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闘神伝説~李小龍(85)【李小龍「死亡遊戯」完成計画】Part1 “韓国動作片的父”編

2017-05-30 09:58:39 | 闘神伝説~李小龍

さあ、特別企画「激突!3大猛龍黄金フェスタ」第3弾は、いよいよ本企画のクライマックスである「死亡遊戯」スペシャル【李小龍「死亡遊戯」完成計画】をPart1&Part2の2部構成としてお届けします。先日発売となり既に多くの方々にご好評を頂いている「激闘!アジアンアクション映画大進撃」。
私はこの「激闘!~」で邵氏公司の激動の歴史を執筆した原稿とは別にもう1本、岡本敦史君との対談「知られざる70年代韓国アクション映画の世界」の中で、李小龍が残した未完成作品「死亡遊戯」に関する本邦初の驚愕の新事実を明らかにしています。
ただ頁数の関係などの諸事情で、私が同対談の場で語った「死亡遊戯」の新事実はその全てが掲載されたわけではありませんでした。
だとしたら、長年に渡って数々の「死亡遊戯」検証プロジェクトを掲載して来た当ブログ「超級龍熱」が「激闘!~」で掲載出来なかった部分も含めて、その李小龍が残した「死亡遊戯」の新事実をノーカットで皆さんにお届けする。それこそが本プロジェクトの使命なのです。
さて、私がこの「死亡遊戯」に関する新事実を知ったのは以前に何気に韓国のネットを検索していて発見した古い中文の新聞記事でした。
それは亡くなる直前の李小龍の「死亡遊戯」完成に向けての執念と熱意が込められた記事であり、その【李小龍「死亡遊戯」完成計画】には李小龍とある1人の偉大な韓国人監督との固い信頼関係があったのです。その韓国人監督こそ“韓国アクション映画の父”鄭昌和でした。
1928年ソウル生まれの鄭昌和監督は、まさに韓国人映画監督の力量をアジア、いえ世界中に知らしめた韓国映画最大の功労者です。
鄭昌和監督が香港に活動の場を移す以前の韓国時代の作品群をここで詳しく触れられないのが残念ですが、「風雲の宮殿」(57)や「黄昏の剣客」(67)など様々なジャンルは勿論、日本でも奇跡のビデオ化を果たし劇中で黄海が見せる迫力の格闘シーンが秀逸な「ノダジ」(61)など鄭監督が残した秀作を挙げたらキリが無いほどです。
そんな鄭監督を自ら香港映画にスカウトしたのが邵氏公司のドンである邵逸夫で、韓国から香港の邵氏公司に招かれた鄭監督はまず「艷諜神龍」(67)や「千面魔女」(69)などを発表します。
これらの作品は韓国人が香港に乗り込み悪い香港人を倒すというパターンが見られ、この鄭監督の「アクション映画を通して韓国人の地位向上を訴える」という強いメッセージ性が見られる点に注目です。そういう意味では鄭昌和こそまさに韓国映画人における真の愛国者でした。
その鄭昌和監督の名を一躍世界中に知らしめたのが羅烈主演「キングボクサー大逆転」(72)でした。この「~大逆転」は作品の随所に見られる残酷描写だけが取り上げられがちですが、そのテンポ良いストーリー展開、細かく丁寧な人物描写、アクションシーンにおける切れ味良いスピーディーなカット割りなど、それら全てが当時の邵氏公司所属の監督たちの技量を凌いでいました。
私が思うに、この当時に鄭監督と同じレベルの映画的センス及び優れた技術を持っていた香港の映画監督は恐らく胡金銓だけでしょう。
そう、この鄭昌和監督こそがクンフー映画を得意とするアジア人監督の中では稀に見る“大人の観賞に耐え得るクンフー映画”を撮れる映画監督だったのです。
生前のリーさんこと李小龍が香港、アジアの映画監督でその技量を高く評価していた人物が3人いました。1人が胡金銓、もう1人が楚原、そして3人目が鄭昌和でした。
特にリーさんは鄭監督作品のリアリズムに満ちたアクションや作風、そしてプロ意識を高く評価していて、既に「ドラゴン怒りの鉄拳」(72)撮影当時から「鄭昌和導演の「キングボクサー大逆転」は素晴らしいね。何時か機会があったら鄭導演と一緒に仕事がしてみたいな!」と語っていて、実際に鄭監督に協力を願い出たのですが、その当時はまだ鄭監督が嘉禾影業のライバル会社の邵氏公司所属の監督だった事もあり、鄭監督はリーさんの申し出を辞退しています。
その後リーさんは自身の監督デビュー作品「ドラゴンへの道」(72)制作時に鄭昌和監督に再度協力を依頼しようとしました。
しかしこの時期の鄭監督は韓国で同じ嘉禾影業作品で柯俊雄&苗可秀主演「黒夜怪客」(73)を撮影中で、その撮影はかなり長期(撮影カメラマンの殉職事件など不幸なアクシデントが起きた事もあり)に及び、リーさんが「ドラゴンへの道」を撮り終わった時も、鄭監督はまだ韓国で「黒夜怪客」を撮影中でした。
そしてリーさんは72年の9月にいよいよ監督兼任第2作にして意欲作である「死亡遊戯」の撮影に入ります。
リーさんが約2ヶ月に渡って五重塔内のセットでカリーム・アブドゥル・ジャバール、ダン・イノサント、池漢載ら3つのファイトシーンを撮り終えた頃、やっと「黒夜怪客」を完成させた鄭昌和監督が香港に戻って来ました。
リーさんは鄭監督から撮り終わったばかりの「黒夜怪客」を試写で見せられると「素晴らしい!これこそ香港で最も高い水準の北京語映画だよ!」と絶賛し、さらに「ねえ、鄭導演。いま僕が撮ってる「死亡遊戯」は僕が監督も脚本も書いて、おまけに主演も兼ねていて、やっと塔内の3フロア分の格闘シーンを撮り終えました。もう僕はクタクタなんですよ。これから「死亡遊戯」の残りの半分を韓国で撮影するつもりなんですが、この韓国ロケの部分を手伝ってくれませんか?」と願い出るのでした。
このリーさんのある意味自身の負担軽減も兼ねた申し出に対して鄭監督は「君が既に「死亡遊戯」を半分撮り終わってるんだったら、何も私が「死亡遊戯」の残りの半分を監督する必要はないんじゃないか?やはり映画には(2人の監督の存在が生む影響に対する)一貫性も大切だと思うよ」と答えたそうです。
それでもリーさんは鄭監督に「死亡遊戯」への協力を強く求めましたが、そこにワーナーブラザースから「燃えよドラゴン」(73)合作のオファーが舞い込んで来ました。
このワーナーが「燃えよドラゴン」制作を決めた要因の一つに、鄭昌和監督の代表作「キングボクサー大逆転」の存在が大きかった事は言うまでもありません。
リーさんは生涯の夢だったハリウッドの大作映画主演のチャンスである「燃えよドラゴン」のためにやむなく「死亡遊戯」の撮影を中断します。しかし年が明けた73年4月に「燃えよドラゴン」の撮影が終了すると、中断していた「死亡遊戯」の韓国での撮影のために鄭昌和監督に再び共同監督を要請します。
この時は既に鄭監督も邵氏公司から嘉禾影業に移籍し活動していましたし、リーさんと鄭監督が共に「死亡遊戯」を監督する事に何の支障もない状態になっていました。
念願だった“韓国アクション映画の父”との共同作業を熱望するリーさんは、鄭監督と何度も「死亡遊戯」の脚本を練り、2人は「死亡遊戯」の“結末”まで話し合う段階に至っていました。
そしてリーさんは鄭昌和監督からとうとう「死亡遊戯」後半部分の韓国での撮影を共同監督として行う事の同意を得ます。
1973年7月18日の事でした。しかし究極の格闘技映画「死亡遊戯」完成に燃えるリーさんには、その僅か3日後にあの“運命の夏の日”が待っていたのでした!!!
以下、【李小龍「死亡遊戯」完成計画】Part2、“大戦黒豹”編に続く!龍よ、聞いてくれ。俺の“龍魂”の雄叫びを!!


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