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勝海舟の人生を振り返る(8)-難局をどう乗り越えるか

2017-07-06 20:45:31 | 日記
慶応4年(1868年)は明治元年。前年暮れに「憤言一書」を書いて退職願を出した勝海舟ですが、正確には軍艦奉行は在籍のままでした。しかし幕府内部からも薩長に通じていると難しい立場にいました。年が明けた慶応4年はご存知の鳥羽伏見の戦い。このとき勝海舟は江戸にいます。鳥羽伏見の戦いで敗れに徳川慶喜が軍艦開陽丸で帰ってきたとき幕府内部は大混乱で抗戦派と恭順派が入り乱れ収集がつかない状態でした。本来、徳川慶喜と勝海舟は身分も違うし肌も合わない関係でしたが、その徳川慶喜から呼び出され薩長との交渉を頼まれます。この時期の勝海舟は1月17日に海軍奉行並、1月23日に陸軍総裁、2月25日に軍事取扱と目まぐるしく変わります。勝海舟にとっては地位にこだわりはありませんが、ようは相手との交渉でどの立ち位置にいるかということです。2月12日には徳川慶喜が上野の寛永寺に謹慎。3月10日に勝海舟の使いで山岡鉄舟が駿府の西郷隆盛に会います。3月13日、14日は勝海舟と西郷隆盛の直談判。3月15日の江戸総攻撃が中止され4月11日江戸城の引き渡しー世にいう江戸城無血開城ですが、ことはそう簡単には進みません。それまでも天璋院篤姫や皇女和宮をはじめ江戸庶民を守るために街火消の新門辰五郎や浅草の弾左衛門、そして幕末三舟といわれた山岡鉄舟や高橋泥舟など、勝海舟はあらゆる人脈を使って江戸城無血開城を成し遂げるのです。この難局を乗り換えたのは、身分、地位を超えた勝海舟の人脈であったのでしょう。
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