しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
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聖日の朝に <ロトの妻>

2022-01-30 | みことば静想

「人の子が現れる日にも、同じことが起こります。その日、屋上にいる人は、家に家財があっても、それを持ち出すために下に降りてはいけません。同じように、畑にいる人も戻ってはいけません。ロトの妻のことを思い出しなさい。」(ルカ17:30~32新改訳)

ずいぶん昔のことになるが、「天地創造」という映画を見たことがある。今でも印象的なシーンとして覚えているのは、ロト一家がソドムの町から脱出する光景である。▼暗闇のなかを一家4人が必死で逃げるとき、後ろで轟音と閃光がひらめき、町が壊滅していくのだが、その様子は描かれない。なぜなら天使に「絶対うしろを振り返って見てはいけない」と固く命じられていたからだ。今まで築き上げてきた全財産も人間関係も、何もかも火にのまれ消えて行く、ロトの苦渋に満ちた表情がよく出ており、映画とは言え、思わず引き込まれて見入った。彼はどれほど振り返って出て来た家の方角を見たかったことだろう。しかし恐怖心がそれを思いとどまらせた。▼しかしそのとき、ロトの少し前にいた(聖書ではロトの後ろにいたとなっており、映画とは微妙にちがっているが)妻は天使が与えた命令を守らず、一瞬振り返り、町の方を見たのである。そのときフラッシュを焚いたような光が彼女を照らしたと思うと、衣服はあっという間に黒いわかめのようにちぎれ飛び、全身が真っ白な塩の固まりになった。それを見て顔を両手でおおうロト、映画とはいえ、さすがに印象的であった。▼人間は、判断する余裕すらない短い運命の瞬間を迎えると、自分の心にあるもっとも強い関心事、願望が行動となる。ロトの妻はその典型であった。彼女は主イエスが仰せられたごとく、残して来た家財道具が気になったのだろうか。「あれだけは持ってくればよかった!」と思ったのかもしれない。それが「いのち取り」になったのであろう。ここには、人の持つ罪性がストレートに表れている。つまり、神から「するな」と言われると、余計にしたくなる心の性質である。▼始祖アダムとエバもそうであった。「あの木の実だけは、決して食べてはいけない、死んでしまうから」と言われていたのに、蛇にそそのかされると、その言葉に乗って善悪を知る木の実を食べ、以後、サタンの支配下に入ってしまった。エバたちに入った罪の性質はロトの妻に伝わり、現代の私たち人間にもひとりの例外もなく伝わっている。そして来る日も来る日も地球上に悲劇がくり広げられているのだ。▼しかしたった一か所、助かる場所がある。それはゴルゴタの丘!。ロトは山に逃げて助かったが、私たちはゴルゴタの丘に逃げ、そこに立つ「いのちの木」のもとに身を寄せればよい。いのちの木とは主イエス・キリスト自身である。短い地上の生涯、残された時間は多くはない。ロトの妻のように「罪の町」を振り返ることをやめ、救い主のもとに一目散に走り、逃げ込むべきである。