因果応報とはおどろおどろしいものではなく人生の成長過程での他人との貸し借りの原則!!
土佐随一ともいえる作り酒屋「峰屋」の当主として生まれた万太郎。医者の息子とともに万太郎は、藩校である塾(実際は「名教館」というようだ)に通うことを許されるが、それを快く思わない武士の息子らが剣術の稽古と称して、今でいう「いじめ」を行う。もともと体の弱く力のなかった万太郎は、登校拒否ぎみになるが、塾頭の池田に大好きな植物の名称を教わることが縁で、また藩校に通うことが楽しくなる。
人は持って生まれた環境の下で育っていくのだが、江戸の末期のこのころ、まだ身分制度があった時代においては、いかに酒屋として豪商の息子として育ち裕福な身分であっても、士農工商と言う身分制度にはかなわない。武士の息子ととて、そういうまだ身分制度がある中で、同じ塾生として同じ学問の道を志すこと自体が我慢ならんことであったのであろう。だから「剣術の稽古」となったのだ。どちらも、この時代、ありうべき衝突、必然的な結果ともいえる。時代がそういう場面を設定したともいえる。だからなのか、彼(ドラマの万太郎ではなく現実の富太郎博士)はこんな事件ゆえなのか、生涯、他人と全く「平等」の関係で接したという。
人は、あの世から、この世の中で起こりうべき「計画」を立てて生まれ、その時々でどうするかを決めながら成長していくものであるという。(ただし、この世の予想した出来事はこの世に生まれ際に忘れてしまうのだというのだ。)当然、他人とのかかわりを通じて、「計画」を実行していくのだから、万太郎の時代の身分というものがあったように、他人に傷つけられ、また自分が気がついてなくとも( 意図的にはもちろん許されないことですが、意図的ではなくとも、気づかずに ) 豪商であるがゆえに、当主として他のだれかを傷つけていくことがあったかもしれない。しかし、これを実感として自覚することが「因果関係の法則」からは重要なのだ。
「因果関係の法則」というのは、<自分が誰かを傷つけると、いつか必ず自分も誰かから傷つけられ、逆に自分が誰かを助けると、いつか必ず、自分も同じように助けてもらえる ※注>ようにできているというのです。しかも、この世だけでなく、次の世においてこの貸し借り(「気づかずに」を含めた傷つけ助け合う関係)を清算することもあるようです。この因果関係と言うのは、なにか因縁めいた「おどろおどろしい」ものではなく、単に自分の人生の中で、自分が立てた計画を実行して、自分が成長していく糧としていくため、他人とかかり合う関係・出来事であるということもできます。
自分が返してほしくいないものは貸し借りをしないように努めるのが本当のところであろう。しかし、何かの縁では、知らず知らずのうちに、他人を傷つけているかもしれないのだ。そうであるならば、自分が成長するために「因果関係の法則」が働くのは必然的であるのであれば、気づかずに他人を傷つけないためにも、少なくとも、「他人の悪口を言わない」というのが、今自分にできる唯一の方法であるようだ。社会からリタイアーした自分は、今頃、そういうことをいっても後の祭りであろうが・・・。しかも、気が付いてもいまだに実行するのも難しい。前にここで取り上げたように、タモリさんは、その点、実に若いころから、自分を律して心がけていうから尊敬に値する。
気づかずにといえば、自分の例を挙げて恐縮であるが、まだ子供の頃、電化製品のない時代のこと。自分は地方公務員の息子。というのも、父は地方では割と大きな農家の息子であったが、それも3・4番目の息子(何番目かは今となっては不明)であって養子に出されたが、戦後戦争から帰って来ても耕す農地もなく、役場に勤めることになったようなのである。そこで、周りは農家という地域に育った。まだ田植えも手植えをする時代で唯一の人力でないのは田を耕すのに、牛を使って行っていた時代であった。そんな時代だからこそ、日が暮れるまで農家の人々は働いた。一方、私たちはと言えば、年中、同じ時間に夕食になったのだが、夏の日が長いころになると農家の人がまだ野山で働いていた頃に、夕食の時間ということになる。そこで、ある日、母親が「いい身分」だと誰かに嫌味を言われ、しょっちゅう気にかけていたのを覚えている。傷つけあう関係と言うのは、意図的に行うのには差し控えるべきだが、育った環境や文化等の違いから、意図しなくとも傷つけ合うこともあり得るのだ。そして、何となく違和感を覚えながら、そういう関係は、子供の頃、特に小中学校のころは、意図しなくとも自分の「無知」がゆえに、自分のある発言が他人を傷つけあうことになっていたと思うのだ。
今からでも、反省して残りの人生を、他人の悪口を言わず他人を傷つけないようにしたいと思うのだが、本当のところは、難しいと思う自分がいる。というのも、悪口を言うことによって、何か胸のつかえが降りたようにスーッとするように感じるからである。しかし、その時はそう感じても後で後悔するのであるが・・・。そこで、いまさらながら「どうでもいいわ」と言う自分がいるのだ。
何はともあれ「そのどうかしたいと思うこと」だけからでも出発したいと思う。
※注 引用; 完全版「生きがいの創造」 飯田史彦著 PHP文庫 p360~361
<参考> 完全版「生きがいの創造」 飯田史彦著 PHP文庫
変な人の書いた世の中の仕組み 斎藤一人著 サンマーク出版
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