しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
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朝の露 <ユダ王国最後の光>

2021-01-05 | Ⅱ歴代誌

「行って、見つかった書物のことばについて、私のため、イスラエルとユダの残りの者のために、主を求めよ。私たちの先祖が主のことばを守らず、すべてこの書に記されているとおりに行わなかったために、私たちの上に注がれた主の憤りが激しいからだ。」(Ⅱ歴代誌34:21新改訳)

モーセは神殿(幕屋)を造営したとき、聖所の中に律法の書を置くよう命じた。それはイスラエルの指導者たちが絶えず読んで、神から離れない様にするためであった。だが歴代の王でそれを読んだ者はほとんどいなかったと思われる。幸いにもヨシヤ王は発見された律法を朗読させ、耳で聞いた。その結果、彼は衝撃を受け、自分の衣を引き裂きつつ泣いた。自分たちがあまりにもみ教えから離れ、罪に歩んでいることを知ったからである。▼本当の悔い改めとは、他人の罪を見つけて泣くことではない。自分の罪深さのために泣くことである。まだ二十代半ばの青年王は心やわらかにして涙ながらに悔い改め、主に従う決心をした。こうして、ユダ王国最後の時代、信仰の灯がふたたびあたりを照らすことになった。◆約500年に及ぶユダ王国史、その中で神の前に泣いた王は三人しかいない。最初の王ダビデ、15代目のヒゼキヤ、そして18代目のヨシヤである。彼らは自分が王であることを誇り、尊大ぶったりしなかった。神の前にひとりの信仰者としてひれ伏し、祈りつつ御顔を仰いだのである。特に実質的に最後の王であったヨシヤは、国全体と自分がどんなに罪深い姿をしているかを聖書のみことばによって悟り、心を痛め、王の立場にあることも忘れ、悲しみの涙を流したのであった。なんと純粋で謙遜な態度であろう。◆人間の歴史が変わるのは、誰かが「神のことばに出会った」ときである。旧約という制限された時代であったが、ヨシヤ王はその典型といえよう。もちろん人類最大の出会いは、神のことばが人となり、地上に現れたとき、ナザレのイエスとの出会いであった。世界はどれだけ大きな変革を受け、今日に至っているか想像もできない。そしてこれからもそうである。個人的にいえばパウロに天からみことば自身がお語りになったとき、異邦人世界は変わった。ルターが封じられていた聖書を調べ、ローマ書を通して神のことばに出会ったとき、新教が出現した。その他、枚挙にいとまがない。私たちも生涯において、みことばなるお方に出会い、悔い改めに導かれたのである。その点ではヨシヤとおなじである。彼がへりくだって衣を引き裂き泣いたように、私たちも心すなおに、幼子のような霊性を抱きつつどこまでも主に従って行くべきである。