元・還暦社労士の「ぼちぼち日記」

還暦をずっと前に迎えた(元)社労士の新たな挑戦!ボチボチとせこせこせず確実に、人生の価値を見出そうとするものです。

朝ドラ・スカーレット/ 小池アンリの名言=誰かの人生を思うことで自分の人生も豊かになる!!

2020-03-17 10:12:51 | 社会保険労務士
 あの世で聞かれる質問は、十分に学んだか、十分に愛したかの2つだけ
 川原工房に元スキャンダル女優とうわさの小池アンリ(烏丸せつこ)が訪ねてくるが、なかなかどうして、この人物、主人公・川原喜美子には、人生の転機となるような言葉を残して去っていくというような重要な役割設定になっている。アンリは、喜美子の作品にほれており、彼女の不思議な能力は、作品に手をふれてなぞると、音楽が聞こえてくるという。この彼女、しばらく喜美子の家に居候をすることになる。

 ”芸術は人の心を豊かにする”というアンリは、さらに言った。「そうか、もうひとつ教えたろうか。芸術以外で、人の人生を豊かにするものはなんや」と聞いた。喜美子が考えていると「人を思うことや。自分以外の誰かの人生を思うことや、寄り添うこと、思いやること、そしてときにはその人の人生を背負うことや。誰かの人生を思うことで、自分の人生も豊かになるんや」とアンリは言う。<*注意1> 
 
 そして「良い作品を作ってや。また800万円で買いに来るわ」と言って、喜美子の作った作品をもって、足取り軽く工房を後にし、パリに旅立っていった。

 喜美子は、家が貧乏なため、高校にも行かず、大阪の下宿屋のまかないさんをすることになる。そこには厳しい大久保さんという年配の前担当者がいたが、その大久保さんから、晴れて一人前として認められることになる。これが、社会生活の一歩となる。そして、地元にもどり、地元の老舗の「丸熊陶業」ではじめは給仕の仕事に就くが、絵が好きだった喜美子は、絵付け工房に出入りし日本画家の大家である絵付けの棟梁の深先生(イッセー尾形)のもとで、絵付けを習得する。さらに製品企画室に出入りして、夫となる八郎(松下洸平)と知り合い、陶芸をも習得するのである。八郎とは陶芸のやり方等で行き違いがあり離婚することになるが、最終的には、喜美子は穴窯を成功させて、「信楽自然釉」を完成させるのである。

 喜美子にとっては、芸術家としての成功より、無我夢中で走ってきて、「自分の人生」をやり上げたという達成感があったように思える。

 ここで、物語は終わるのかと思ったが、作者の意図はそうではなかったようだ。

 物語は、息子の武志(伊藤健太郎)が大学を卒業して、陶芸の道に進むところまで続くが、その彼が白血病にかかってしまうのである。そこで、喜美子は息子武志のために骨髄の型が一致するものをさがすことになるが、間に合わずに、そのまま息子の命は途絶えてしまうことになる(多分、実話のほうはそうなっている。) そこで、はじめは自分の息子のためと始めたものであったが、ほかの人様のためというボランティア事業に発展して、これが今の骨髄バンクの原型だというのである。

 自分のための人生、それももちろんいい。しかし、喜美子はそこでは終わらなかった。自分の人生の成功のあとに、息子のため、そして、人のために何かをしたのである。作者は陶芸の成功だけでなく、ここまで書きたかったものと考える。

 あの世に行ったときに、2つの質問をされるという。自分の人生を楽しみましたか(または十分学びましたか)というのが1問目。2問目は、人に親切に接しましたか(または人に愛をもって接しましたか)。2問目は、アンリの言うように、結局、自分の人生が豊かになり、自分が幸せになるということなのだろう。
 財産・名誉というのは、あの世に持っていけないというが、あの世で聞かれる質問も、この世の地位等なんかは、聞かれないのである。<*注意2> たったこの質問2つだけなのだという。これこそが、(この世の)人生で一番大事なことで、これしか聞かれないというのである。

 喜美子の場合は、この質問に即座にイエスと答えられるであろう。
 この質問にイエスと答えられるように、人生の多くを占める職場の人間関係や会社の在り様においても、そのような言動を行っていこうではありませんか。<*注意3>  あの世での評価がよくなるだけでなく、この世でもきっと良いことが起きるようですよ。

 作者の言いたかったのは、結局、①自分の人生を楽しめ、②人のことを思って幸せになれ ということなのか。

 <*注意1> スキャンダル女優のいわれは、彼女の一途な、人の人生を思うこということから始まっているものと思う。しかし、喜美子には、小池アンリは一緒に生きていく人生の友として映っていたはずである。
<*注意2> 「ツインソウル」(元 福島大学教授 飯田史彦) 「因果の法則」(斎藤一人)
 <*注意3> ただし、これはその評価は絶対値ではなく、相対値なのである。すなわち自分なりに評価して充分であったか、それとも、不十分であったかということなのである。他人と評価する絶対値ならば、これは苦しいものがある。
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朝ドラ・スカーレット あなたの親からの精神的な独立はいつの時期ですか!?

2020-03-02 10:58:26 | 社会保険労務士
親は養育する一方で無意識に負の負担・劣等感等を負わせる!!
 スカーレットは、後半部分になって、見逃していた重要な場面展開を今になって、改めてその重要さに気がついた。というのは、主人公の川原喜美子が穴窯の自然釉に取り組んでいたとき、漏らす言葉である。穴窯での自然釉が成功するまでの6回の失敗を繰り返し7回目にやっと成功する間のことである。そのころ、夫の八郎とは、女性弟子の恋心にまつわる問題や、陶芸のやり方をめぐって違いが明らかになり、川原家を出ていた。

 「いままで、お父ちゃんやお父ちゃんがなくなってからは夫八郎との許可を得て、物事を進めなきゃならんかった。今は一人自分の好きなようにできる。穴窯の費用の借金も(自分の責任で)自由にできる。こんなに自由なことはない。」

 そして、7回目の焼き入れの前、八郎が訪ねてきて、穴窯焼きにかける日数をさらに倍かけるとのことで、火事になってしまうのでやめてくれ、そして喜美子をいままで女性として見ていたことを打ち明け、喜美子にそんな危ないまねはしてほしくないという。

 しかし、喜美子はいう。「それでも、やる。女性陶芸家としてやってみる。」と言うのである。

 親という場の存在は、子供にとって、養育の場であり、精神的なよりどころとなる。それが、ある時期になると、経済的な独立だけでなく、精神的にも独立していく。いわば、精神的な巣立ちの時期を迎える。

 しかし、その時期がどこかになると人それぞれで、学生を卒業し社会に巣立つ時期であったり、親そのものが偉大であるとその偉大さゆえに、人生後半の親の介護の時期であったり、はたまた親の死亡まで待たないとできないこともあろう。喜美子の場合は、特に、はちゃめちゃな父親が亡くなっても、川原家には夫八郎がいて八郎との間で相談等をしなければならなかった。それが喜美子は妻ではなく女性陶芸家としてやっていくといった瞬間、これが精神的な独立であったと考えられる。特にこの喜美子の時代は、男女同権ということばはあったが、まだ女性が社会進出できる素地はできてなく、そのなかで、女性陶芸家として成功するのは並大抵のことではなかった。そんななか、八郎を振り切って、そのとき精神的独立を果たしたのであり、陶芸の道で成功をおさめたのである。

 一方で、親の存在は前述のように養育者であるとともに、子供への負担を生じる、特に劣等感を温存する元となるのである。自分ができなかったことを子供に期待し、過度の期待をするがために、出来なかったときにしかりはしないが、がっかりした様子をみせる。それを子供は見てすぐに察する。そんな親をみて育った子供は、期待に沿えず劣等感が芽生えることになる。親から子へ、そして孫へと劣等感は連鎖の輪ができることになる。必ずしも、親は養育する存在だけではなく、負の負担(劣等感等)をも植え付ける存在となる。(しかし、親はそうしようとしてするのではなく、無意識のうちにそうなってしまうので、これは宿命かもしれないが・・・。)※1 ※2

 そこで、真の意味での「精神的な独立」とは、この親からの劣等感・負の負担を断ち切ったとき、はじめて成り立つように思う。

 喜美子の場合は、草間柔道の草間や深(ふか)先生やまた離婚するまでの八郎の存在など親の存在以上に、精神的な巣立ちする条件を整えてくれたと思う。

 私のことで恐縮ですが、私の父親からは、社会での成功を願い「鶏口となるとも牛後となるなかれ」と教わってきたが、社会での鶏口とならなかったために、自分はダメな人間と心の中でいつも思っていたように思う。しかし、自分の人生の晩年なって、その親の教えは必ずしもそうではないと思えるようになった。自分が生きている、そのこと自体がすごいことだと思えるようになったからである。すでに両親とも亡くなっている今頃になって・・・※3

 ※1・※3 「大人になりきれない人の心理」(加藤諦三著)
  こんな例えをして説明している。
   ありの子供が穴を掘った。イノシシの子供が穴を掘った。それぞれ自分の体力に合わせて穴を掘った。ブルドーザーが来て、もっと大きな穴を掘った。それを見てアリの両親は子供に言った。「あなたはどうしてこのような穴を掘れないの」 この両親はアリの社会に満足していない。アリの両親は「アリ」が嫌いなのである。こうした子供は親から「死ね」と言われているの同じことである。なのに生きているのだから、自分はすごい力があると自信をもつことである。

 ※2 「スカーレット」でも将にこのような場面がある。第130話である。大野新作と夫婦になっている主人公喜美子の妹の百合子が、娘の桜がピアノをやめたいといったので、叱ったらすねたという。喜美子は百合子を母の仏壇の前に座らせて、娘ではなく百合子自身の気持ちを優先していないかということについて、うまく諭す。川原家・喜美子一家は、貧乏がゆえに喜美子ももちろんだが、百合子も短大を卒業して家庭科の先生になる夢をもっていたがそれができなかったので、全部させてあげたいという。その気持ちが分からない喜美子ではなかったのではないのだが、やはり娘の気持ちを大事にしなければと思ったのだろう。
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