しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
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朝の露 <マナセ>

2021-01-04 | Ⅱ歴代誌

「そこで主は、アッシリア王の配下にある軍の長たちを彼らのところに連れて来られた。彼らはマナセを鉤(かぎ)で捕らえ、青銅の足かせにつないで、バビロンへ引いて行った。」(Ⅱ歴代誌33:11新改訳)

当時の捕虜は悲惨なものであった。発掘されたレリーフなどを見ると、くちびるに太い釣り針状の鉤を刺し通され、足には鎖のついた輪がはめられ、じゅずつなぎになって歩く様子が彫られている。▼マナセ王は父王ヒゼキヤの業績を台無しにした上、国を偶像で満たし、国民を堕落させ、罪のない人々を次々に殺したため、その血がエルサレムの隅々まで満ちたと記録にある。「マナセは、ユダに罪を犯させ、主の目の前に悪を行わせて、罪を犯したばかりでなく、罪のない者の血まで多量に流し、それがエルサレムの隅々に満ちるほどであった。」(Ⅱ列王記21:16同)▼こうして彼が遠いバビロンへ連行されて行ったのは、その悪行に対する神のこらしめにほかならなかった。しかし神はじつにあわれみ深いお方である。マナセが苦しみの中で悔い改め、嘆願すると彼をゆるし、ふたたびエルサレムに王として戻されたのだ。しかしすでに時遅く、国は偶像礼拝から戻れないほど乱れに乱れていた。王たる者の責任のいかに重いことか。◆そもそも名君ヒゼキヤ王の息子マナセが、どうして父のあつい信仰を受け継がず、国を偶像で満たしたのであろう。誰しもがふしぎに思うところだ。ヒゼキヤが重体になって、神に涙の祈りをささげたとき、神は特別にその祈りを聴かれ、寿命を15年増し加えられた。とすると、マナセは12歳で王位についたから、ヒゼキヤが病気を癒やされた3年後に誕生した計算になる。たぶんヒゼキヤにとっては、はじめての実子であったかもしれない。そうするとマナセは父に溺愛されて育ったことは十分考えられる。おまけにその父はマナセが12歳のとき死んでしまったのだ。◆その上、わずか12歳で即位したとき、周囲には信仰あつい養育係がおらず、国を自由宗教で運営しようとする肉的指導者たちが囲んでいた。預言者イザヤは生きていたが、たぶん遠くに退けられていたであろう。伝承によると彼はマナセ王から殺されたともいわれている。こんなふうに見て来ると、当時のユダ王朝には陰湿で深刻な主導権争いが繰り広げられていたことが想像できる。それでも多くの預言者がマナセをいさめ忠告したことは確実で、彼がそれを容れ、毅然たる信仰路線をとる機会は何度かあったと思われる。それをしなかったところに、彼の王としての責任があった。ユダ王国史で彼に貼られたレッテルは「王国を決定的にダメにした王」である。もはや二代あとのヨシヤが改革しても時すでに遅し、まもなくして南王朝は地図から消えて行ったのであった。エレミヤのいのちがけの預言活動もむなしく・・・。