「食事の後、同じように杯を取って言われました。『この杯は、わたしの血による新しい契約です。飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。』」(Ⅰコリント11:25新改訳)
教会でもたれる会食は、聖餐式以外は世の中の食事会とおなじと考えてよいのであろうか。私はそうでないと思う。理由は、教会がキリストのからだであり、常にイエス・キリストが御霊によって臨在しておられるからだ。▼世の食事会のように、酒や魚、焼き肉などを食べながら汚れた話や交わりにふける、そんなものであってはならない。主は数千人の人々に食べさせる時、パンと魚を持って天の父に感謝をささげ、続いて人々に分けられた。エマオの夕食でも、御父に感謝しつつ、二人の弟子にそれを裂いて与えられたのである。それはどんなに敬虔な食事だったことか。▼キリスト者が食事会をするとき、そこにはいつも主イエスが同席しておられることをおぼえたい。固くなる必要は少しもないが、救われた喜びと御国への希望が満ちる愛餐のとき、それこそが私たちの霊性と健康を養うのである。