しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
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朝の露 <優しい心で>

2022-01-29 | エペソ

「無慈悲、憤り、怒り、怒号、ののしりなどを、一切の悪意とともに、すべて捨て去りなさい。互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい。神も、キリストにおいてあなたがたを赦してくださったのです。」(エペソ4:31,32新改訳)

キリスト者でも、ともすると思わぬ場合に怒号や激しいののしりの言葉を吐くことがある。その結果、多くの人たちが信仰につまずくが、私も何度かそんな場面に出くわした。▼どうして信仰者でもそうなってしまうのであろう。パウロはこの聖句の前で、「神の聖霊を悲しませてはいけません」(エペソ4:30同)と勧めた。つまり怒りやののしりの原因は、私たちが「内住の御聖霊を悲しませる」という罪の大きさについて、あまりにも鈍感だという点にあるのではなかろうか。▼御聖霊は聖きと汚れに対し、想像もできないほど鋭敏に反応されるお方だ、と私は思う。そもそも御霊が私たちキリスト者を捨て給わないのは、キリストの比類なき血潮が流されているからだ。そのように大きな代価が支払われた結果、私たちは救いに入れられた。第三位の神は、キリスト者の未熟でなっていないことをご覧になっても、御子のあがないの事実を見つめておられる。だから私たちに忍耐をもって内住しつつ、接しててくださるのだ。▼ああ、主イエスはどれほど御聖霊の忍耐といつくしみを尊んでおられることであろう。そして、キリスト者たちがその事実を恐れおののいて受け取ることを、いかに望んでおられることであろう。だからこそ主は、「人はどんな罪もゆるしていただけるが、ただひとつ、聖霊に逆らう罪は永遠にゆるされない」と断言されたのである(マタイ12:32)。キリスト者は、柔和な鳩として内においでくださったお方の臨在を軽く考えてはならない。ペテロのことばも記そう。「最後に言います。みな、一つ思いになり、同情し合い、兄弟愛を示し、心の優しい人となり、謙遜でありなさい。・・・むしろ、心の中でキリストを主とし、聖なる方としなさい。あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい。」(Ⅰペテロ3:8~15同)