元・還暦社労士の「ぼちぼち日記」

還暦をずっと前に迎えた(元)社労士の新たな挑戦!ボチボチとせこせこせず確実に、人生の価値を見出そうとするものです。

職場研修の理論・その3~「リーダーシップ論」<情の管理・智の管理>童門冬二著

2011-08-31 10:02:56 | 社会保険労務士
 「情の管理・知の管理」の典型は秀吉!!

 私が、勤務講師をしていたころ、題材としてよく使用させていただいた著書に、童門冬二氏の「情の管理・知の管理」(組織を率いる二大原則、PHP文庫)がある。童門冬二氏は、時代小説をよく書かれる方であるが、時代小説の中に組織の中でのリーダーシップに焦点を当てて書いたものが多い。同じPHP文庫に「上杉鷹山の経営学」もある。(ついでながら申し上げると、上杉鷹山は、宮崎の高鍋藩から米沢藩へ養子にいった方で、行政改革の先駆者として名高い。ケネディー元米大統領が尊敬する人物として、あげたことは有名である。)
 

 「智に働けば角が立つ、情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。」と夏目漱石の草枕の冒頭を氏は引用する。そして、童門氏は次のように言う。

 
 この有名な文章は、何の世界にも当てはまるような気がする。組織とか、組織における人間関係についても当てはまる。さらに、その管理も「知による管理」「情による管理」の二つに分けて考えることもできるだろう。つまり、知一方で管理すれば角が立つし、情一方の管理を展開すれば流されてしまう、ということを見事に言いえている。組織・人事管理には、この知の管理と情の管理があって、なかなかうまくいかない。もちろん、その一方だけでは、組織はなめらかに運営されていかない。しかし、だからといって、知と情とを適当に組合せばいいというものでもない。そのノウハウは非常にむずかしい。なぜなら、それは相手があるからだ。

 
 さらに、次のように続ける。「とかくに人の世は住みにくい」とは言うものの、これも漱石が言うように「ただの人が作った世の中が住みにくいからといって越す国はあるまい。あれば、人でなしの国へいくばかりだ。人でなしの国は人の世よりも住みにくかろう」として、仕事に生きがいを感じ、生涯のほとんどをその組織で送ろうとするなら、そこから逃げるわけにはいかない・・・と書いている。

 
 この知の管理・情の管理は、前回紹介した三隅氏のPM理論に通じるものがあると考えるが、いかがだろうか。

 
 その例として、次のような話をあげている。台風でこわれた清州城の堀を、当時、織田信長の下で駆け出し社員だった木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)が、たった三日で修理した話である。工事奉行が20日かかっても修理できない。短気な信長は、奉行をクビにし、「猿、お前がやれ」と秀吉に命じた。秀吉は、自分で作業量を計算し、全体にかかる日数を割り出し、こう言った。「さて、作業の手順だが、修理個所を十か所に区分する。気の合うものと合わないものがいるはず。誰と誰が組むかはお前たちが決めろ。どの組が一番早く受け持ちの箇所を仕上げるか楽しみだ。3番までは、俺が信長様から賞金をもらってやる」
 これは、「綿密な計画の上で、作業を細分化しひとつひとつに目標を設定する。」「人間の競争心をかきたてる。」「組織はプロジェクトチーム」であるとしている。 
 が、くびになった工事奉行が褒美など出すはずがないとそそのかす。そのとき、「今日にでも敵が攻めてくるかもしれない。おそらく、お前たちは、城の修理は侍のためと思っているのだろうが、俺たちが負ければ、路頭に迷うのはお前たち。城を直すのはお前たちのためだぞ」と言った、と続ける。これは、将に自分たちのための本気の目標設定を行ったことになる。

 
 まさに戦国時代の現代版プロジェクト、(注)目標による管理であって、知の管理である。同じ個所では書いてはないが、天下をとった後は、狂ったような所業があったのだが(朝鮮出兵)、若いころの秀吉は、こういった「知」の一方で「情」に厚い人であったといわれる。時代劇でも、この城修理の話を取り上げているが、仕事が終わった後、酒盛りをやり秀吉自信出かけて行って、仕事の労をねぎらった場面が出てくる。情の管理の面も持ち合わせていたことは間違いないだろう。(続く)
 (注)「目標による管理」は、現在「マネジメント」の用語の方が有名であるが、これもピータードラッカーが提唱したものといわれる。


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職場研修の理論・その2~「リーダーシップ論」三隅二不二<PM理論>各論

2011-08-29 05:30:53 | 社会保険労務士
 P、Mは、メンバーの状況や上司のリーダーシップに応じてその発揮を考える!!
 

 PM理論は、一般的には、集団の生産性やメンバーの満足度は、PM型のリーダーのもとで最高になり、pm型で最低になることは、調査結果を待たずに、考えてもそのとおりとうなずけるものではないだろうか(前回のまとめ)。さらに、心理実験から次のことが分かっているようである。
(以下「渋谷著」の引用)

 心理実験によると、メンバーにやる気がある(達成動機が高い)ときは、Mp型がいいが、やる気がないときはMp型より、pm型の方が効果的であることが知られている。また、メンバーにやる気のないとき、特に初期の段階では、Pm型が効果的であることが分かっている。要するに、PM型は最も望ましいが、部下のやる気や仕事の内容などに合わせてリーダーシップを工夫する必要がある(以上「渋谷著」)
 としているところである。

 あなたがリーダーである場合は、メンバーの状況を考え、できるだけそれに応じて行動する必要があるが、なかなかその人の性格上、難しい面がある。あなたの職場を考えた場合でも、P型の強い人、M型の強い人それぞれいるはずである。そこで・・・(以下「磯貝著」の引用)

 三隅氏はPM型人事異動ということを提唱されている。というのは、一人のリーダーがPもMも同時に果たすことはむつかしい。だとすれば個人と個人の組み合わせによって、この問題を解決しようというわけである。 Pm型の課長の下にMp型の係長を配置する、あるいはMp型の課長の下にPm型の係長を配置する。いわば二人三脚みたいなものである。

 しかし、実際には、上役がPm型だとすると下の者もPm型になっていくことが多いという、つまり下役は上役を見習う傾向があるし、上役は自分と同じ型の部下をかわいがる傾向があるからだ。したがって、トップがPm型だとずっと下までPm型で、P過剰のリーダーシップになってしまう。このPの連鎖を途中で断ち切ってMp型を入れる。

 そのためには、上に立つものが自分の型の限界を心得て、自分とちがったタイプのリーダーシップを尊重し認めるということが前提条件になる。PとMはどちらがいいというこどではなくて、相補的なリーダーシップの型であるのだから。(以上「磯貝著」、前回と同様にPM、Pm、MP、pm型に用語を統一している。)
としている。

 これもまた、異動のある、ある程度の大きな組織では、そういった配置も可能ともいえるが、小さな組織だと異動そのものが困難な組織もあるし、逆に、リーダーの質を見極めることは、人事専門のある部署では、そこまですることも難しいのではないかと思う。

 しかし、以上の論点を踏まえて、自分がリーダーである場合は、自分がM、Pのどちらに偏っているか、メンバーの状況が今どこにあるかを考えて、どう行動するか、また、上司がどの型であり、自分は補完的にどのP、Mどちらを発揮するかといった、一つのヒントにはなると思うがどうだろうか。また、あなたが、社長であり、部下の性格まで周知しているということならば、その人事に応用できると考えますがいかがでしょうか。


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職場研修の理論・その2~「リーダーシップ論」 三隅二不二の<PM理論>

2011-08-26 05:36:45 | 社会保険労務士
 PM理論は、P=目標達成機能とM=集団維持機能によって4類型化

 前回は、マズローの欲求段階説を取り上げましたが、これは研修の理論だけでなく、社会分析などでよく取り上げられていますので、どこかでお目にかっかっていることだと思います。今回は、職場研修のリーダーシップ論としては、必ず取り上げられる理論として、PM理論を紹介したいと思います。日本人の名前が付いた、世界に名だたる理論ということが出来ますので、取りあげてみました。以下、「上司が読む心理学」(渋谷省三、日経ビジネス人文庫、以下「渋谷著」という。)と「集団の心理学」(磯貝芳郎、講談社現代新書、以下「磯貝著」という。)からそれぞれ引用しながら、紹介していきたいと思います。

 社会心理学者の三隅二不二氏は、PM理論によって、リーダーシップの類型化を試みている。この理論では、リーダーシップの機能を集団の基本的次元である、目標達成機能(Performance Function)と集団維持機能(Maintenance Function)の両面からとらえようとしている。

 そして、リーダーがこれらの機能を多く持っている場合をP,Mとし、一方、少ない場合をp、mとする。リーダーがそれぞれの機能をどの程度果たしているかによって、図に示すように四つのタイプに類型化することができる。

 ところで、P機能とは、集団の目標を達成するために計画を立てたり、集団のメンバーに指示や命令を与えたりするメンバーの行動をさす。一方、M機能とは、メンバーの行動を理解し、集団内に友好的な雰囲気を作ったり、集団のまとまりを維持し、これを強化したりするリーダーの行動を指している。(以上「渋谷著」)

 ・・・は、集団の性質によって内容は変わってくる。官庁ではサービス、生産会社では生産を上げること、学校では教育の効果を上げること 会議等では議題の解決策を見い出し意思決定をする過程がP機能である。というのは・・・(具体的には)集団の中で発生する人間関係の不必要な緊張を解消したり、対立抗争を調停したり、メンバーの自主性を尊重して相互の友好的雰囲気を増していく機能である。(以上「磯貝著」、()書きは、抜き書きのため、文の流れから考えて、甲斐が挿入)

 PM型・・・P機能とM機能ともに強力に発揮する。生産性がもっとも高く、メンバーはもっとも強い満足度をもって仕事をする。
 Pm型・・・P機能を強く発揮するがM機能は弱い。生産を目標にしているがメンバーの雰囲気はよくなく生産性には限界がみられる。 
 Mp型・・・M機能は強く発揮するがP機能は弱い。メンバー間の友好度は高く楽しんで仕事をするが、生産性は高くない。
 pm型・・・P機能M機能ともに弱い。生産性はもっとも低く、メンバー相互の間やリーダーに対する不満や敵意が多い。(以上「磯貝著」)

 現場調査によると、次のような場合、リーダーシップの効果性は、PMが第1位でMp型、Pm型、pm型の順に低くなることが見出されている。
 1 業績、事故率、退職
 2 仕事に対する意欲
 3 給与に対する満足度
 4 会社への帰属意識
 5 チームワーク
 6 ミーティングの効果性


 一般に、集団の生産性や満足度は、PM型の下で最高になり、pm型の下で最低になることが分かっている。PM型では、M機能がP機能の触媒的な役割をしており、両者の間に相乗効果がもたらされるのだと考えられている。
 つまり、より好ましい人間関係が仕事をする際の潤滑油になり、そのことがより高い集団目標を達成するチャンスを大きくしているというわけだ。仕事にも、部下の人間関係にも配慮できる上司であってほしいものだ。(以上「渋谷著」、なお2冊からの引用で統一性を持たせるため、PM型、Pm型、Mp型、pm型にしている。)・・・としている。

 
 さて、あなたのリーダーとしてのタイプは、どこにはいるでしょうか。私もリーダーの経験があります。自分に当てはめた場合は、どちらも弱かったような気がしますが、あの場面でこうすればよかっとか反省点多しです。そうはいっても、もともと、集団をまとめるのが上手な人もいますし、リーダーの「性格」によるような気もしますよねという声も聞こえてきます。ということで、次回は、この続きとして、私お得意の「同書の引用」で、これを踏まえ「どうしたらいいの」を展開していきます。(続く)


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職場研修の理論~「自己啓発」と「マズローの欲求5段階説」の「自己実現の欲求」

2011-08-24 05:41:24 | 社会保険労務士
 「自己実現の欲求」が最高の欲求である。<マズローの欲求5段階説>

  自分の社労士としての、ウリは研修講師でもあろうとしているところですが、職場研修においては、その重要性を指摘されるのが、自己啓発です。なんぼ実際の研修の時間を増やしたところで、本人にやる気がなければ、意味がありませんし、必要な知識として足りない部分は、いくらもあり、時間がいくらあっても足りないというのが、実情でしょう。そこで、自分で何か足りないと思ったら、その足りない部分を率先して、自分に自ら「自己啓発」を行うというのが、一番良いということになります。必要な知識を、必要なときにというのは、自己啓発以外にはありません。なんぼ一流の研修講師に話をさしても、その場限りの局所的な効果しかありません。しかも、話はその話のみです。一番いいのは、本人自ら勉強する姿勢を作らせることです。

 ところで、その研修理論によく出てくるのが、マズローの欲求5段階説です。以下、監督者の研修(JST基本コース指導参考書)からの引用です。

 マズローは、成功した人を研究することから発展して欲求段階説を唱えました。マズローによれば、人間が持つ無数の欲求も、子細に見れば相対的に優位に立つものとそうでないものがある。これらは階層をなしている。その階層の段階が満たされると、より高度の欲求性の重要性が増してくるという関係にあるという。マズローが特に重視する欲求は次のとおりである。

 (1)生理的欲求・・・生命欲求に関する欲求(食欲、性欲、睡眠欲、新鮮な空気・適度の温度、保護を受けることなどの欲求) 
 (2)安全の欲求・・・この安全の欲求は、満たされているときは欲求そのものがあまり意識されず、公正、公平、自由の範囲の拡大などの欲求が意識される。
 (3)所属と愛の欲求・・・集団の中の一員になろうとし、あるいは信頼で結ばれた友人を得たいという欲求
 (4)承認の欲求・・・自尊心及び他人からの評価を受けたいとする欲求。
 (5)自己実現の欲求・・・自己の発展、可能性を展開し、高次の自己を現実に作り上げようとする欲求で、個人が潜在的に持っている可能性を現実化し、社会的に大きな存在となり、大きな働きを通じて大きな満足を得ようととする欲求である。 以上

 これを、国司義彦氏は、次のように述べている。(「人間関係をよくする心理学」成実文庫) 一例をあげれば、食べることにこと欠いていれば何よりも「食べたい」と思い、食料の確保に全力の行動をとるわけだ。しかし、食べるという低次元の欲求が満たされると、さらに高次元の欲求を持つようになる。お腹がいっぱいになれば、「安全に暮らしたい」と思い、それが充たされれば「何らかの社会に貢献したい」と願い、それが実現されれば、「その社会で承認されたい」と考える。・・・とある。(1)(2)(3)(4)(5)の順で、順を追って次の欲求があらわれてくるというわけである。

 (5)の自己実現の欲求は、社会に働きかけて、そこから自分の大きな満足を得るのが目的であり、なんらの「報酬」や「利益」を得るのが目的ではなく、自己実現そのものが欲求となるという、至上の最高の欲求である。
 

 また、それは、誰でも持っているものであるが、(3)の所属の欲求、(4)の承認の欲求が満たされて初めて出て来る欲求ということになる。職場で考えると、(3)職場の一員になりたいという欲求、(4)職場に認められたいという欲求、これらが満足されて、初めて出てくる欲求ということになる。(3)職場の一員になる欲求が欲求として成り立ち得るためには、もちろん、なんらかの誇りが持てるような職場でなければならないでしょう。そんな大きなものでなくても、本人にとって帰属しうるその何かをその職場にあればいいはずである。そして、その職場で、上司から褒められたり、仕事を任されたりなど「認められれば」(4)が達成されることになり、(5)に進むことになるが、それがなければ、(3)、(4)のままである。

 
 職場で、愛情を持って育て、認められて、初めて(5)の欲求という最高の欲求がでてくることになるのでしょう。
 研修講師は、先ほどの話に戻れば、「自己啓発」を動機づけることが重要になるわけですが、この動機づけは、この「自己実現の欲求」に基づくものであることが、一番ぶれないし、くじけないしということになりますので、最終的には、自己実現の欲求に基ずく自己啓発ができるように導くことが講師の務めということになります。ただ、4に基ずく承認に欲求によるものであっても、必ずしも否定するものでもありません。ときには、職場に認められようとして、自己啓発を行うことが必要性だって出てくるわけです。ただ、5に基づくものであるならば、その職場は、わきあいあいとした、報酬、利益を求めない、最高の職場となると考えられます。

 ところで、ここからは、今日の論点とは離れますが、国司義彦氏は同書で次のようなことを言っておられます。要約すると次のようになると思われます。

 これは、一般論、原則論であって、すべてのものにあてはまるわけではなく、それはマズロー自身も述べている。日本人の「武士は食わねど高楊枝」「生き恥をさらすよりは美しく死ぬといった美意識」のような独特の文化は、マズロー理論の枠外にある。また、ほとんどの低次元の欲求が満たされた現代において、自己実現よりは、金等ものに執着することが、一般庶民よりは、政治や経済や社会の中枢を握る人々にこの傾向が強いのは、いったいなぜか、と問いかけている。

 マズロー研究家である国司義彦氏にとっては、実際のところ不思議に見えるのであろう。震災復興の今、政治には、「報酬」や自分の「利益」を求めるのでなく、名誉欲でない、本当の(5)の自己実現という、内なる欲求からくる大義を持った人が出てくることを期待したいものである。


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年金は経過措置と特例措置の継ぎ合わせ!?<遺族年金と中高齢寡婦加算>

2011-08-22 05:44:11 | 社会保険労務士
遺族基礎年金は、子のない妻には支給されない。

 
 前回、「社労士受験生への一言」の中で、年金は、経過措置と特例措置の継ぎはぎです、といいました。そのさえたるものが、妻への遺族年金等です。働いている被保険者の夫が死亡した場合に、妻には基本的には遺族厚生年金が支給されますが、国民年金は、「子のある妻」だけに限って支給されます。子のある妻だけが、国民年金と厚生年金の両方から、遺族基礎年金(国民年金)と遺族厚生年金(厚生年金)をもらえるのです。子のない妻は、遺族厚生年金(厚生年金)だけとなります。

 
 そこで、子のない妻と子のある妻の差があんまりだということで、厚生年金には、中高齢寡婦加算があります。原則として、(1)夫が死亡した当時に40歳以上で65未満であった子のない妻、あるいは(2)夫死亡時に40未満であって、子のある妻として遺族基礎年金をもらっていたが、「その子が高校を卒業する年齢である、18歳の最初の3月31日が到来したこと」などによって、遺族基礎年金が失権したときが、40歳超65歳未満の場合は、中高齢寡婦加算が付きます。この中高年寡婦加算の額は、遺族基礎年金の3/4です。単純にいうと、子のないあるなしの事情に応じて、妻40歳からは、遺族基礎年金の3/4の加算が厚生年金から付くことになります。

 65歳に達すれば、もちろん一般的には老齢年金等が出ることになります。これに加え、一定の条件はありますが、昭和31年4月1日以前生まれの者については、さらに、年齢に応じ経過的寡婦加算(厚生年金)なるものが加算されます。

 ところが、予算削減の影響と思われますが、19年度からは次のようになりました。簡単に言うと、働いている夫が死亡した当時に、30歳未満の妻が、子がなくて遺族基礎年金を受給できず、遺族厚生年金だけを受給しているときは、その受給権取得日から5年を経過したときは、遺族厚生年金の受給権がなくなります。また、子が高校を卒業する18歳になった年齢になった場合のように、遺族基礎年金の受給権がなくなったときが、妻が30歳前の時には、その遺族基礎年金の受給権がなくなったときから5年を経過したときには、遺族厚生年金もなくなってしまうのです。イメージとして単純化すれば、子があろうとなかろうと30歳前に遺族基礎年金をもらっていないときは、5年経過すれば、遺族生年金ももらえなくなるということです。もちろん、思想としては、分かりますし、もっともな言い分です。30歳前に子供がいないか、あるいは手が離れてしまった妻は、家庭にいなくて社会の一員として貢献せよということでしょう。

 しかし、おおもとは、たぶん財政的に余裕のなくなった国の措置として、19年にこういう措置がとられたのだとは思います。この夫死亡時の、妻30歳と40歳の年齢の別れ目はなんなんでしょうね。わずか10歳しか離れていないのに、一方では手厚く、一方では厳しく、とても同じ法律の中で行う措置とは思えません。その時々の時代背景により、制度も変わっていきますし、予算がないからと言って、財政破たんという背に腹は代えられない事情はあるのでしょう。健康保険は病院に勤めていた頃から感じていましたが、この年金制度にしても、予算がないことから、取れることろから取れ、出費については出し惜しみの考えが顕著に表れているように思います。特に年金制度においては、こういったその時々の思想により、手直しをするので、同じ人が作るとは限らず、矛盾した「継ぎはぎだらけ」の、行き当たりばったりの「思想」による措置が、あるような気がします。「社会保障と税の一体改革」ということばが、本来示すように、もっと統一的に、根本的に見直す時期が来ているのでしょう。

 (なお、遺族基礎年金と遺族厚生年金の比較に絞ってお話ししましたので、国民年金の同様の名称が付いている「寡婦年金」には、申し上げませんでしたが、これは自由業等の1号保険者のみの措置でして、老齢基礎年金の受給資格期間(基本的には被保険者25年)を満たしたにも関わらず、老齢基礎年金の支給を受けずに死亡した場合、夫によって生計を維持し、夫との婚姻関係が10年以上のときの、65歳未満の妻がいた際に、その妻に60歳から65歳までに限って支給するものです。その額は、老齢基礎年金の3/4です。これは老齢年金の3/4となっているように、老齢年金の掛け捨て防止の措置ともいえます。)


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