しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
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朝の露 Ⅱ列王記24章 <ユダ王国の最後>

2020-09-15 | Ⅱ列王記

「実に、エルサレムとユダが主の前から投げ捨てられるに至ったのは、主の怒りによることであったのである。その後、ゼデキヤはバビロンの王に反逆した。」(Ⅱ列王記24:20新改訳)

ヨシヤ王の死後、息子のエホアハズ、同じく息子のエホヤキム、その子エホヤキン、エホヤキムの兄弟ゼデキヤと四人の王が続くが、すべて神に反抗する悪王であり、ユダの滅亡は決定的になった。ただその中でエホヤキンだけがバビロン軍に降伏、捕囚となって生きながらえ、約五百年後に子孫からマリアの夫ヨセフが出、イエス・キリストの誕生となる。主の御手の不思議さを思う。▼最後のゼデキヤは預言者エレミヤから「バビロン軍に降伏することが主のみむねである」と再三再四言われたのに従わず、とうとうエルサレムは炎上し、神の宮も焼き尽くされた。彼が預言者のことばを聞き入れていたら、神殿は焼かれず残ったかもしれない。眼をおおいたくなるユダ王国の末路、しかし全能の神の御手は少しも妨げられず、歴史は救い主の出現に向かって進んで行ったのであった。◆世界地図を見るなら、イスラエルはパレスチナの小国にすぎず、北方にアッシリア、バビロン、南にはエジプト、西にはローマと言う大国が起こり、小国の悲哀を味わう運命におかれていたことがわかる。しかしこれは神の深い摂理の上で定められたことであり、イスラエルは全能の神を信頼し、その契約に従って歩まなければ存続できない立場におかれていたのである。事実、ダビデやソロモンといった王が神を恐れて歩んでいた時は、いかなる敵も攻め込むことはできず、そうしても奇蹟的に敗北させられたのであった。◆ところが、いったん民族が神に逆らって生きるようになると、まことにみじめな有様にならざるをえなかった。猛獣のエサになる羊のごとき状態だったといってよい。これは、私たちキリスト者にとっても同じである。私たちは主を心から信じ、仰ぎ、御霊とみことばによって生きなければ、諸国民に食われるしかない存在である。だからあいまいな生き方をし、この世にも受け入れられ、神にも喜ばれるようなことを目指すべきではない。笑いものになるのがおちである。然りは然り、否は否、信仰の旗印を高く、ハッキリ掲げ、堂々と歩まなければならない。吹けば飛ぶような小さな群れと侮られようがすこしも気にすることなく、十字架を高く掲げて真っすぐに歩ませていただこう。