しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <ヨシヤ王の戦死>

2021-01-06 | Ⅱ歴代誌

「エレミヤはヨシヤのために哀歌を作った。男女の歌い手は、ヨシヤのことをその哀歌で語り伝えるようになり、今日に至っている。これはイスラエルの慣例となり、まさしく哀歌に記されている。」(Ⅱ歴代誌35:25新改訳)

国民から敬愛され慕われたヨシヤ王は三九歳の若さで戦死した。なぜこのとき無謀な戦いに出かけたのか、理由はいまひとつ明らかでない。ただ、「神の御口から出たネコのことばを聞かなかった」(22同)とのことばから見て、血気にはやり、国民も奇蹟を期待しながら王を励まし、送り出したのではあるまいか。▼人々はひじょうに悲しんだ。特に戦場となったメギド平野ではそれが大きく、ハダド・リンモンの嘆きとして後世に伝えられた。ゼカリヤは、やがてメシアが地上再臨されると、エルサレムの人々はかつてなかったほど悲しみ、それはハダド・リンモンでの嘆きのように大きくなると預言している(ゼカリヤ12:11)。 私たちがヨシヤ王を戦死させてしまったとの叫びと、私たちがイエスを十字架に殺したのだとの叫びは、やがて一つになるのであろう。▼御聖霊が認罪の霊として臨むと、「私が神の御子を十字架に殺した」という意識が生じる。人がゴルゴタにおけるキリストの死を客観的に、対岸のできごとのように思っているあいだは、真の取り扱いには至っていない。まさに主イエスは「私」が殺したのである。二千年前当時のユダヤ人やローマ人ではなく、私が屠ったのだ。御聖霊は私やあなたにそう語っている。なぜなら、このお方だけが御子の死をほんとうに目撃され、その理由と事実を見たお方だからである。私たちが神の前で謙遜になり砕かれる、すべての罪深さが音を立てて崩壊するためには、認罪という取り扱いの中に入れられることが絶対的に必要である。地上の教会はそのために存在しているといっても過言ではない。▼「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。」(イザヤ53:4、5)