しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
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朝の露 <主にほめ歌を>

2022-03-14 | 詩篇

「踊りをもって 主の御名をほめたたえよ。タンバリンと竪琴に合わせて 主にほめ歌を歌え。」(詩篇149:3新改訳)

人間社会から、喜びの踊りや数多くの楽器と演奏がなくなったら、世界はさぞ味気なく殺伐としたものになるだろう。音楽はどれだけ人を豊かにし、うるおいを与えていることか。▼ ただ、注意すべきは、豊かな表現の舞踊やオーケストラなどを演じる目的が、「人間にその力を与えておられる創造主をほめたたえる」という目標からはずれてはならないことである。なぜなら、偶像をほめたたえる祭りや、恍惚状態で肉的欲望を満足させる忌まわしい歌と踊りが世界にあふれ、中には理性を失わせ、恐ろしい結果をもたらすものもあるからだ。▼エリヤのとき、バアルの預言者たちは一日中壇の周囲を踊り回り、しまいには自分のからだを自分で傷つけ、血を流しつつ「バアルよ、答えたまえ」と呼び続けた(Ⅰ列王記一八章)ことが記されている。教会での賛美や踊りには、御父と御子イエスをほめ、その救いのみわざを心から喜ぶ敬虔さが伴うべきである。聖なる神の臨在はそのようなところに満ちるからだ。

私は毎朝早く、ひとしきり5~10曲ほど賛美を歌うことにしている。さいわいヒム・プレーヤーがあるので、音程もテンポも、音色もリズムも自由に選び調節できる。会堂で一人で歌うとき、これが神へのささげものなのだと実感でき、とても恵まれるのである(ヘブル13:15)。▼私の場合は新聖歌を使っているのだが、譜面の上に小さく作詞者、作曲者、原曲の題名、年代等が記されており、必ずそれを見ることにしている。中には百年も前の詞や曲もあり、無名の人々に歌われて来た歌詞も曲もあって、興味がつきない。あるとき歌いながら作詞者名をみると、アッシジのフランシスとあり、800年前となっているではないか。若い頃、「ブラザー・サン、シスター・ムーン」という洋画を見たことがあったが、彼の純真な信仰が印象的だった。あたかもハレルヤ詩篇のような曲を歌っていると、当時の民衆の素朴な霊性に触れるようである。▼賛美の歌詞だけ味わっても、その世界は深く広く、長く高いことを感じる。いわんや、旧新約時代に神に向かってささげられて来た賛美は数千年の広大な歌声の総体であり、天を埋めている。無数の御使いたちの賛美、地上の信仰者たちの賛美、それらが大合唱となって神の宝座を取り巻き、子羊をたたえているとは。▼我らの神は全被造物からの賛美を受けるにふさわしい唯一の御方である。選びと救いにあずかった幸福に胸ふくらみながら、早朝のひとときを賛美のそなえものの座とさせていただく。これに勝る喜びがあろうか、と思いながら。