しげる牧師のブログ

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朝の露 ナホム書3章 <流血の町>

2018-12-19 | ナホム書

八朔「わざわいだ。流血の町。すべては偽りで略奪に満ち、強奪はやまない。」(ナホム3:1新改訳)

流血の町という表現はエルサレムにも使われている。「ああ。流血の町、さびついているなべ」(エゼキエル24:6同)とあり、預言者ハバククも、「わざわいだ。血で町を建て、不正で都を築き上げる者」(ハバクク2:12同)と非難している。▼大洪水から救い出されたノア一家に、神は仰せられた。「わたしはあなたがたのいのちのためには、あなたがたの血の価を要求する。わたしはどんな獣にでも、それを要求する。また人にも、兄弟である者にも、人のいのちを要求する」(創世記9:5同)と。いかなる理由があっても、神のかたちに造られた人の血を流してはならないとは、ノアの子孫である人類の歴史をつらぬく創造者の御声、厳粛な命令である。▼イスラエルが亡国の憂き目に遭ったのも、ニネべが恥辱のうちに滅びたのも、結局は平気で人を殺し続けた流血の罪を神に問われた結果であった。今日まで戦争を止めないノアの子孫たる現代人、最後は神から血の価を求められる。◆エデンの園において、アダム夫妻に罪が入ったとき、それは息子カインによる弟アベルの殺人となってあらわれた。それは当時の人類に広がり、「地は神の前に堕落し、地は暴虐で満ちていた」(創世記6:11同)というありさまになった。たぶん地上は流血でおおわれたのであろう。その結果ノアの大洪水となり、8人を残して人は滅んだ。洪水後のノアたちに、神は「人の血を流す者は、人によって血を流される。神は人を神のかたちとして造ったからである」(創世記9:6同)と言い、殺人と流血を禁止された。しかし人類はそれを破り続けて今日に至っている。◆流血の極致は神の御子が殺された十字架である。人は神のかたちに造られた人を殺したどころか、神そのものである方を殺したのである。この事実を私たちは受け入れなければならない。自分が神殺しの当事者であると心から認めて・・・。そして、「兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか」(使徒2:37同)とくずおれた、あの日の人々に加わるべきである。