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超級龍熱

香港功夫映画と共に

龍熱の昭和プロレス放談(107)ドリー☓馬場初シングル!NWA世界フルタイム戦!

2025-09-03 11:20:09 | 龍熱の昭和プロレス放談

1969年12月3日は東京都体育館でドリー・ファンクJr(初来日!)にジャイアント馬場が挑戦したNWA世界ヘビー級選手権を久々に観賞。 
ゲスト解説にアントニオ猪木(!)を迎え、1本目馬場のこれが本邦初公開のジャンピングネックブリーカードロップがドリーに決まり馬場が先取。
2本目はドリーが必殺のスピニングトーホールドで返し、そのまま1ー1で60分時間切れドローとなり王者ドリーがタイトル防衛。 
まず龍熱が感嘆したのが58分過ぎに馬場さんが32文ドロップキックを出した事。当時209cm&135キロはあった馬場さんが延々60分近く闘ってもまだドロップキックを出せる驚異のスタミナに唖然。ただその32文はドリーにアッサリとカワされてましたが。
王者ドリーは試合の前半で馬場さんを執拗にフルネルソンからダブルアームスープレックスで投げようとしますが、ことごとく馬場さんに踏ん張られ失敗。
ドリーが馬場さんをダブルアームスープレックスで投げれるようになるのは2度目の来日からでした。

このドリー☓馬場のNWA世界戦は、現在日本TVに約35分ほどの映像が残っていますが、60分フルタイムの試合なので約25分はカットされてしまったわけです。
逆にこの日、日本TVのゲスト解説を務めたアントニオ猪木が前日に大阪でドリーに挑戦し60分間ノーフォールマッチを披露した試合はNET(現テレビ朝日)にほぼノーカットの試合映像が残されています。
この日のゲスト解説では殆どコメントしなかった猪木さんですが、目の前のドリー☓馬場の激闘を見ながら、きっと心の中で猪木さんは「馬場さん、悪いけど試合内容では昨日の俺とドリーの60分ノーフォールマッチが上ですね!」と1人満足感に浸っていたかも知れません。

Dory Funk Jr against Giant Baba NWA world heavyweight championship match at Tokyo 1969.


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龍熱の昭和プロレス放談(106)韓国の惨劇!アントニオ猪木☓パク・ソンナム。

2025-08-11 10:55:30 | 龍熱の昭和プロレス放談

1976年10月10日韓国はソウルのアントニオ猪木☓パク・ソンナムのNWFヘビー選手権を久々に観賞。 
全身の筋肉が盛り上がり間違いなく当時無敵の猪木さんにパクも強烈なエルボーやニーを叩き込むも、明らかにレスラーとしてワンランク落ちるパク相手の防衛戦に終始苛立ちを隠さない猪木さん。最後は場外乱闘から猪木さんの鉄柱攻撃でパクが血ダルマにされ惨敗。 
韓国SNSの同試合(何故かフィルムが裏焼き)の試合後の映像を見ると、猪木さんのやや一方的な勝ち方に場内の韓国人客たちが殺気立っている様子が映し出されている。

韓国サイドの試合映像→https://youtu.be/_l6SToU7gR0?si=MUj4cCQHmbXHe2En

結局は前日9日大邱の第1戦で起きた猪木さんによるパク叩き潰しマッチが全てで、猪木さんも宿敵ジャイアント馬場を連想させるパクには引き分けすらもNOだったし、そもそも韓国側の猪木さんとパクの格付けを無視した強引な大邱〜ソウルの2連戦要求がこの惨劇を生んだ。 

Antonio Inoki against Pak Song Nam NWF heavy weight championship at Korea 1976.


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龍熱の昭和プロレス放談(105)ホースト・ホフマンが鶴田戦で見せた凄味と実力!

2025-08-11 10:52:07 | 龍熱の昭和プロレス放談

1975年に開催されたオープン選手権福岡大会で実現したジャンボ鶴田☓ホースト・ホフマン戦観賞🔥。いや〜やっぱり“ドイツの帝王”ホフマンは強い!。終盤、ホフマンがジャンボに決めたノーモーションからの急角度バックドロップはまさに戦慄技😱。これジャンボもよく受け身を取ったと思います。
最後も何とかジャンボが勝たして貰った、的な決着。面白かったのがジャンボのブルドッキングヘッドロックの連発にホフマンが全く“対応”出来てない事😆。
恐らくホフマンが主戦場としていたヨーロッパマットではブルドッキングヘッドロックなんてアメリカンな技を使う選手がいなかったんでしょうね。
それにしても世界の強豪が集結したオープン選手権で、こうして全盛期のホースト・ホフマンの試合映像が残った事は大変有意義だと思います。

https://m.youtube.com/watch?v=ELg2lXbKpuY……

Jumbo Tsuruta against Horst Hoffman from All Japan Open Tournament 1976 Japan.


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龍熱の昭和プロレス放談(104)実現していた馬場&マスカラスの激レアタッグ!

2025-05-22 16:26:44 | 龍熱の昭和プロレス放談

昨晩の「龍熱の昭和プロレスシアター」はジャイアント馬場&ミルマスカラスの激レアなタッグ♫。 
この画像のマスカラスのオーバーマスクはユニークですね。果たして会場のどのファンが勝ち取ったのか。
ただ馬場&マスカラスは殆ど連携プレーも無く😅、馬場さんがマスカラスがロープに振ったカルロスコロン(プエルトリコのマ●ィア)を16文でフォール。 
マスカラス☓大木金太郎(またまたらしくないタイツ😆)の対戦も日プロ時代は別にしてこのシリーズが最後だったのでは。 

よく馬場さんがマスカラスを評価してなかった、だからマスカラスと殆ど対戦しなかった、と言われますが、確かにマスカラスの自分勝手プロレスは馬場さんのプロレス哲学に反したと思います。
ただそれだけが理由ではなくて、そもそも馬場さんとマスカラスでは体格差があり過ぎて、ファンが満足するような(例えばPWFヘビー級選手権として)試合が成立しなかったから、が理由だったと思われます。
それでもプロモーター馬場としては、マスカラスの観客動員力(特にチビッ子ファン)はそれは高く評価していたと思いますし、馬場夫人の元子さんが実はマスカラスの大ファンだった事も今では微笑ましいエピソードでしょう。

Rare Giant Baba and Mil Mascaras tag team match in All Japan.


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龍熱の昭和プロレス放談(103)ジャイアント馬場の32文ロケット砲健在!

2025-05-12 11:49:35 | 龍熱の昭和プロレス放談

久々の「龍熱の昭和プロレスシアター」ですが、1979年8月31日大阪のPWFヘビー級選手権ジャイアント馬場☓アブドーラザブッチャーです。 
この映像は当時本放送を録画した物ではなく、CS等で放送した良好映像のようです。この試合、何が凄いって3本勝負の1本目に馬場さんが放つ助走無しの32文ドロップキック! 
馬場さん、この時41歳。209cmがまだまだ飛べる事を証明した貴重な映像で、龍熱はこのドロップキック炸裂!の瞬間は10回くらい繰り返して見ました😅。
2本目はブッチャーが珍しく逆サイドから落とすエルボードロップでタイスコアとしますが、3本目は昭和全日らしく両者リングアウトで馬場さん防衛です。
ただこの馬場☓ブッチャーを見て改めて思うのは、馬場さんとブッチャーは本当に“手が合う同士”と言うか、この2人は何度闘っても観客を湧かせる試合が出来たんでしょうね。
あとプロレス、特にタイトルマッチはやっぱり3本勝負ですよ。1本目、2本目をそれぞれが得意技で取り合い、さあ!決勝の3本目はどうなるか?がプロレスの醍醐味なんだな、を痛切に感じました。

Giant Baba against Abdullah the Butcher PWF heavy weight championship match Aug 31st Osaka Japan.


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龍熱の昭和プロレス放談(102)鉄人伝説を守ったルー・テーズのバックドロップ!

2025-04-17 11:10:07 | 龍熱の昭和プロレス放談

「週刊ファイト縮刷版」第1巻に掲載の超貴重なグレート東郷☓グレート草津のルー・テーズ戦直前対談。
対談で東郷が草津を「タケ」と呼ぶのは草津のアメリカ修業時代のリングネームがタケ・ヤマグチだったから。対談でやたら鉄人テーズに対して大口を叩く草津に日に日にテーズ戦の破滅が近づく・・!
改めて1968年1月日大講堂のルー・テーズ☓グレート草津は60分3本勝負でした。1本目にテーズが急角度のバックドロップで草津を叩き着け草津は半失神。草津はそのダメージで2本目を棄権しルー・テーズが2ー0の圧勝でした。
この敗戦は後の草津のレスラー人生を左右するほど致命的な敗北となりましたが、私はもしテーズがここで草津に2本目を取られ(取らせ)ていたら、例えテーズが決勝の3本目を奪い2ー1で草津に勝っても、そこでルー・テーズの鉄人神話は終わっていたと思います。
つまりこの時期のテーズは確かにレスラーとして晩年に入っていましたが、テーズ自身はまだプロレスラーとしての自分の価値を冷静かつ客観的に見れる人だったのでしょう。
例えテーズがTBSの「新エース、グレート草津誕生!」の切なる要望を十分に理解していても、草津はテーズが直接闘いその力量を認めた力道山やジャイアント馬場とは根本から違うわけで、その草津にもし1フォールでも許したらテーズの日本でのキャリアは終わるわけです。
そのテーズの誇り高きプライドが草津を情け容赦なく脳天から落とすバックドロップとなったと考えるべきでしょう。
そういう意味ではテーズの好敵手だった力道山は勿論、グレート草津と似たようなシチュエーションで若きインター王者としてルー・テーズの挑戦を受けて立ち、堂々と鉄人から2ピンフォールを奪い“馬場時代”を招き寄せたジャイアント馬場は改めて高く評価されるべきでしょう。

Before crisis against Lou Thesz,Great Togo and Great Kusatsu having a dialogue on old Weekly Fight.


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龍熱の昭和プロレス放談(101)死神酋長からアントニオ猪木へ!猪木寛至の青春。

2025-04-09 11:01:16 | 龍熱の昭和プロレス放談

力道山は自分も本人役で出演するTVドラマ『チャンピオン太』(62〜63)に悪役レスラー死神酋長で出演した若手の猪木寛至に「猪木、お前これからリングネームも死神酋長にしろ。うん!決めた!それがいい!」と命名。 師匠の力道山に突然リングネームを死神酋長と命名された猪木青年は真っ青になり、普段から自分を可愛がってくれてる力道山の右腕レスラー豊登の許に走る。
猪木は豊登に「僕はプロレスは男が命を懸ける仕事だと思ってる。なのにリングネームが死神酋長なんかになるなら僕は・・僕はブラジルに帰ります!」と涙を浮かべながら哀願。
猪木に哀願された豊登は力道山に「関取、猪木のリングネームですが、さすがに死神酋長はあんまりですよ。どうかワシに免じて勘弁してやって下さい」と頭を下げた。
“怒濤の怪力”と呼ばれ、リングで何度も自分を助けた弟分の豊登に頭を下げられた力道山は「そうか?いや死神酋長、いいけどなぁ!ちぇっ!」と猪木死神酋長を渋々断念するのだった。 
豊登は何とか死神酋長襲名を免れた猪木寛至に、新たに自分が発案したリングネームを与える。
それが「アントニオ猪木」である。猪木寛至、いやアントニオ猪木は自分が慕う豊登から命名されたこのリングネームを誰よりも深く愛し、愛妻の倍賞美津子夫人にも自分をアントンと呼ばせるほどで、引退するその日まで「アントニオ猪木」を名乗り続けた。
この力道山、そして豊登と2人のレジェンドに翻弄され、また愛された若手時代のアントニオ猪木のエピソードは、龍熱が門茂男さんの著作を読んで今も強烈な印象が残る大好きなエピソードです。

Late Antonio Inoki once played villain call Grim Reaper Chief against his mentor Rikidozan in Japanese TV drama Champion Futoshi.
But after TV drama Rikidozan forced young Inoki to change his ring name to Grim Reaper Chief too.
That horrible idea was cancelled by Toyonobori who treatd Inoki like his brother.


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龍熱の昭和プロレス放談(99)幻に終わったアントニオ猪木☓前田日明戦に想う。

2025-04-04 13:27:48 | 龍熱の昭和プロレス放談

1986年3月26日に行われた新日☓UWF5対5エリミネーションマッチで試合前に握手を交わすアントニオ猪木と前田日明。前田兄貴の“暴走”を警戒した猪木さんはガチに強い上田馬之助と星野勘太郎を両脇に揃えました。 
もしこの時にアントニオ猪木☓前田日明のシングルマッチをやったら?龍熱は猪木さんが勝ったと思う。
但し、それには新日のリングでのシングルマッチ開催、が絶対条件でしたが。 

思うに、この頃の前田兄貴はレスラーとして絶頂期を迎えていたと同時に、例えリング上で相手が自分に“仕掛けて”来た時も、逆にその相手に恥をかかせるような形で応戦、そして制圧出来る実力がありました。
それを前田兄貴が証明したのが前田日明☓アンドレ・ザ・ジャイアント戦であり、前田日明☓長州力の蹴撃事件だったわけです。
つまり猪木さんからすれば、新日のリングでならまだ自分はシングルで前田に勝つだけの自信と体力はある。ただその試合で自分が圧倒的な力の差を見せつけて前田に勝つだけの100%の確信がなかった。
さらに言えば、猪木さん特有のロープ際で相手にビンタを入れるなど相手を撹乱させたり、オチョクルような動きに対して、もし前田兄貴が必要以上に“過剰反応”を見せた時にそれを力で抑えつける自信もなかった。
もしそうなった場合、恐らく猪木さんは例え試合に勝ったとしても、怒り狂った前田兄貴のキックと関節技でボロボロにされたはず。
その無惨なアントニオ猪木の姿をファンに見せないためのシングルマッチ拒否だったのでしょう。

要するにアントニオ猪木☓前田日明のシングルマッチが実現しなかった最大の理由が当時の2人の間にレスラーがリングで肌を合わせ闘う際に必要な最低限の信頼関係が無かったからだと思います。 
ただそれでも、晩年の猪木さんが前田兄貴と再会した時に思わず「前田、お前も変わったなぁ!」と笑顔で歓迎した光景を見ると、改めて龍熱はこの師匠☓弟子の恩讐のシングルマッチは幻に終わって良かった。これで良かったんだと痛感するのでした。

New Japan against UWF elimination match 1986 Tokyo.


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龍熱の昭和プロレス放談(98)アントニオ猪木が愛弟子長州力に見せた師弟愛!

2025-03-29 14:35:32 | 龍熱の昭和プロレス放談

永遠の師弟アントニオ猪木と長州力の鋭い眼光。いま改めて思うのは、長州さんが1988年から89年にかけて猪木さんに3度ピンフォール勝ち(タッグで1回、シングルで2回)した事は、あの前田日明蹴撃事件でレスラー生命を絶たれそうになった長州さんを猪木さんが自分を犠牲にする事ちで“救済”する意味もあったと思う。何故なら、この時の長州さんは前田兄貴に顔面を蹴られて無惨に右眼を腫らし、その場で何のリベンジも出来ず試合を終える事となってしまった。
その後も長州さんは前田兄貴との“名誉回復”を懸けたシングルも実現不可能となり、まさに強さを売りにするプロレスラー として絶対絶命の危機に追い込まれていた。
その長州力が師匠にして新日本プロレスのトップであるアントニオ猪木から3度に渡ってピンフォールを奪う。これほどの栄誉とインパクトはない。
このvsアントニオ猪木3連勝という、前田日明も藤波辰爾も出来なかった偉業達成によって、長州力は再び輝きとプライドを取り戻した。
長州さんが猪木さんを最後まで「会長!」と呼び、親愛と敬意を示し続けたのは自分の窮地を救ってくれた師匠に対する深い感謝の思いがあったからでしょう。

Antonio Inoki against Riki Choshu.Two big legends of Showa era.


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龍熱の昭和プロレス放談(97)結局誰が実を得たか?レスリングサミット顛末記!

2025-03-19 09:57:34 | 龍熱の昭和プロレス放談

Facebookのプロレス検証サイトRing the Damn Bellによると、1990年4月13日東京ドームのレスリングサミットのメインはジャイアント馬場さん提案のハルク・ホーガン☓天龍源一郎をビンス・マクマホンが拒否。 
さらにビンス提案のホーガン☓ダスティ・ローデスも頓挫し、ホーガン☓テリー・ゴディで馬場さん&ビンスは合意するも、何と今度はゴディが拒否。最後にスタン・ハンセンがOKし、ホーガン☓ハンセンがドームで実現したとの事。 
このマッチメイクの混乱を生んだ原因がレスリングサミット直前のレッスルマニア6でホーガンがアルティメット・ウォリアーに敗れてWWF世界ヘビー級王座から転落した事でした。
ホーガン王座転落を知ったゴディは「勝敗もだが、チャンピオンでもないホーガンに負けるなんて俺はゴメンだ!」とオファーを拒否しますが、馬場さんは「ゴディは馬鹿だなぁ。こんなチャンスを捨てるなんて」と嘆きました。
結果的にドームの大舞台でホーガンに負けたハンセンですが、さほどイメージを落とす事なく現役を続け、偉大なレジェンドとして引退した事を考えると、馬場さんの言葉は正しかったと言えます。

Hulk Hogan against Stan Hansen at Wrestling Summit in Tokyo Dome 1990 Japan.


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