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元・還暦社労士の「ぼちぼち日記」

還暦をずっと前に迎えた(元)社労士の新たな挑戦!ボチボチとせこせこせず確実に、人生の価値を見出そうとするものです。

NHKドラマ・しあわせは食べて寝て待て=人に親切にするのはまず自分を大切にしてから<やれるだけのことはやった>

2025-05-29 16:40:05 | 第2の人生・老後・趣味と勉強
 いい人なのに不幸なのは理由がある!! 
 
 主人公の麦巻さとこは、一生付き合わなければならない難病を発症。フルタイムの勤務ができず、築45年の団地に引っ越し、週4日のパートで質素な暮らしを始める。大家さんの美山鈴、特にそこに居候している司から薬膳の話を聞き、それを取り入れた健康的な生活を送るようになります。そして、彼女は団地の住民たちとの交流を通じ、何気ない日常の中に幸せを見つけるというストーリー。<このドラマの静かなブームが巻き起こっていたようですが 今週で最終回でした。残念。続編はあるの?>

 最終回で、さとこは、大学時代からの友人からのメールでの誘いがあり、また愚痴を聞いてもらいたい言われるのだが、勇気を絞って断る。昔のさとことは違い「やっと自分を大切にできるようになった」って気づく。他人優先から自分を大切にすることが必要だと思えたのだ。そして、彼女が言った言葉が印象的「自分は、やれるだけのことは、やった」と。これでいいのだ。ある思いがあって団地を出ていって山登りをしている司、そして人生のパートナー的な司(決して恋人ではないと思う)に、そのことをさとこは、なぜか電話で報告する。最後の場面で、司が団地に帰って来た様子、団地のベランダから鈴とさとこが「おかえりなさい」と言う(司にも帰る場所があったのだ!)シーンが映し出されたのだ。

 斎藤一人さんは、人に親切にすることを説きますが、自分への親切を絶対に忘れてはならないという。自分に優しくすること、自分をまずかわいがること、そして人にも親切にする、他人への愛はその後だという。どうして、自分が最初なのかは、自分にできないことは、他の人に出来るわけがないといいます。自分の心が泣いていながら、人に愛で接するとありえないでしょうと言う。自分が「こういうのが親切なんだな」「こんな声掛けがうれしいなだな」と知らなければ、人が喜ぶことはできないのだ。

 また斎藤氏はいう。世の中には、「いい人なのに、どうしてうまくいかないの?」と不思議なケースがあるという。誰でも優しくて素晴らしい人なのに、なぜか悪いことばかり起こる。観察すると、すぐに理由がわかるという。たいがい、まわりに感謝のできない人が付いていて、本人の波動を下げているというのだ。さとこの大学時代からの友人もこれにあたるようだ。

  追伸;さとこの成長としては、司がいなくなったため、鈴さんの手づくりの作品提供の場はないかと探すことから、団地の共有スペースの活用を考えだしたが、資金の面で行き詰ったところ、職場の唐社長が市の補助金の利用を提案、またこれが動き出すという将来の展望を感じさせるところで物語は終わっていた。これもさとこが団地の高齢者のために、何かをしたいと動き出すものであり、人への親切の最もたるものであろう。自分をまずは大切にして、そして他人の親切という、斎藤さんの言う「親切」がかなうことになるのかな?!

 最後の最後の話(余談)ですが、斎藤さんの話の「人への親切」って、なんのためしているのということなのだが、これってドラマのテーマにあるように、「幸せ」にたどり着くためなの と思う。まさに、「しあわせは食べて寝て待て」ということなのだろう。ちゃっと食べて、自分を大切にして、寝てから充分体が回復してから、人のために何かをやってもみると、幸せがやってくるということかな。

 

 

 

 

参考・引用 斎藤一人著「本質」p25 p30・31

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NHK朝ドラあんぱん=人生の「覚悟」より「楽しむ」こと<寛の名言=人生の指針>

2025-05-27 18:51:50 | 第2の人生・老後・趣味と勉強

 何をして生きるか見つかるまでもがけ、「かもしれん」人生の覚悟と責任、投げ出すのは許さん<寛の人生の指針・名言集>

 ついに、嵩と千尋を育ててきた伯父の医師・柳井寛がドラマの中から退出することになった。彼の名言を今後も期待していた私としても、非常に残念なものがあるが、史実においても 事実のようであるので仕方がない。このドラマの中で、いい味付けをしているヤムおじさん「いい奴ほど 早く死んでいく」(「人生ってうまくいかないことばかり、覚えとけ」とのセリフも私としては気に入っている。)というようなセリフがあったが、それが伏線となったようである。私の気に入った寛の名言を、人生の指針たるものに絞って、振り返ってみる。

 柳井嵩と柳井千尋に「何のために生まれて、何をしながら生きるがか。何がおまんらの幸せで、何をして喜ぶがか。これや! というもんが見つかるまで、何べんでも何べんでも必死に考えろ。

 絵をかいて生きていきたいという嵩に「現実的ではないな。絵では食うていけん。それやったら、現実と折り合いをつけるしかない。図案なったら食うていけるかもしれん。本の挿絵や広告を描けたら・・・。いや、断言はできん。食えるかもしれん。かもしれんに人生をかける覚悟はできているか。よし、嵩は美術系の学校にすすめ。自分が決めた道やき。おまんが責任をもて。」

 妻の千代子が、東京の美術学校に行っている嵩がすぐにかけつけることを、病の床にある寛に告げると「今頃卒業制作に必死でがんばっているのじゃろ。わしが邪魔してどうする。最後まで描き上げんと、半端でもどってくるんだったら殴ってやる。嵩が決めた道や、嵩が生きる道や。投げ出すのは許さん。嵩も、千尋も投げ出すは許さん。」⇒千代子は間に合わなかった嵩にそのことを伝え「寛さんと嵩さんは、やっぱり、心が通じておったんだね」という。

 人生、どう生きるかを探せと、食えないかもしれない絵の道でも後押してくれ、そして人生の厳しさを身をもって教えてきた伯父。現代的な言い方で、一言で言うならば、育ての父として、自主性を重んじ理想の父を演じたのである。彼の言いたかったのは、一筋に「自分で決めた道に、人生としての覚悟を持て」ということであろう。私自身の人生を振り返っても、人生にはいろんな困難を伴う場面があるが、そこで、やはり相当の覚悟をもって挑まなければならないことがあったように思う。腹を括って望む時があるように思う。そうでないと、跳ね返られる恐れがある。人生は自分の責任で、覚悟をもって、進むしかないのである。

 覚悟をもってな望まなければならない人生であるが、それは、地上の世界しか見えない我々が言うことであるようだ。そうでない斎藤一人氏や飯田史彦氏によれば、人生の試練というものは、神と相談して、その人の人生の「学び」に応じて、その段階・段階に応じた試練が出てくるようになっているといいます。だから、その人生では乗り越えられない壁はないといいます。どんなに乗り越えられない壁のように思えても、必ず乗り越えられるというのです。だから、覚悟というより、「たのしむ」ことだと斎藤一人さんは言います。それが人生で大事だという。楽しみながら、そのことにより、いつのまにか、壁を乗り越えられるということだろう。(斎藤一人著「本質」p169 「斎藤一人20年間の教え」p40・41 飯田史彦著 「完全版生きがいの創造」)

 

 

 

 

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小泉農水大臣のセクシー発言の誤解=日本と「気候サミット」との認識違い<大臣の発信力に期待>

2025-05-24 13:12:22 | 経済・歴史

 まずは批判でなく小泉農水大臣の行動力と発言力に期待したい!!

 小泉進次郎氏が農林水産大臣になって席もあっためる暇もなく、マスメディア等に登場し、既存の米流通システムを度外視するような、米価格引き下げの政策を訴えている。その行動力と発信力には驚かざるを得ない。見方によっては、うまくいかなかったらどうするんだとか、価格が下がりすぎた後、持続的・安定的な価格にするにはどうなるんだ、ただ引き下げだけで農家を保証するような価格帯を実現するにはどうするんだとか問題視する意見も多い。

    ただ、消費者が米を主食としないような状況(コメ離れ)になったり、アメリカやほかの外国の米が市場に出回り、農家が米を作る作業を放棄するような事態になることも憂慮すべきである。そうなれば、既存の培ってきた流通システムそのものも崩壊しかけない状況となるため、今は米政策が崖っぷちの場面であることを認識した上で、まずは目の前にある下がらない米価の引き下げに専念すべきである。そして、その後に、米の価格が生産者・消費者が共に納得できるような価格で安定維持できることを願いながら、小泉進次郎農水大臣の手腕に期待しようと思う。

 小泉大臣が今回農水大臣になったことから、過去のセクシー発言を取りあげられた。これは、小泉大臣が環境大臣だった2019年9月のこと、ニューヨークの国連本部で開かれた「気候行動サミット」関連イベントで記者団に対し、「気候変動のような大きな問題は、楽しく、クールで、セクシーであるべきだと思う」と発言したことにある。この発言は、国連気候変動枠組条約(UNFCCC)の元事務局長であるクリスティーナ・フィゲレス氏が以前使っていたもので

”On tackling such a big-scale issue like climate change, it’s got to be fun, it’s got to be cool. It’s got to be sexy too,”

「気候変動のような大規模な問題への取り組みは、楽しく、かっこ良くあるべきだし、また、セクシーであるべきだ」

 このsexy”(セクシー)には、性的な魅力を表す「セクシー」ではなく、「魅力的な」「人々の関心を引きつける」の意味で使ってあるのです。このことばを気候行動サミットの場では、気候変動の共通言語として、皆使っている言葉なのです。気候変動の問題は、一般的には、地球規模の大変な問題だけども、経済との調整等においては、今もなお、直にそちらの方法に傾けられないものを含んでおり、そのため、「楽しく、クールで、セクシー」に続けるべきだとの発言だったように思う。

 手元の辞書で確かめる。フェイバリット英和辞典第4版では、①セクシーな 性的魅力のある (例)a sexy dance セクシーな踊り ②「口語的」(流行などが)(最新で)魅力のある、かっこいい とあり、また、ALC(クラウド)では、①~③ 日本語のセクシーに関する意味 の他に ④<話> (物事が新しくて)格好いい、人目をひく、人を引き付ける、最先端の のように、最近のことばとして、いわゆる、「かっこいい」という意味で使っていることが分かります。

 それがどういうわけか、日本では、セクシー=性的な魅力の意味があまりにも強いため、マスコミも全く注釈抜きで、この場面を取りあげたため、いわゆるセクシー発言として広まってしまいました。本人もあとで(帰国してから)、発言の趣旨を伝えたマスコミもありましたが、あまりにも日本でのセクシーの意味が強かったため、この誤解はその後も続いているようです。

 少なくても、過去の小泉農政大臣のセクシー発言は、こういった文化の違いからくる誤解だったように思うし、彼に誤解を解く場面が、完全な形で与えられなかったことは残念に思う。さて、今回の小泉氏が農政大臣に緊急登板したことについては、特に大きな実績がないのにと危ぶむ人がいるようですが、ここは、大臣が誰もしなかったことに踏み込んでいるようですので、ひとまず、その結果がでるまで待とうではありませんか。既に1年程待ったのですから、6月の初めには、店頭に備蓄米が2000円価格で並び、それが他の銘柄米を合わせた上での「平均価格」にどう影響を及ぼすか見極めようではありませんか?それから、批判をしても悪くない。

 決して、私は小泉氏のような都会育ち(小泉信奉派)でもありません。むしろ田舎の米農家の間で育ち地方創生に立った地域振興派です。今のまま、米の政策がうまくいかなかったら、今後、地域は、うまく動いていくのでしょうか。ますます疲弊していきます。単にマイナスの補助金行政でなく、自立した地方に切り替えるべきです。小泉さんの頭にあるような農政の転換点(それがなんなのか?)にあることは間違いないように思います。

   なお、店頭2000円の価格説明における「減価償却」(※)発言の勉強不足を取りあげる向きもあるが、そのことよりもむしろ、彼のアナウンス力により、流通が停滞していた米も出てくること(・・・結構、いわゆる目詰ま分?がぞろぞろ出てくるかも。)を期待する方がいい。大臣自身それを見越して、急激な価格引下げを行う旨のテレビ出演をしているのだと思うのですが・・・・ 

 ※減価償却は固定資産に使う言葉で、米の費用には使わない。会計学を勉強した者にとっては、常識ではあるが、今はそんな揚げ足取る場合ではない。

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NHK朝ドラあんぱん=何のために生まれ生きる?⇒人を喜ばせること<あの世の2つの質問に一致>

2025-05-03 18:44:35 | 第2の人生・老後・趣味と勉強

 「人生を楽しみましたか(充分に学んだか)」「人に親切にしましたか(充分に愛してきたか)」人生終了時に

 柳井嵩は、浪人して自分のいくべき道(絵をかくこと)を決め、見事に東京高等芸術学校に合格した。合格発表に付き合った叔父の柳井寛は、小さいころに食べていたあんぱんをほおばる嵩を見ながら言った。「清(嵩の父・寛の兄)が生きちょったら、おまんの合格をさぞかし喜んだやろうにゃ。嵩、何のために生まれて、何のために生きるか。わしは思うがよ。それは人を喜ばせることや。おまんのあんなうれしそうな顔見て、わしもこじゃんとうれしかった。人生は喜ばせごっこや」と話した。

 のこの言葉。「人生は喜ばせごっご」や、「何のために生まれて、何のために生きるか。・・・それは人を喜ばせることや」も名言であろう。朝ドラは、名言・金言の宝庫であったが、最近の朝ドラからはしばらく聞かれなかった。しかし、あんぱんの第4週{なにをして生きるの」から、寛が嵩兄弟のけんかの仲裁に入って説得するのを見てから、今回のあんぱんに限っては、名言が聞かれそうと思っていたが、寛の口からついに出たのである。

 この世の人生を終了してあの世で質問されるのは、斎藤一人氏にいわせれば、次の2つのことばだという。「人生を楽しみましたか。」「人に親切にしましたか」だけだという。「人生を楽しんだか」というのは、必ずしも楽しみでけではなく、苦しみも多かろう。しかし、一方でその達成感や楽しみは、それを超えるものがあるのだろう。だから、この「人生を楽しみましたか」は、その人生を「十分、体験したか」ということなんだろうと思う。また、「親切にしたか」というのは、生きていくうえで、人に「大きな親切」をしたかということではなく、単純に、誠意や真心をもって人に接したかと言うことであろう。

 だから、「人生の喜ばせごっこ」をするということは、とりもなおさず、この2つのテーマを満足することであろう。「人生の目的とは、人を喜ばせること」は、「人生を楽しみましたか。」「人に親切にしましたか」の両方を成就させるのだ。

 斎藤一人氏の言葉は、この社会の人々の人生に寄り添った言葉であって、飯田史彦氏に言わせると(=マスターのことばとしての直接的な言葉)「充分に、学んで来たか」「充分に、愛してきたか」なのだという。充分に学んだかというのは、人生という体験を十分にしたかということであって、一方では、斎藤一人氏のいう「人生を楽しんだか」ということなのだろう。また、「愛してきたか」も、日本人には、「愛」そのものが、まだなじみにくく誤解されがちな表現なので、斎藤氏はあえて「親切にしたか」と言う表現にしたのだろう。

 人はこの世に生まれて、この世の人生を経験して経験しつくして(学んで)、人との「愛」をはぐくんできたかということが、その人生の目的なのだろう。だからこそ、あの世で問われる質問は、2つだけなのだろう。なぜだか、地位・名誉、お金や財産は、この中に入ってはいないのだ。マスターに言わせると、これらは「この人間社会だけの価値」だという。*

 寛の言う「人生の喜ばせごっこ」で生きてきた者にとっては、この2つの質問に、両方とも即座にイエスと答えられることは、間違いないだろう。

*ツインソウル 飯田史彦著

 

 

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