえて主は我を迎えたまわん              ②尊き血をもてあがないませる 主に目の当たり会う時 いかばかり胸は恵みのゆえに 感謝に満つることならん             ③親しき者らは 今かしこにて わが行くを待ちてあれど 互いに手を取り喜ぶ前に まず愛する主にまみえん              ④しみなきころもを 身にまといつつ 涙なき町を歩み 嬉しき歌声ひびかす前に まず愛する主にまみえん              {折返} わが主を わが主を われみそばに立ちて知らん わが主を わが主を われ 御手の傷にて知らん                                                                                                                                                                                                             <聖歌646 詞:Fanny J.Crossby,1820-1915>